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「無能巫女と蔑まれ追放されましたが、月読命に溺愛されて最強になりました」  作者: 月代


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2話 月読命

  山道を歩き続けて半日。千歳が最寄りの集落に辿り着いたのは、日が西に傾き始めた頃だった。

 朝霧村という名の、小さな里。田畑と藁葺き屋根の家々が、山間の盆地にひっそりと身を寄せ合っている。千歳の母方の祖母が、かつてこの村の出だったと聞いたことがある。


「宿を借りられる場所があればいいのだけど……」


 腕の中のコハクを抱き直しながら、千歳は村の入り口に立った。

 と、小さな女の子が駆け寄ってきた。五つか六つか、おかっぱ頭に赤い着物の、人懐っこそうな子だ。


「おねえちゃん、だあれ?」

「あ……えっと、旅の者で。どこかお泊まりできる場所はありませんか」


 女の子はぱちくりと目を瞬かせ、それから千歳の腕の中のコハクを見て、ぱあっと顔を輝かせた。


「きつねさんだ! まっしろ!」

「おい、触るな。我は由緒ある稲荷の――」

「こら、コハク」


 千歳が窘めると、コハクは不満そうに鼻を鳴らしたが、女の子が恐る恐る伸ばした手を、大人しく受け入れた。


「あたし、すず! おばあのとこ、泊まれるよ。おいで!」


 すずに手を引かれ、千歳は村の奥へと進んだ。案内されたのは、小さいけれど手入れの行き届いた一軒家で、すずの祖母だという白髪の老婆が迎えてくれた。


「まあまあ、天御柱さんの巫女さんかい。えらい遠くからようおいでなさった」

「いえ、巫女は……もう辞めました」


 千歳が俯くと、老婆は深く問わず、ただ温かい粥を出してくれた。


「食べなさい。痩せた身体で山道は堪えたろう」


 その言葉に、また涙が出そうになった。


 ◇ ◇ ◇


 夜。

 すずの祖母に借りた離れの小部屋で、千歳は布団に横になっていた。隣ではコハクが丸くなって眠っている。

 けれど、千歳は眠れなかった。


 ――無能巫女。

 ――神力のない人間が本殿に近づくな。穢れる。


 颯真の言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。

 分かっている。神力がないのは事実だ。どれだけ祝詞を唱えても、どれだけ神楽を舞っても、千歳の手には何も宿らなかった。周囲の巫女たちが当たり前のように纏う神気の光が、千歳にも見えているのに、千歳だけには触れられない。


「……外の風に当たろう」


 そっと起き上がり、縁側に出た。

 夜空を見上げて、千歳は息を呑んだ。


 月が、途方もなく美しかった。


 満月よりほんの少し欠けた月が、漆黒の空に煌々と浮かんでいる。山里の空気は澄み切って、月光が銀の絹のように地上に降り注いでいた。田んぼの水面が鏡のように月を映し、まるで地上にもう一つ月が生まれたようだった。


「きれい……」


 無意識に、両手を合わせていた。


 ――月の神様。どうかこの美しい夜が、少しでも長く続きますように。


 巫女でなくても、祈ることだけは、やめられなかった。

 それが千歳という人間の、どうしようもない性分だった。


 刹那。


 月光が一条、天から真っ直ぐに降りてきた。


「――ッ!」


 光は縁側の目の前に収束し、千歳は眩しさに目を覆った。

 やがて光が静まると、そこに一人の青年が立っていた。


 長い銀糸の髪が、月光を受けて淡く輝いている。白い狩衣のような衣を纏い、左目の下に三日月の痣がある。切れ長の金の瞳が、真っ直ぐに千歳を見つめていた。


 この世のものとは思えない美しさだった。

 そして千歳は、その存在が纏う気配の途方もなさに、身体が強張るのを感じた。


 ――神。


 これは、神だ。

 理屈ではなく、魂がそう叫んでいた。


「あ……あなたは……」

月読命(つくよみのみこと)


