「この下働きは魔女です」と光の聖女様が言うので、素直に認めたら、百二十年鳴らなかった聖鐘がわたしのために鳴りました
大聖堂の床の石は冬の朝には、膝が痛くなるほど冷たい。
ミレーナは雑巾をしぼって、祭壇の前の石畳を拭いていた。水桶の水は指先が赤くなるほど冷えていた。息を吐くと、白く煙った。高い天井のステンドグラスから、朝の光が七色に落ちてきて、濡れた床の上でゆらゆらと揺れていた。
今日は聖女認定の儀の日だった。
百年に一度、神殿の聖鐘を鳴らす者が現れると、言い伝えられている。聖鐘は大聖堂のいちばん高い塔の上にある、大人が十人入れるほどの、古い青銅の鐘。どんなに強い風が吹いても、どんなに力自慢の男が綱を引いても、びくともしない。ただ、本物の聖女が現れたときだけ、ひとりでに鳴るのだという。
前に鳴ったのは百二十年前。それから、一度も鳴っていない。
今日、王都じゅうの人々が、大聖堂に集まってくる。侯爵令嬢マリエル・ブランシュが、聖女の名乗りを上げたからだ。
「ミレーナ、まだ拭いてるの? もうすぐ、貴族の方々がお見えになるわよ」
同じ下働きの娘が、ほうきを抱えて早足で通りすぎていった。
「すぐ終わります」
ミレーナは雑巾を桶に戻して、ひび割れた指先に、はあっと息を吹きかけた。
――マリエル様が、聖女。
大聖堂の扉の向こうから、ざわざわと人の声が聞こえはじめていた。金色の髪の侯爵令嬢はこの半年、王都のあちこちで、手から光を放って、病人を癒やしてみせたという。貴族の屋敷で王宮の舞踏会で。人々は彼女を「光の聖女」と呼んだ。
ミレーナは自分の手のひらを見下ろした。
ひび割れて、赤くなった、下働きの手。
この手が夜になると、ほんの少しだけ、光ることを知っている人はいない。
――知っている人は一人だけ。
ミレーナが自分の手の不思議に気づいたのは七つのときだった。
孤児院の庭で、小鳥が羽を折ってもがいていた。ミレーナは両手で包むように、その小鳥を拾い上げた。かわいそう、治ってほしい、と思った。
手のひらがぼうっと、あたたかくなった。
うすい、白い光。ろうそくの灯りよりももっと弱い光。
光が消えると、小鳥はミレーナの手のひらから、ぱたぱたと飛び立っていった。
孤児院の院長先生はそのことを知ると、ミレーナを部屋に呼んで扉に鍵をかけた。
――ミレーナ。その力のことは誰にも言ってはいけないよ。
――どうして?
――平民の娘に不思議な力があると知れたら、魔女だと言われるかもしれない。貴族に知られたら、どこかへ連れていかれて、二度と帰ってこられないかもしれない。
院長先生はミレーナの手をしわだらけの両手で包んだ。
――使うなら、誰にも見られないところで。名乗らずに。お礼も受け取らずに。……それが、おまえを守る、ただ一つの方法だ。
ミレーナはそれを守った。
十六歳で孤児院を出て大聖堂の下働きになった。昼は床を磨いて、燭台を拭いて、祭壇の花を替えた。
夜は大聖堂の裏手の施療院へこっそり通った。
施療院には薬も買えない貧しい人たちが、たくさん寝かされていた。熱にうなされる子ども。咳の止まらない老人。けがで動けない職人。神官たちは昼間に一度だけ見回って祈りを捧げて帰っていく。夜は誰もいない。
ミレーナは夜中に忍びこんで、眠っている人のそばにしゃがみこんだ。額にそっと手を当てる。手のひらがぼうっと、あたたかくなる。
朝になると、熱が下がっている。咳が止まっている。誰も理由を知らない。
それでよかった。
四年間、ずっと、そうしてきた。
――あの夜、見つかるまでは。
あれは去年の秋の、雨の夜だった。
ミレーナは施療院の奥の寝台で、熱にうなされる小さな女の子の額に手を当てていた。手のひらがぼうっと白く光っていた。
「……誰だ」
うしろで低い声がした。
ミレーナの体が凍りついた。手のひらの光がすっと消えた。
ふり返ると、施療院の入り口に、背の高い男が立っていた。
銀の鎧。白い外套。腰に長い剣。外套の胸に、神殿騎士団の、白百合と剣の紋章。
ランタンの灯りに照らされた顔を見て、ミレーナは息が止まりそうになった。
