チョコレートとレッテルと私
子供の頃からチョコレートが好きだった。
ケーキやスナック菓子も嫌いではなかったが、チョコレートが家に置いてあると、それだけで頬が緩み、気分を昂揚させたものだ。
一口にチョコレートと言っても様々だ。ビターチョコレート、ミルクチョコレート、ホワイトチョコレート――。成分も呼称もその味も多種多様で、それぞれが別物のお菓子とさえ言える。
中でも私は、カカオの比率が高いものが好きだった。苦味がやや強く、鼻に抜ける濃い風味。決して甘さが強い訳ではないが、ほのかに舌の奥で感じる甘みを好んでいたのだろう。甘さが足りないと感じる事もあったが、チョコレート自体のしっかりした味わいは幼い私を魅了し、そして今もまだ心を捉えて離さない。
その想いが高じて、大学を卒業後、そこそこ名の知れている菓子製造会社に就職。そして運よく新製品開発部で抜きん出た業績を残し、ポストも給与も世間一般では悪くないところまできている。
そんな過去のチョコレートへの憧憬を振り返りながら、数時間に及ぶ資料の作成の途中で、私はキーボードを叩く手を止めた。無意識に眉間に手を伸ばし、酷使されている視神経にわずかばかりの休息を与える。まだオフィスにいる私に語りかけるのは、静かに刻を告げる針の音と、パソコンの呼吸音だけだった。終業の時刻はとうに過ぎ、私が今ここに居る事さえ否定するかのような静寂が、気だるく重くなった身体を包んでいる。
その沈み込むような感覚に抗うように、大きく一つ伸びをすると、再度私はデスクで待ち構えている画面に向き直った。一度目を離しただけで、人工的な眩い光が視神経を必要以上に刺激し、先の感覚を私の中に静かに、だが急速に広げていく。
――滅私奉公の人
――新製品開発のエース
いつの間にか周りから私はそう呼ばれていた。その名に背く事がないよう、期待を裏切ってしまわないよう、入社して十数年が経った今も、こうして手当ての無い残業を毎日のように繰り返しているのだ。
勿論、だからと言って新商品が必ずしも成功するわけではない。今回も私の手がけた春の新製品であるチョコレートの売れ行きは、現在のところ、芳しくなかった。不振の原因の調査、今後の改善点と売り上げ見込みを報告し、速やかに対処する。そのために今も鉛のような身体を自席に留まらせ、何度も見返した資料やグラフと、パッケージの画像に視線を注いでいるのだ。
黒一色で味気ない包装と、取り立てて特徴の無い味――。
不振の原因は明らかだった。だがそれを認めなくない私の中のささやかな意地と、最前線で戦う私が倒れるのを待ち望んでいる同部署の奴らの姿が、作業の遅延をもたらせている。
「ほら、美味いじゃないか……」
画面の中と同じ包装を一枚破り、その一欠片を口に放り込む。舌の上に広がる控えめな甘さに、やはり取り立てた特徴は無い。だが私の長年憧れていた素朴で純粋な、しっかりとした味――。この味を求めるために、原料の仕入先から、製造工程まで、かなりの時間と労力を費やしてきたのだ。
そもそも私自身、この商品にそこまでの爆発的な売れ行きは期待していない。味のわかる人間だけわかってくれればいい。それに、大ヒットこそ無くとも、このしっかりした味わいを保つならば、本物のチョコレート好きには安定して好まれ続けるだろう。
しかし、私の思惑の範囲内であった売り上げ額に、会社は見直しを求めてきた。原材料費にもコストをかけているので、確かに会社の利益は薄い。また、私に対する会社の求めるものが私の想いと大分ずれていたのかもしれない。一度私の意見を飲んで、開発を進めた仲間や上司も見直しを求めてきている。
売り上げを回復するのは簡単だ。
対象を子供にするか大人にするか、はっきりと絞り、購買意欲を刺激するよう、外見にも手と金をかけ、味も何かを加えて不自然にでも濃く、そして甘くしてやればいい。無論、そういった菓子を否定する気は私にはない。それらは言わば、けばけばしく下品とも言えるが、人を惹きつける歓楽街の店で、私が求めるのは静かな街外れでひっそりとこだわりの料理を出す店なのだ。
