3話 神和の力
翌朝。千歳が目を覚ますと、枕元にすずが座っていた。
「おねえちゃん、おはよ!」
「す、すずちゃん。おはよう」
「ねえねえ、きつねさんにごはんあげていい?」
「コハクなら、そこの……あれ?」
隣を見ると、コハクの姿がない。代わりに、庭先から何やら賑やかな声が聞こえてくる。
「おお、こりゃ珍しい。白狐が家の前で日向ぼっこしとるぞ」
「なんと立派な尾じゃ。二又の白狐なんぞ、見たこともない」
村人たちがコハクを取り囲んでいた。コハク本人は――いや本狐は、迷惑そうな顔をしつつも、差し出されたお揚げをもぐもぐと食べている。
「コハク……」
「ん? ああ、千歳か。この村の者は見どころがある。我の価値が分かっておる」
「ただお揚げに釣られてるだけでは……」
「失敬な」
すずの祖母が朝餉を用意してくれた。温かい味噌汁と白米、漬物に焼いた川魚。素朴だが心のこもった食事に、千歳は手を合わせた。
「いただきます」
食べながら、千歳はふと気がついた。村の様子がどこか暗い。
「あの……おばあさま。この村は、何か困りごとがおありですか」
老婆の箸が止まった。しばらく逡巡するように黙ってから、重い口を開く。
「……実はな。この村の裏山に、祟り神が出ておるのじゃ」
「祟り神……?」
「半年ほど前からじゃ。裏山の沢の水が濁り、作物が枯れ始めた。山に入った者は原因不明の熱を出して寝込む。先月は、村の若い衆が三人も倒れた」
千歳の表情が引き締まった。
「天御柱さんに祓いを頼んだんじゃがな……」
老婆の声に、苦いものが混じる。
「巫女を一人寄越してはくれたが、祟りが強すぎると言って、すぐに帰ってしまった。それきりじゃ。『辺境の村一つのために主力は動かせん』とな」
千歳は拳を握りしめた。天御柱神社の方針は知っている。霊場としての格式を重んじるあまり、小さな村の困りごとは後回しにされがちだった。
「コハク」
千歳が呼ぶと、白狐が縁側からひょいと顔を出した。
「聞こえておった。裏山か、少し嗅いでくるか」
「お願い」
コハクが素早く裏山の方へ駆けていく。千歳はその間に、老婆から詳しい話を聞いた。
祟りの始まりは半年前、裏山の古い塚が崩れた時からだという。山崩れで塚の石組みが露出し、それ以来、異変が始まった。
「塚……」
「昔からあの塚には近づくなと言い伝えられておってな。何が祀られておるのかも、もう誰も知らん」
やがてコハクが戻ってきた。その毛並みが逆立っている。
「千歳。あれは祟り神ではない」
「え?」
「怒っている神だ。正確に言えば、忘れられて、傷ついて、怒りに呑まれた土地神だ」
コハクの声が真剣だった。
「かつてあの山を守っていた神が、長い年月祀られずに荒んだのだろう。塚が崩れたことで封が解け、怒りが溢れ出している。力は相当なものだ。並の神職では太刀打ちできん」
「……だから天御柱の巫女も逃げ帰ったのね」
千歳は立ち上がった。
「私が行く」
「はあ? お前、昨日の今日でまだ力の使い方も……」
「でも、このまま放っておいたら村の人たちが危ない。子どもたちも」
すずがおばあさまの後ろから、不安そうに千歳を見つめている。その小さな手が、祖母の着物をぎゅっと握っていた。
「すずちゃん」
千歳はすずの前にしゃがみ、目線を合わせた。
「大丈夫。おねえちゃんが何とかするからね」
すずがこくりと頷く。その目に涙が光っていた。
◇ ◇ ◇
裏山への道は、確かに異様だった。
麓からすでに空気が淀んでいる。木々は葉が枯れかけ、地面にはところどころ黒ずんだ斑点がある。瘴気だ。神の怒りが、土地そのものを蝕んでいる。
「コハク、塚はどこ?」
「もう少し奥だ。……千歳、本当にやるのか」
「やる。やり方は分からないけど、でも――」
千歳は右手を胸に当てた。昨夜、ツクヨミに触れられた場所。まだ温もりが残っている気がする。
「ツクヨミ様が教えてくれた。私の力は、人の世の尺度では測れないって。なら、やってみなきゃ分からない」
「……お前な」
コハクは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに尾を揺らした。
「まったく。百年ぶりに目覚めて、とんでもない主人に当たったものだ」
塚に辿り着いた時、千歳は息を呑んだ。
崩れた石組みの上に、黒い靄が渦巻いている。靄の中心に、おぼろげな人影が見えた。ぼろぼろの衣を纏い、顔を覆って蹲る姿。
怒りではない、と千歳は思った。
あれは、悲しみだ。
「千歳、近づくな! あの瘴気に触れたら……」
「大丈夫」
千歳は一歩、また一歩と塚に近づいた。黒い靄が千歳の肌に触れる。ぞわりと冷たい感覚が走ったが、同時に胸の奥から温もりが湧き上がり、瘴気を押し返した。
――これが、私の力?