ジュリアン・ローウェル。
神殿騎士団の団長。大聖堂の警護の、いちばん上の人。下働きのミレーナが、口をきくことなど、決してない人。
――見られた。
ミレーナは寝台の横にひざまずいたまま、動けなかった。
魔女だと言われる。連れていかれる。二度と、帰ってこられない。
団長はしばらく、何も言わなかった。
施療院の中をゆっくりと見回した。寝台に眠る人々。熱が下がって、穏やかな寝息を立てている女の子。それから、ひざまずいたままのミレーナを見た。
「……毎晩、ここに来ているのはおまえか」
ミレーナは答えられなかった。唇が震えていた。
「この半年、施療院の病人が、夜のうちに次々と快方に向かう。神官たちは祈りの力だと言っている。だが祈りで熱が下がるなら、昼間に下がるはずだ」
団長はランタンを床に置いた。
それから、外套の内側から、何かを取り出して、ミレーナのほうへ差し出した。
紙に包んだ、丸いパンだった。
「夜通しでは腹が減るだろう」
ミレーナはまばたきをした。
「……あ、あの」
「誰にも言わない」
団長はミレーナの目をまっすぐに見て言った。
「おまえが、誰にも言わずに、これを続けているのなら。俺も誰にも言わない。……そのかわり、夜の施療院は物騒だ。俺が入り口に立つ」
ミレーナはパンを受け取った。
まだ、ほんのりと温かかった。
その夜から、ミレーナが施療院に忍びこむと、入り口にはいつも白い外套の騎士が立っているようになった。
団長は何も訊かなかった。ミレーナの力のこともどこから来たのかも。ただ、入り口に立って、夜明けまで外を見張っていた。ときどき、パンや、温かいスープの入った壺を黙って入り口の台に置いていった。
ミレーナが、病人の額に手を当てて、手のひらが光っているあいだ、団長はずっと、背中を向けていた。見ないように。
ある夜、ミレーナが帰りぎわに、入り口で頭を下げると、団長が、ぽつりと言った。
「……今夜は何人だった」
「え?」
「治した人数だ」
ミレーナは少し考えた。
「三人、です。熱の子と、咳のおじいさんと、指を切った大工さん」
「そうか」
団長は短くそう言ってまた外を向いた。
でも白い外套の背中が、ほんの少しだけ、うれしそうに見えた。
それから、毎晩、帰りぎわに団長は人数を訊いた。ミレーナが答えると、「そうか」と短く言う。
冬の、いちばん寒い夜のことだった。
その夜、施療院には流行り風邪の子どもたちが、十人も寝かされていた。ミレーナは一人ずつ、額に手を当てていった。七人目のとき、目の前が、ぐらりと揺れた。
力を使いすぎると、体の芯から冷えていく。手足の先が氷みたいに冷たくなる。知っていた。でもまだ三人残っていた。
八人目。九人目。
十人目の子の額から手を離したとき、膝から、すとんと力が抜けた。
石の床に倒れる前に、誰かの腕が、ミレーナを受け止めた。
「……無茶をする」
団長だった。入り口から、いつのまにか、駆け寄ってきていた。白い外套ごと、ミレーナを抱きかかえていた。
団長の腕の中は温かかった。冷えきった指先に、じんわりと熱が戻ってくる。
「すみません……今夜は多くて」
「十人か」
「……十人です」
団長は何も言わなかった。外套を脱いで、ミレーナの肩にかけた。それから、施療院のすみの長椅子にミレーナを座らせた。自分もそのとなりに座った。
はじめて、二人が並んで座った夜だった。
「団長様は、どうして神殿騎士になったんですか」
ミレーナは外套にくるまったまま、訊いた。
団長はしばらく、施療院の暗い天井を見ていた。
「……母が、ここで死んだ。俺が十のとき。熱病で。薬を買う金がなかった」
ミレーナは息をのんだ。
「神官たちは、昼に一度、祈りに来るだけだった。夜、母が苦しんでいても、誰も来なかった。……だから、騎士になって、せめてここを守ろうと思った。守っても、誰も救えないと分かっていても」
団長の声は静かだった。でも、膝の上で拳が固く握られていた。
「だから、一年前の雨の夜、おまえがここで手を光らせているのを見て」
団長はそこで言葉を切った。
