4話 天御柱の異変
千歳が朝霧村に身を寄せて、十日が過ぎた。
翠嶺の神が目覚めたことで、村は見違えるように活気を取り戻していた。沢の水は清らかに流れ、枯れかけていた田の稲が青々と頭を持ち上げ、倒れていた若い衆も次々と快癒した。
千歳はすずの祖母の家に居候しながら、村の手伝いをして暮らしていた。朝は井戸の水汲みから始まり、畑仕事を手伝い、子どもたちに文字を教え、夜になればツクヨミに神和の力の制御を習う。
忙しくて、満たされた日々だった。
「千歳、また祠を掃除しておるのか」
コハクが呆れたように言う。千歳は村外れの小さな祠を丁寧に拭いていた。朝霧村の周辺には、忘れられた小さな祠がいくつもある。千歳はそれらを一つひとつ見つけては、手入れをし、祈りを捧げていた。
「だって、昨日ここを通りかかったら、すごく寂しそうだったから」
「お前にはそういうのが分かるのか……」
「うん。なんとなくだけど。お社の雰囲気というか、空気というか」
千歳が祈りを捧げると、祠がほんのりと温かい光を放った。以前は気のせいかと思っていたが、今は分かる。これは応答だ。小さな神が、千歳の祈りに応えている。
「コハク。ツクヨミ様がおっしゃっていたの。神和は神と人の架け橋だって。なら、こうして小さなお社の神様にも手を合わせることが、私の務めなんだと思う」
「……殊勝なことだ」
コハクがふいと目を逸らす。その尾がぱたぱたと揺れているのは、照れ隠しだろう。
「だが、お前の評判は広まっておるぞ。翠嶺の一件は近隣の村にも伝わっている。そのうち、あちこちから祓いの依頼が来るかもしれん」
「えっ、そ、それは困る……まだ修行中なのに」
「知らんぞ。お前が撒いた種だ」
コハクがそう言った、その時だった。
「千歳さん! 千歳さん!」
村の入口の方から、息を切らせた男が走ってくるのが見えた。旅装束の若い男で、額に汗が滲んでいる。
「天御柱さんの方から来た使いの者だ」
すずの祖母が眉を顰めて教えてくれた。千歳の胸がざわついた。
男は千歳の前に来ると、膝をついて頭を下げた。
「朝霧千歳殿。至急のお願いでございます。天御柱神社に、お戻りいただきたい」
「……お戻り?」
十日前、穢れだと言って追い出した場所に?
「何があったのですか」
「それが……本殿の御神体に、異変が起きまして……」
男の顔が蒼白だった。
「千歳殿が神社を去られた日の夜から、御神体が光を失い始めたのです。それだけならまだしも、境内の結界が日に日に弱まり、瘴気が漏れ出すようになりました。颯真様が自ら祓いを試みましたが、まったく効かず……」
「……」
「そして昨日、ついに本殿から黒い靄が溢れました。神域にいた巫女が三人、倒れております」
千歳の顔から血の気が引いた。
「颯真さんは?」
「颯真様は御無事ですが、もはや本殿に近づける者がおりません。このままでは、千年の歴史を持つ天御柱神社が穢れに呑まれます」
使いの男は額を地に擦りつけた。
「お願いです。どうか、お力を……」
千歳は黙って使いの男を見下ろした。
怒りがないと言えば嘘になる。穢れだと罵って追い出しておいて、困った時だけ助けを求めるのか。
だが。
「……倒れた巫女さんたちは、容態は」
「意識が戻りません。日に日に衰弱しております」
「――分かりました。行きます」
コハクが驚いたように千歳を見上げた。
「千歳。お前、本気か。あの男たちはお前を――」
「分かってる。でも、倒れた巫女さんたちに罪はないよ。それに……」
千歳は裏山を振り返った。翠嶺の神がいる山。あの神も、忘れられ、傷つき、怒りに呑まれていた。
「天御柱の御神体だって、きっと苦しんでいるはず。私を追い出した人たちのためじゃない。苦しんでいる神様のために行くの」
コハクはしばし千歳を見つめ、やがて諦めたように首を振った。
「……つくづく、お人好しだ。いや、お前の場合は『お神好し』か」
「上手くないよ、それ」
◇ ◇ ◇
天御柱神社への山道を、千歳は駆けた。コハクが並走し、使いの男がその後ろを必死に追う。
神社の鳥居が見えた時、千歳は足を止めた。
異常は一目で分かった。
千年の歴史を誇る石の鳥居に、黒い筋が何本も走っている。参道の両脇の杉の大木が、葉を枯らして不気味に軋んでいた。空気が重い。翠嶺の神の時とは比較にならない、濃密な瘴気。
「これは……」
「御神体の力が暴走しておるな」
コハクが毛を逆立てた。
「いや、違う。御神体の力が『嘆いて』おるのだ。結界の要だった何かが失われて、均衡が崩れた」
「結界の要……」
千歳の脳裏に、ツクヨミの言葉が蘇る。
――お前は在るだけでよい。
まさか。
「千歳っ!」
境内に足を踏み入れた途端、聞き覚えのある声が飛んできた。
颯真だった。白衣に袴の正装だが、その顔は憔悴し切っている。目の下に濃い隈ができ、唇はひび割れていた。
「お前……来てくれたのか」
「倒れた巫女さんたちの様子を見せてください」
「あ、ああ……こっちだ」