とは言え、これが私の我儘でしかない事も理解はしている。だからこそ、大きな売り上げ効果を見込んでいなかったのだが、それも許されなかった。今となっては沸き起こる感情に整理をつけ、片隅に追いやり、会社員として、開発のエースとして、会社の利益になる答えを出す必要がある。
もう一度、黒い包装を破って夢の結晶を味わう。そして大きく一つ息を吐くと、改善策として原材料コストの削減、異なる濃い味にするための調味料の添加、そして包装の変更を一気に書き上げた。
「あ、おかえりなさい」
いつも通り、深夜だというのに私が帰宅するのを妻は待ってくれていた。既に日付すら変わり、周囲も寝静まっている。だがそんな生活をもう三年続けているこの妻は、きっと苦とも思わずに私を癒してくれているのだ。まだ母でこそないが、良妻賢母とは妻のような女性のためにあるのだろう。
「しばらくは先に寝ていなさい、って言っただろう?」
口元が緩みつつも、妻にそう注意する。妻も私が本気で怒っていないどころか、密かに胸を熱くさせている事を知っているかのように、笑って食事の支度に取り掛かっている。
「ちゃんと寝て、身体を大切にしないと」
「うん、わかってるよ。ありがとう」
妻は私の気遣いを流しながらも、微笑を投げてくる。その膨らみが目立ち始めた腹部に優しく手を添えながら。
夕食と言うには余りに遅い食事がテーブルに並べられた。刺身と味噌汁。身重の妻の手を煩わせないため、二人で話し合って決めたこういった簡素な食事がここ数ヶ月続いている。
「お仕事、お疲れ様。あなたこそ身体壊さないでね。私、ううん、私『たち』が困っちゃうから……」
私の食事の様子を向かいに座って見つめながら、妻はそう笑ってその膨らみを静かに撫でている。素直に愛しいと感じた。先程までの挫折感や鬱憤、不満は姿を隠し、妻を、そして直に産まれて来る新たな家族への想いが私を温かく真綿のように包んでいく。買ってきただけの刺身も、簡単な具しか入っていない味噌汁も、私の夢のチョコレートなど足元にも及ばぬ極上の味だった。
その夜、久々に妻を抱いた。妊娠中という事もあってずっと交渉は控えていたのだが、私の感謝と想いを伝えるに他の方法は思いつかなかった。
――無粋で不器用。そんな私の想いを妻は受け容れてくれている。大事な時期であるというのに、毎夜仕事で遅くなり、寂しさや不安を抱かせている事も詫びたかった。
「私はあなたと一緒に居たいからそうしてるんだよ。あなたのために、だけじゃなくて、私自身のためにも、ね」
妻は私の謝罪に、紅潮した顔で息を整えながら、今更何を、といった表情を浮かべていた。
そして私は長い一日を終える。甘い汗の匂いと心地良い疲れ。気だるく、それでいて心を満たす空気が漂う寝室で、隣で眠る妻の髪を撫でながら。
翌朝、私達が目覚めたのは、いつもより大分遅い時刻だった。普段から早めに出社するので、この時刻でも遅刻こそしないだろうが、のんびりと朝食を摂る時間はない。春眠暁を覚えず、ではないが、二人とも知らず知らず疲れが溜まっていたのかもしれない。まして妻の体調は不安定な時期なのだ。責めようはずも無かった。
ただ朝の忙しなさで妻とはあまり話はできなかった。出社する私を、パジャマ姿のまま申し訳なさそうに見送る妻の姿は、昨日の事もあったせいか、その妊婦姿に似合わず、艶やかでなまめかしく私の目には映っていた。いつも通りの、いや、いつもより僅かに忙しなく、そして僅かに心温まる朝だった。
長らく押入れに片付けられていた喪服と、糊の利いた真白いカッターは、焼香に訪れた参列者に頭を下げる度、私の首筋に痛みを積み重ねていく。
あの日あの時まで、私は幸せな日常の中に居た。仕事で悩む事こそあったが、それを補って余りある生活が、家庭に、妻によってもたらされていたのだ。