ミレーナは外套の中から、そっと手を出して、団長の握りしめた拳の上に自分の手を重ねた。
団長の拳がゆっくりと、ほどけていった。
その夜、ミレーナは団長の肩にもたれて少しだけ眠った。夜明け前に目を覚ますと、団長は同じ姿勢のまま、じっと入り口のほうを見ていた。一度も、動かなかったらしかった。
外套の、白い布の肩に、ミレーナのほおの形に、小さなしわがついていた。団長は、それを手で払おうともしなかった。ミレーナが「ごめんなさい」と言うと、団長は、少しだけ目をそらして、「軽かった」とだけ言った。耳の先が、夜明けの空と同じ色をしていた。
ミレーナは、外套を胸に抱いたまま、くすっと笑った。施療院の窓の外が、うっすらと白みはじめている。十人の子どもたちの寝息が、静かにそろっていた。
一年がそうして過ぎた。
大聖堂の鐘楼の小さな鐘が、儀式の始まりを告げた。
ミレーナは下働きの娘たちと一緒に、大聖堂のいちばんうしろの壁ぎわに並んだ。
大聖堂は人で埋めつくされていた。前のほうの席には着飾った貴族たち。うしろのほうには王都の町の人々が、ぎっしりと立っている。祭壇の前に、白い法衣の大神官が立っていた。その横に、神殿騎士団の騎士たちが、銀の鎧で並んでいる。
いちばん前に、ジュリアン団長がいた。
白い外套。背筋を伸ばしてまっすぐ前を見ている。ミレーナのほうは見なかった。昼間はいつもそうだった。
祭壇の前に、マリエル・ブランシュが進み出た。
まばゆい金色の巻き毛。純白のドレス。胸に大きな宝石の首飾り。指に、銀の指輪が光っていた。
「わたくしは神より授かったこの光で、この半年、百人を超える人々を癒やしてまいりました」
マリエルの声はよく通った。
それから、マリエルは両手を胸の前で合わせた。
手のひらから、まばゆい金色の光が、ぱあっとあふれ出した。
大聖堂がどよめいた。
ミレーナが夜に灯す光とは、比べものにならないくらい、明るい光だった。ステンドグラスの七色の光が、かすんで見えるほど。人々が口々に「光の聖女さまだ」とささやいた。何人かがひざまずいて祈りはじめた。
ミレーナは壁ぎわで自分の手を握りしめた。
――あんなに明るい光。
自分の光はろうそくより弱い。ずっと、そう思っていた。
マリエルが光をおさめた。それから、大神官のほうを向いて、優雅に一礼した。
「大神官様。聖鐘の前に、一つ、申し上げたいことがございます」
「申してみよ」
「この大聖堂に魔女がおります」
大聖堂がしんと静まり返った。
マリエルはゆっくりとふり返った。人々の頭ごしに、大聖堂のいちばんうしろの壁ぎわを見た。
ミレーナと、目が合った。
「この下働きは魔女です。ミレーナという娘が、夜な夜な施療院に忍びこみ、病人に怪しげな術をかけている者がいると、わたくしの侍女が見ております」
ミレーナの全身から、血の気が引いていった。
マリエルのうしろから、侍女らしい若い女が進み出てうつむいたまま言った。
「ははい……先月の夜、施療院の窓から、手を光らせているのを見ました」
大聖堂じゅうの目がいっせいにミレーナを見た。
となりに立っていた下働きの娘たちが、すうっと、ミレーナから離れていった。
「神の御名を騙り、病人に怪しい術を使う。それこそ、偽聖女。魔女の所業でございます」
マリエルの声が高い天井に響いた。
「その者を捕らえてくださいませ」
騎士たちが動いた。
ミレーナは祭壇の前に引き出された。
両腕を騎士に押さえられていた。冷たい石の床に膝をつかされた。今朝、自分が雑巾で拭いた石。
膝ががくがくと震えていた。喉がからからに乾いていた。
――院長先生。
誰にも見られないところで。名乗らずに。
守ってきた。四年間。
なのに。
「下働きの娘、ミレーナ」
大神官が静かな声で言った。白いひげの、年老いた人。
「侯爵令嬢の申し立ては、まことか。そなたは夜ごと施療院で術を使っていたのか」
ミレーナはうつむいた。
嘘をつけば、助かるかもしれない。違います、と言えば。手を光らせたことなどありません、と。
でもそう言ったら。