千歳は塚の前に正座した。そして、自然と両手を合わせた。
「神様」
声が、山に静かに響く。
「ずっとお一人で、寂しかったですよね」
黒い靄が、びくりと震えた。
「誰にも祀られず、忘れられて、それでもこの山を守ろうとしてくださっていたんですよね。ありがとうございます」
千歳の言葉には、祝詞の力も、神楽の技法もない。
ただの、真っ直ぐな感謝と慈しみ。
だが、千歳の身体が光を放ち始めた。金色の淡い光が、波紋のように広がっていく。光が黒い靄に触れると、靄が少しずつ、薄れていった。
「お名前を、教えていただけますか」
蹲っていた人影が、ゆっくりと顔を上げた。老いた男の姿。だが、その目には涙が溢れている。
「……大山祇の末裔……小さき山の守り手……名は、もう忘れた……」
「では、お名前をつけてもいいですか」
千歳は微笑んだ。この山の木々を思い浮かべる。青々とした樹冠、苔むした岩、清らかだったはずの沢の水。
「――翠嶺の神様。いかがでしょう」
老いた土地神の目が見開かれた。黒い靄が、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
「名を……名を、もらったのは……初めてじゃ……」
涙と共に瘴気が浄化されていく。千歳の放つ金色の光が、山全体を優しく包み込んだ。枯れかけていた木々に、みるみる緑が戻る。黒ずんだ地面が清浄な土の色を取り戻し、どこからか沢の水が流れ始める音がした。
「千歳……お前……」
コハクが呆然と呟く。
「これは……浄化なんてものじゃない。『神和』――荒ぶる神を鎮め、結び直す力。本物の……」
土地神の姿が変わっていった。老いた男の姿から、緑の衣を纏った穏やかな壮年の神へ。山の精気をその身に宿した、本来の姿。
「巫女殿……いや、神和殿」
翠嶺の神が、深く頭を下げた。
「我を救ってくれたこと、この山が在る限り忘れぬ。この地とこの村は、我が守る。今度こそ、必ず」
「ありがとうございます、翠嶺の神様。――でも、今度は一人で抱え込まないでくださいね。辛い時は、言ってください」
千歳がそう言うと、翠嶺の神は面食らったように目を瞬かせ、それから穏やかに笑った。
「……変わった巫女殿だ」
「よく言われます」
千歳もつい笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
山を降りると、村人たちが集まっていた。山から清らかな風が吹き下ろし、半年間濁っていた沢の水が嘘のように澄んでいる。
「水が……水が戻った!」
「山の瘴気が消えとる!」
すずが真っ先に駆け寄ってきて、千歳に抱きついた。
「おねえちゃん、すごい! おねえちゃん、やっぱりすごい人だ!」
千歳はすずの頭を撫でながら、ふと空を見上げた。
昼の空に、あの白い月がうっすらと浮かんでいる。
――見ていてくれましたか、ツクヨミ様。
月は答えない。けれど千歳には、微かに月光が揺らいだように見えた。
その夜。村の皆が祝いの席を設けてくれた中、千歳はそっと抜け出して縁側に座った。
月を見上げ、両手を合わせる。
銀の光が降りてきた。
「ツクヨミ様」
「見ていた」
ツクヨミは千歳の隣に腰を下ろした。月光を纏ったその横顔は、昨夜よりほんの少しだけ柔らかく見えた。
「我が何も教えずとも、お前はやれたな」
「でも、力の使い方はまだ全然……」
「使い方など些事だ。お前は最も大切なものを最初から持っている」
「大切なもの……」
「祈る心だ」
ツクヨミが千歳を見つめた。金の瞳に、千歳の姿が映っている。
「神は、力で従えるものではない。心で結ぶものだ。お前にはそれができる。だからこそ――」
不意に、ツクヨミの表情が翳った。月光が一瞬、冷たく揺らぐ。
「だからこそ、やがてお前を求める者は増えるだろう。良きものも、そうでないものも」
千歳は小首を傾げた。
「……それは、怖いことですか」
「案ずるな」
ツクヨミの手が、千歳の頭にそっと触れた。銀髪の間から覗く金の瞳が、月光よりも強い光を湛えている。
「我が傍にいる。月が空にある限り、お前を一人にはせぬ」
その言葉は、誓いのように響いた。
千歳は頬を赤らめ、慌てて俯いた。コハクが縁側の隅から、やれやれといった目で二人を見ている。
「……まったく。千年待った甲斐があったというわけだな、月の神よ」
「黙れ、狐」
コハクの呟きに、ツクヨミが初めて少しだけ目を逸らした。
千歳は気づかなかったが、月の神の耳の先が、微かに赤かった。