首筋の熱さを感じながら、祭壇を見つめる。樒や生花に周囲を飾られた写真の中の妻は、記憶よりも若く美しい。アップになった写真に映っていない身体も、身籠っていた現在とは違い、もっと細かったはずだ。新婚旅行の時に撮ったものだから、三年程前になるのだろうか。妻は何も語ることなく、その微動だにしない微笑を私に向け続けている。
全てが夢の中の出来事に感じた。この葬儀も、こうして喪服を着て頭を下げている自分も。どこか芝居じみていて現実から乖離している。何よりも、私の中に特別な感情は沸き起こってこない。
あの日、会社で改善資料を提出しようとしていた私を呼び出した電話は、まさに夢――悪夢のようなものだった。受話器から伝わってくる言葉は、暗く沈んだ声で、それでいて淡々と妻の身に起こった事実を告げる。仕事の電話のように、一語一語が意味を持って私の中に落ち着くことは無かった。言葉がただ言葉として、私の中を流れ去っていった。
駆けつけた病院で受けた医師の説明も同様だった。何だったか妊婦がよく罹ると聞いた事のある病名を告げられたが、その時の私はそんなことに興味はなかった。ただ「母子ともに助からない」という事実だけが耳に残っている。それもまた、寝起きについさっき見た夢を思い出し、現実との境目を探しているような、どこか遠い世界の出来事を夢想するような、曖昧模糊とした感覚だった。
妻の葬儀は滞りなく終わった。親族も会社の皆も、わざとらしく作った沈痛な面持ちで参列してくれた。中には涙を流している者もいた。
滑稽だった。誰もわかっていない。愛する者を、家族を唐突に失った私には、哀しみなどないのだ。あるのは違和感と疲れと、非日常に包まれた私自身も理解の出来ない高揚感。
香典の処理や葬儀の後始末を終えると、待つ者がいない自宅に、白い布を被った箱に納められた妻と共に戻る。業者が前もって作っていた小さな祭壇に、妻は、そして妻の中の我が子は座った。その狭い空間に居る事が当然のように綺麗に、静かに収まっている。
妻の前に腰を下ろして線香に火を点けると、急に疲労感が押し寄せてくる。そう言えば「疲れが出るだろうから」と葬儀の終わりに心配した親類が家に寄ってくれるという申し出もあった。しかしそれを私は断っていた。二人、いや家族三人でゆっくりしたかった。そして何よりも型にはまったお悔やみの言葉や、同情の念はもうたくさんだった。
「優しくていい奥さん」
「内助の功の人」
皆が示し合わせたように妻をそう評した。だがそれらはどこか腑に落ちない。
確かに妻は優しかっただろう。だがそれだけで妻を表す事はできない。彼女の厳しさも知っているし、関わり合いになりたくない人間を冷たくあしらうところを見たこともある。
私の昇進や活躍は確かに妻の支えがあってこそだろう。だがそもそも妻と結婚したのは私が今の立場になる直前だし、心の充実はともかく、結婚していなくてもそれなりに仕事はできていたはずだ。
私自身、妻を「良妻」と感じた事もあるが、それはあくまで私の想いを言葉にすると、それが近い、というだけのものだ。そんな言葉で妻を表すことはできない。ましてや他人の言葉では、到底妻という人間をまとめられないのも無理はない。いや、「妻」「家内」「奥さん」という言葉さえ、ただ彼女の立場を表すだけだ。
思考を巡らせる事に脱力感を覚えた私は、大きく伸びをすると冷蔵庫から缶ビールを取り出した。妻が気を利かせて、いつもよく冷えた状態で三本は入れてある。もう勝手に補充される事のないビールの一本を手に、持ち帰っていたノートパソコンを開いた。聞き慣れた起動音が、私が今、現実の世界に存在している事を証明するかのように、私の心を落ち着かせてくる。
苦く冷たい液体で喉を湿らせ、動き出した画面を操作し、あの日のままの仕事のファイルにポインタを合わせる。二人で最後の夜を過ごした日付がそこに記されていた。少しの逡巡の後、そのファイルを開いた。これであの日の日付は失われる。しかし今の私はその日付にこだわってはいけない気がした。そしてまた、仕事がこの空虚と脱力感とを忘れさせてくれそうでもあったのだ。