施療院の、熱にうなされる子どもたち。咳の止まらない老人。明日の夜から、誰が。
「……まことです」
ミレーナは顔を上げた。
声が震えた。でも止まらなかった。
「わたしは毎晩、施療院に行っていました。病人の額に手を当てて、治ってほしいと願うと、手が少しだけ、光るんです。……でも、怪しい術ではありません。わたしはただ」
「ほら、ごらんなさい!」
マリエルが勝ち誇ったように叫んだ。
「自分で認めましたわ! 魔女です!」
大聖堂がざわめいた。怒号があちこちから飛んだ。下働きのくせに。神を騙る女。追い出せ。
ミレーナは目を閉じた。
石の床が膝に冷たかった。押さえつけられた腕が、じんじんと痛んだ。人々の怒鳴り声が、波のように押し寄せて耳の奥でわんわんと響いた。
施療院の、あの女の子。熱にうなされていた、小さな手。咳の止まらなかった、おじいさんの、しわだらけの笑顔。今朝、雑巾で拭いた、この石の床の冷たさ。
――明日の夜から、施療院の入り口には誰も立たない。
ふいにそう思った。そう思ったとたん、喉の奥が、ぎゅっと締めつけられた。自分が捕まることよりもそれが、いちばん、苦しかった。
もう、だめだ。
そのとき。
「――申し上げます」
低い声が大聖堂のざわめきを切り裂いた。
ミレーナは目を開けた。
ジュリアン団長が、騎士たちの列から、一歩、前に出ていた。
白い外套を翻して祭壇の前まで歩いてきた。ミレーナの横で片膝をついた。大神官に向かって深く頭を下げた。
「神殿騎士団長、ジュリアン・ローウェル。この者について、証言いたします」
大神官が目を細めた。
「申せ」
「この一年、わたくしは毎晩、施療院の入り口に立っておりました。この者が病人を癒やすあいだ、見張りとして」
大聖堂がどよめいた。マリエルの顔がこわばった。
ジュリアンは懐から、一枚の紙を取り出した。何度も折りたたんですり切れた紙。
「毎晩、帰りぎわに、この者に、その夜に治した人数を訊きました。……三百六十二夜。一夜も欠かさず、記しております」
ミレーナは息をのんだ。
――今夜は何人だった。
毎晩、帰りぎわに訊かれた。「そうか」と短く言われた。
記して、いたなんて。
「熱病の子ども二百十一人。咳と胸の病の老人、百八十九人。けが人、二百四十人。……合わせて九百九十九人」
ジュリアンの声が大聖堂の高い天井に響いた。
「この者は一年間、一度も名乗らず、一度も礼を受け取らず、九百九十九人を癒やしました。誰にも見られない夜に。手から、ろうそくより弱い光を灯して」
ジュリアンは顔を上げた。
マリエルをまっすぐに見た。
「侯爵令嬢。あなたが半年で癒やしたという百人。その名を一人でも、ここで挙げられますか」
マリエルの唇が震えた。
「そ、そんなもの、いちいち覚えておりませんわ。わたくしは聖女として多くの者を」
そのとき、大聖堂のうしろのほうで悲鳴が上がった。
「――誰か! この子が!」
人ごみがさっと割れた。
石の床の上に、小さな男の子が倒れていた。五つか六つくらい。顔が真っ白で唇が紫色になっている。母親らしい女が男の子を抱き起こして泣き叫んでいた。
「息が、息が! 朝から熱があったのに、聖女さまのお姿を見たいって、無理に連れてきたから……!」
大聖堂じゅうの目が祭壇の前のマリエルを見た。
「聖女さま! 光の聖女さま、この子をお助けください!」
マリエルの顔から、血の気が引いていった。
マリエルはおずおずと、両手を胸の前で合わせた。
何も起きなかった。
もう一度、合わせた。手のひらがちかっと、一瞬だけ光った。それから、ぷすっと音を立てて消えた。
マリエルの指の、銀の指輪から、細い煙が上がっていた。
ミレーナは騎士の手をふりほどいていた。
誰かが止める声がした。かまわなかった。祭壇の前から、人ごみの中をまっすぐに走った。男の子のそばにひざまずいた。
小さな胸に両手を当てた。
――お願い。治って。
四年間、毎晩、同じことを願ってきた。熱にうなされる子どもの額に手を当てて。
手のひらがぼうっと、あたたかくなった。
うすい、白い光。ろうそくより弱い光。マリエルの金色の光とは、比べものにならない、小さな光。