颯真が案内したのは、社務所の奥の座敷だった。三人の巫女が布団に横たわっている。顔色は土気色で、額に脂汗が浮かんでいた。
千歳はそっと一人の巫女の手を取った。冷たい。そして、身体の中の気が乱れているのが伝わってくる。
「……瘴気に当てられたのね。でも、まだ間に合う」
千歳が巫女の手を両手で包むと、金色の光が指先から流れ出した。温かい光が巫女の身体を包み、乱れた気が少しずつ整っていく。
「なっ……!」
颯真が目を見開いた。
「お前……その力は何だ。お前は神力が……」
「神力は、確かにありません。でも、別の力があったみたいです」
千歳は二人目、三人目の巫女にも同じように力を流した。三人とも、頬にうっすらと赤みが戻り、呼吸が安定していく。
「目が覚めるまでもう少しかかると思いますが、もう大丈夫です」
千歳が立ち上がると、颯真は呆然としたまま一歩後退った。
「馬鹿な……無能と判定された人間に、こんな力が……」
「颯真さん。それより、本殿を見せてください」
千歳の声に、迷いはなかった。
本殿の前に立った時、千歳は唇を引き結んだ。
社殿から溢れ出す黒い靄は、翠嶺の神の時よりも遥かに濃い。千年の歴史を持つ霊場の御神体が放つ瘴気は、桁が違った。
「この先は私一人で行きます」
「一人で? 馬鹿を言うな、危険すぎる!」
颯真が声を荒げた。千歳は振り返らなかった。
「颯真さん。御神体が荒ぶっている原因は、結界の要が失われたからだとコハクが言いました。その要が何か、颯真さんは気づいていますか」
颯真の顔が強張った。
「……まさか」
「多分、私です」
千歳は静かに言った。
「私に神力がないのは事実です。でも、『神和』の力は――神との結びの力は、知らず知らずのうちに、この神社の結界を支えていたんだと思います。私が毎朝祝詞を上げて、本殿に祈って、境内を掃き清めて。その一つ一つが、御神体との結びを保っていた」
颯真の顔から、完全に血の気が引いた。
「それを、断ち切ったのは――」
「もういいです。過ぎたことですから」
千歳は前を向いた。本殿へと続く石段を、一段ずつ上がっていく。黒い靄が千歳の身体に纏わりつくが、胸の奥の温もりがそれを退ける。
――ツクヨミ様。
心の中で呼びかける。
――力を貸してください。
昼の空に浮かぶ白い月が、一際強く光った気がした。
右手に温もりが宿る。まるで、誰かの手に握られているような。
「――行きます」
千歳は本殿の扉を開けた。
黒い靄が暴風のように吹き出す。だが千歳は一歩も退かなかった。金色の光を全身に纏い、真っ直ぐに御神体へと歩を進める。
御神体は、一枚の古い鏡だった。かつては神々しい光を放っていたであろうその鏡面は、今は黒く曇り、ひび割れている。鏡の中から、悲痛な声が響いていた。
――独りは嫌だ。
――なぜ去った。なぜ、あの温もりが消えた。
「……ごめんなさい」
千歳は鏡の前に正座した。涙が頬を伝う。
「ごめんなさい。あなたが寂しがっていたこと、気づいてあげられなくて」
両手を合わせ、祈る。
今度は分かる。自分の力が、何であるのか。
「もう大丈夫。もう、独りにはしません」
金色の光が鏡を包んだ。
ひび割れた鏡面が修復されていく。黒い靄が浄化され、本殿の中が清浄な光で満たされる。
鏡が、眩い光を放った。
本殿の屋根を突き抜け、天に向かって光の柱が昇る。
境内にいた颯真が、膝から崩れ落ちた。
石鳥居の黒い筋が消え、枯れていた杉の葉が一瞬で青々と蘇る。結界が、以前よりも遥かに強く、張り直されていく。
「……あり、えない……」
颯真は震える唇で呟いた。
「あの御神体を……一人で……鎮めた、だと……?」
本殿の扉が開き、千歳が姿を現した。少し疲れた顔だが、穏やかに微笑んでいる。
「御神体は落ち着きました。もう大丈夫です」
颯真は千歳の顔をまともに見ることができなかった。視線を落とし、唇を噛み、やがて絞り出すように言った。
「……すまなかった」
「え?」
「お前を……無能だと。穢れだと。俺は取り返しのつかないことを……」
颯真が深く頭を下げた。宮司の嫡男が、追放した巫女の前で額を地面に擦りつけている。
千歳は数秒、その姿を黙って見つめた。
怒りはもうなかった。ただ、少しだけ胸が痛んだ。
「……頭を上げてください、颯真さん」
「だが……」
「あなたが謝る気持ちは、嬉しいです。でも私、ここには戻りません」
颯真が弾かれたように顔を上げた。
「なっ……なぜだ。お前の力があれば、天御柱はもっと――」
「私にはもう、帰る場所があるんです」
千歳は山の向こう――朝霧村のある方角を見つめた。
「待っていてくれる人たちがいて、私を必要としてくれる小さな神様たちがいて。それで十分です」
コハクが千歳の足元にすり寄った。千歳はコハクを抱き上げ、颯真に微笑んだ。
「天御柱のことは、颯真さんが守ってください。私は私の場所で、私にできることをします。――それが巫女じゃなくても、神和として」
颯真は何も言えなかった。ただ、去っていく千歳の背中を、石のように動けないまま見送ることしかできなかった。