そこには先日、苦悩の末に書きこんだ新商品の改善策が記されている。空腹とそれによる酔いも手伝ったのだろう。開いただけで何も打ち込むことは出来ない。それどころか、夢の結晶を諦めなくてはいけない無念、そしてその味よりも優しく私を包んだ妻との時間。そんなものが私に甦ってきていた。目の前の画面が静かに歪んでいく。そしていつしか私の口から漏れる声が、線香の香りの漂う室内に響いていた。
翌朝、微かな気恥ずかしさの中、私は着替えて買い物に出かけた。葬儀を終えて一区切りが付いたからか、それとも昨夜の涙が私に時間の流れを感じさせたのか。いずれにせよ、ほとんど食事を摂っていなかった身体は、激しい空腹を訴え続けている。妻がよく買い物に行っていた近くのスーパーへ足を運ぶ事に決めたのだ。
家を出ると、春の匂いが辺りを包んでいた。間もなく桜も咲き、新たな旅立ちを迎える人々が希望に胸を膨らませているのだろう。不愉快なまでにどこにでも気分を浮かれさせる要素がある。道行く学生も、開きかけた蕾も、どこかそわそわとして落ち着かない。温かな空気と軽い苛立ちは、私の眉間に皺を刻み、そして足を速めさせた。
辿り着いた先には何も変わらない日常があった。
きっといつも通りの服装であろう主婦が大勢、真剣に値札を見比べている。片隅にある小さな文具店の広告看板と、旬の食材を紹介した札の他、春を感じさせるものは何もなかった。
「はい、旬のお魚どうですかぁ」
威勢のいい男性の声で歩みが少し緩まる。このスーパーの魚売り場は、奥で捌いた魚を出している。そんな事も知らなかった私には、ちらと窺えるその奥の様子は、興味を覚えさせるものだった。専門の業者が営んでいるのだろうか、先程の声はゴムエプロンの似合う中年男性が発したものだった。
「今日はサワラと真鯛のいいのが入ってますよ、どうです?」
私が興味を持ったのを見逃すことなく、男性ははっきりと私に向けて、それでいて周囲にも聴こえる声をかけてきた。男性の言う通り、『鰆』と『桜鯛』と書かれた札と光沢のある魚が並べられていた。
「これで『サワラ』と読むの?」
恥ずかしい事に漢字が読めなかった私がそう尋ねると、男性は嬉々として頷き、聞きもしていない事まで語り始めた。自身の薀蓄を語れるのが爽快なのかもしれない。
サワラとは「狭腹」が語源で、冬から春先が旬なのだそうだ。春が近づくと産卵のため沿岸に寄る事から、「春を告げる魚」と言う意味で「鰆」と漢字が当てられたという。鯛も同様に産卵のため、身に脂が乗り、その身体を赤く染めるという。語源は桜の時期に獲れるからとも、その身が桜色だからとも。花見鯛とも言うから前者の方が正しいと思っている、とまで付け加えてくれた。
そんな何の益にもならない話を散々聞かされ、やや辟易としながらも私は鯛の刺身を手にその場を去った。自身の話で買って貰ったと思っているのだろう、男性は更に威勢よく「毎度ありがとうございます!」と笑顔で叫んでいる。
数点の惣菜を買い込んで自宅へ戻ると、勢いに任せて買ってしまった品々をテーブルの上に並べる。サラダ、握り飯、コロッケ、そして刺身。
何の関連性も無い品に埋め尽くされたテーブルで、冷たい食事を始める。ここ数日、白飯すら炊いていなかった。普段、妻の行動に甘えていた事がよくわかる。遠目で巻き線香の残りを確認しつつ、小さな祭壇の遺影を眺める。たった数日でだらしない生活をしている私に苦笑しているのだろうか。妻の表情は微笑んだままだ。
テーブルに目を戻し、箸を伸ばそうとしたその時だった。
掛けてある喪服の内ポケットで携帯電話が静寂を破った。舌打ちをして取り出した液晶画面には、上司の名があった。
「辛いだろうが、また明日から頼む。新製品の改良をしてくれないと困るんだ。君は企画部のエースなんだから。君の愛社精神に期待しているよ」