男の子の唇の紫色が、少しずつ、薄くなっていった。
ひゅっ、と、小さな胸が、息を吸った。
男の子が目を開けた。
「……かあちゃん」
母親が声を上げて泣きながら、男の子を抱きしめた。
ミレーナはその場にへたりこんだ。手のひらの光がすうっと消えた。
大聖堂がしんと静まり返っていた。
――千人目。
ジュリアンの声が頭の中で響いた。九百九十九人。
その瞬間だった。
大聖堂の、いちばん高い塔の上から。
ごおおおおん、と。
腹の底まで響く、重い、深い音が、降ってきた。
ごおおおおん。ごおおおおん。
聖鐘が鳴っていた。
誰も綱を引いていない。百二十年、一度も鳴らなかった鐘が、ひとりでに、王都じゅうに響きわたるほどの音で鳴っていた。
大聖堂じゅうの人々が、天井を見上げた。
ステンドグラスが、鐘の音に合わせてびりびりと震えていた。七色の光が床の上で踊るように揺れていた。
大神官が祭壇の前でゆっくりと両手を広げた。
「……古い書に記されておる」
年老いた声が鐘の音の中で震えていた。
「聖鐘は光の強さでは鳴らぬ。名乗りでは鳴らぬ。……誰にも知られず、千の命を救った者のために鳴る、と」
大聖堂じゅうの目が、男の子のそばにへたりこんだ、下働きの娘を見た。
ひび割れた手。冷たい水で赤くなった指先。
ミレーナは自分の手のひらを見下ろしていた。
――わたしの、ために。
人ごみの中から、一人の老婆が、杖をつきながら、よろよろと前に出てきた。
ミレーナは目を見開いた。
孤児院の、院長先生だった。腰が前よりずっと曲がっていた。白髪がすっかり薄くなっていた。王都じゅうの人が集まる儀式を一目見ようと、来ていたのだ。
「……ミレーナ」
院長先生はミレーナの前まで来ると、杖を床に置いて、しわだらけの両手でミレーナの手を包んだ。十三年前、鍵のかかった部屋で、そうしてくれたのと同じように。
「ごめんね。隠せなんて言って」
院長先生の目から、なみだがこぼれた。
「おまえを守りたくて言ったんだよ。でもおまえは隠したまま、こんなに……こんなにたくさんの人を」
「院長先生」
ミレーナは首を横にふった。
「先生が、隠しなさいって言ってくれたから、わたし、四年間、ここにいられたんです。誰にも連れていかれずに。……それに、隠していても、見つけてくれた人が、いましたから」
院長先生が祭壇の前に立つ、白い外套の騎士のほうを見た。それから、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、深々と、頭を下げた。
信じられなかった。四年間、誰にも見られないように。名乗らずに。お礼も受け取らずに。院長先生との約束を守ってきただけなのに。
祭壇の前で、騎士たちが、マリエルの指から銀の指輪を外していた。
指輪の内側に、小さな魔石がはめこまれていた。光を放つ魔道具。王都の裏通りの、怪しげな魔道具屋で売られている、手品師が使う品だと、騎士の一人が言った。
「ち、違いますわ! それはわたくしの、お守りで……」
マリエルは唇をわなわなと震わせて首を横にふった。でも誰も聞いていなかった。マリエルの侍女が、泣きながら、床に崩れ落ちていた。
「侯爵令嬢マリエル・ブランシュ。聖女を騙り、無実の者を魔女と罵った罪、追って沙汰する」
大神官の声が静かに響いた。マリエルは騎士たちに両腕を取られて、大聖堂の外へ連れ出されていった。
鐘はまだ鳴っていた。
ミレーナの前に、白い外套の騎士が、しゃがみこんだ。
ジュリアンだった。
「……立てるか」
ミレーナは首を横にふった。膝に力が入らなかった。
ジュリアンは黙ってミレーナの手を取った。ひび割れた、赤い手。
大きな手だった。あたたかかった。毎晩、施療院の入り口の台に、温かいパンを置いていってくれた手。
「団長様」
ミレーナの声がかすれた。
「どうして記していたんですか。毎晩の、人数」
ジュリアンは少しだけ黙った。
それから、すり切れた紙をミレーナの手のひらにのせた。
びっしりと、細かい字で書きこまれていた。日付と、人数。熱の子、何人。咳の老人、何人。けが人、何人。一年分。三百六十二夜。
その一番下に今日の日付と、一行。
――千人目。
「誰にも知られずに、誰かを救い続ける者がいる。でも救われた者は誰が救ってくれたのか、知らない。……せめて、俺だけは数えておきたかった」
ジュリアンの声が、少しだけ、かすれた。
「おまえが、一人で救った人数を。おまえが確かにここにいたということを」
ミレーナの目から、なみだが、ぽろぽろこぼれた。
四年間、誰にも見られないところで。名乗らずに。
ずっと、一人だと思っていた。
でも一年前の雨の夜から、入り口にこの人が立っていた。背中を向けて見ないようにして。毎晩、人数を訊いて、「そうか」と言って。
この人だけはずっと、見ていてくれた。
その日の夕方、ミレーナは大聖堂の裏手の施療院の入り口に立っていた。
聖女に認められたあと、大神官はミレーナに、王宮の聖女の間で暮らすように言った。豪華な部屋、絹のドレス、侍女たち。
ミレーナは断った。
――わたしは施療院にいたいです。夜も昼も。名乗ってもいいなら、今度は昼にも。
大神官はしばらくミレーナを見つめてから、白いひげの奥でやわらかく笑った。
施療院の中では男の子と母親が、寝台の横で眠っていた。夕日が窓から差しこんで、白い寝台の上をオレンジ色に染めていた。薬草を煮る匂いと、洗いたての布の匂いがした。
「ここにいたのか」
うしろで声がした。
ふり返ると、ジュリアンが立っていた。銀の鎧を脱いで、白いシャツ一枚になっていた。手に、紙に包んだ丸いパンを持っていた。
「……夜通しでは腹が減るだろう」
一年前の雨の夜と、同じ言葉だった。
ミレーナは思わず、ふき出した。
ジュリアンも少しだけ、口の端を上げた。それから、パンをミレーナの手に握らせて、施療院の入り口の、いつもの場所に立った。
背中を向けて。外を見るように。
「団長様」
「ジュリアンでいい」
背中を向けたまま、ジュリアンが言った。耳の先が夕日の色に染まっていた。
「……ジュリアン様。もう、背中を向けなくても、いいんですよ。わたし、もう、隠れなくていいんですから」
ジュリアンの肩がぴくりと揺れた。
「見ないようにしていたんじゃない」
ジュリアンはゆっくりとふり返った。
「見たら、目が離せなくなるから、背中を向けていた。……一年前の雨の夜、ランタンの灯りで、おまえが病人の額に手を当てているのを見た。手のひらがろうそくより弱い光で光っていて。泣きそうな、祈るような目をしていて」
ジュリアンの声がかすれた。
「あれから、毎晩、入り口に立った。見張りのためだと、自分に言い聞かせて。……本当はおまえが、そこにいることを確かめたかった」
ミレーナの胸がぎゅっと締めつけられた。
「ミレーナ」
ジュリアンが一歩、近づいた。
「千一人目は俺でもいいか」
「え……?」
「おまえに救われた者の、千一人目。……おまえが来るまで、俺は何のために剣を持っているのか、分からなくなっていた。貴族の屋敷を守り、儀式の列に並ぶだけの毎日で。あの施療院の入り口に立った夜から、はじめて守りたいものができた」
ジュリアンはミレーナのひび割れた手を両手で包んだ。
「これからは昼も夜も隣に立たせてほしい。背中を向けずに」
施療院の窓の外で、大聖堂の塔が、夕日に照らされていた。聖鐘はもう鳴りやんでいた。でもミレーナの耳の奥ではまだ、あの重い、深い音が、響いている気がした。
ミレーナはジュリアンの手をそっと握り返した。
「……千一人目はちょっと、ずるいです」
「ずるいか」
「わたし、ジュリアン様を治した覚え、ないです」
ジュリアンが目を見開いた。
それから、声を出して笑った。一年間で、はじめて聞く、ジュリアンの笑い声だった。
施療院の寝台の上で、男の子が、もぞもぞと寝返りを打った。
ミレーナはジュリアンの手を握ったまま、背伸びをしてその耳元にささやいた。
「じゃあ、ジュリアン様は千人目より前の、ゼロ人目にしてください。……いちばん最初に、わたしを見つけてくれた人だから」
(完)