通話の切り際に電話口の上司はそう告げた。無意味な励ましの電話をくれただけではなく、仕事――新製品の改善策提示の催促だったのだ。もう準備が出来上がっている事を伝え、携帯電話をズボンのポケットに突っ込むと、私は大きく息を吐いた。
私をエースと呼び、大きな仕事を任せてくれる上司。だがそれは成功を重ねるごとに、私の想いからは離れた製品を創らねばならないという矛盾も孕んでいた。今回の件もそのいい例だった。私の想いの結晶は、新商品としては商売にならないのだ。
テーブルに戻ると、置いた箸を再び手に取る。不思議な事に食欲は失せていたが、空腹感は残っている。まるで妻に、食べないといけないよ、と言われているような気がした。
日持ちのしないサラダと刺身とに手を伸ばす。サラダは普通のありふれた味だったが、鯛の刺身はあの男性が言う通り、脂が乗って旨かった。最後の夜に妻と食べた刺身と比べても、味だけならこちらの方が上だろう。無論、私の好みの味、という大前提ではあるが。
「桜鯛はね、産卵を控えて身に脂が乗るこの時期が一番ですよ。語呂もあって、『桜』と『めでたい』で祝い事や縁起物として最高ですね」
数切れを味わいながら、魚屋の男性がしてくれたそんな話を脳裏に浮かべる。私に不幸があったことを知らない彼のその対応が、不快と安心という相反する感情を交差させていた。
だがその不快さは私の中に疑問をも生み出していた。目の前の刺身をじっと見つめる。
鰆にせよ、桜鯛にせよ、そんな呼び名や字は勝手に人間が決めたものだ。彼ら自身に「春を告げる」意思や「美しさ」「桜の名を冠する」「縁起物」などといった意識などあろうはずが無い。彼ら、彼女らは自身の産卵のために、その身を染めたり、身体に脂を蓄えたりしているだけだ。それを勝手に私達が、都合の好いように名づけ、重宝し、騒いでいるだけではないか――
一度そう考えてしまうと、目の前のモノは刺身ではなくなっていた。別に動物愛護論者でもなく、菜食主義者に共感を覚えた事もない私だったが、そのほのかに桜色をした美しい身が、無念を訴えているようにさえ思えてきた。
「桜の名、か……」
呟いた時、私の中で何かが動いた。心の片隅に追いやられていたそれは、まだ漠然とした想いでしかなかったが、静かに、そして確実に拡がっていく。箸を置き、祭壇の妻と子の元へ向かった。遺影の妻は何も語らない。ただ同じ微笑を浮かべているだけだ。しかし、私が妻と子に語りかけるには、そしてまた、その事で自身の考えをまとめるには十分だった。
「じゃあ、資料打ち出してくれるか? そろそろ会議にしよう」
翌日、出社した私を気遣いながらも、上司も同僚もさっさと仕事に取り掛かろうとしている。晴れやかな顔をしているだろう私を見て、辛さを仕事で忘れようとしているとでも思ったのかもしれない。
「わかりました。少しだけお待ち下さい」
休んでいた分の雑務を片付けながら、上司にそう答えると、パソコンのファイルを開く。画面に改善点を書き込んだ資料が映し出された。
一度、意を決するように目を閉じ、大きく息を吐く。そして「自分のために私と居る」と言った妻の笑顔を思いながら、キーボードを操作し、その文字を書き換えていく。
「改善の要無し」
「本製品開発の目的は恒常的売り上げの確保、且つ我が社のチョコレートの高品質化である」
最後にタン、と勢いよく音を立てて手を止める。画面は私の意志を明確に伝える文面を映し出している。
印刷指示を終えると、私は買ってきたばかりの、味気ない包装に包まれたチョコレートを一欠片、口に放り込んだ。
他人が私を『滅私奉公の人』と見ていようと、会社が『エース』と期待していようと、それは彼らの都合のよい見方なのかもしれない。私にどんなレッテルを貼ろうと、どんな立場を与えようと、私は私でしか有り得ないのだ。
――私は『エース』としてチョコレートを作っているんじゃない
会議に向かうため、立ち上がった私の口内には、控えめでしっかりとした甘さが拡がっていた。
【了】