 青年は、淡々と名乗った。


「ツクヨミと呼ばれている。夜を統べ、月を治める者だ」


 千歳の思考が、一瞬止まった。

 ツクヨミ。月読命。三貴子(みはしらのうずのみこ)の一柱にして、夜の支配者。日本神話において、天照大御神(あまてらすおおみかみ)建速須佐之男命たけはやすさのおのみことと並ぶ至高の神。


「う、嘘……」

「嘘はつかぬ。我は元より、言葉少なき神だ」


 ツクヨミは千歳の前に膝をつき、目線を合わせた。金の瞳に、千歳の姿が映り込む。


「長い間、お前を探していた」

「私、を?」

「千年に一度、我ら神と人との間に架け橋を結ぶ者が生まれる。八百万(やおよろず)の神すべてと交感し、その祈りを届ける者。――それを『神和(かんなぎ)』と呼ぶ」


 千歳は呼吸を忘れた。


「『神和』は、人の世の尺度で測れる力を持たぬ。お前たちの言う『神力測定』では、無と出るだろう」

「……え?」

「当然だ。器が大きすぎるのだ。一つの神社の測定器で量れるような、そんな矮小な力ではない」


 ツクヨミの声は静かだったが、そこに確かな怒りが滲んでいた。


「お前を追い出した者たちは、山を掌に載せられぬからといって、山が存在しないと言ったに等しい」


 千歳の目から、涙が溢れた。

 今度は悲しみではなく、もっと複雑な感情だった。驚きと、困惑と、そしてほんの少しの――希望。


「で、でも……私、本当に何もできません。祓いも鎮魂も、何一つ……」

「できぬのではない。やり方を知らぬだけだ」


 ツクヨミは右手を差し出した。白くて長い指。月光が指先に宿り、淡い銀の光を放っている。


「我が教える。お前の中に眠る力の扱い方を」

「どう、して……」


 どうして、自分なんかにそこまでしてくれるのか。

 その問いに、ツクヨミは一瞬だけ表情を揺らした。氷のような美貌に、かすかな温もりが差す。


「我が巫女だからだ」


 低く、しかし揺るぎない声だった。


「千年前にも『神和』はいた。あの者が逝って以来、我ら三貴子と人の世の結びは途絶えた。天照は陽の中に、須佐之男(すさのお)は嵐の中にそれを求めたが、我は……月の光の中で、ただ待った」


 金の瞳が、月光を映して揺れる。


「お前が生まれた夜、月が笑った。我にはそれが分かった。そして今宵、お前が月に祈った。――それで十分だ」


 差し出された手を、千歳は震える指先で取った。

 触れた瞬間、身体の芯が熱くなった。心臓の奥から、何かが目覚めるような感覚。


「あ……っ」

「感じるか」

「は、はい……身体の中に、何か……温かいものが……」

「それがお前本来の力だ。長い間蓋をされていたものが、今、開き始めている」


 千歳の周囲に、淡い光の粒子が舞い始めた。金色の蛍のような、温かい光。


 縁側の隅で、コハクが目を覚ました。光の粒子を見て、その金色の瞳が大きく見開かれる。


「この光……まさか、本当に『神和』の……」

「稲荷の使いか。お前も感じるだろう」

「ツクヨミ、命……!」


 コハクが慌てて頭を垂れる。ツクヨミはそれを一瞥しただけで、視線をすぐに千歳に戻した。


「今宵はここまでだ。急に力を解放すれば身体が保たぬ」


 ツクヨミは千歳の手をそっと離し、立ち上がった。月光が再び彼の身体を包み始める。


「明日の夜も来る。お前が月に祈る限り、我は必ず応える」

「あ、待って……!」


 千歳は思わず手を伸ばした。


「あの、ツクヨミ様。私……本当に、役に立てるのでしょうか」


 ツクヨミは振り返った。

 その金の瞳が、初めて微かに――本当に微かに、柔らかく細められた。


「役に立つ、立たぬの話ではない。お前は在るだけでよい。お前が祈り、笑い、泣き、生きている。それだけで、月は満ちる」


 その言葉を残して、ツクヨミは月光の中に溶けるように消えた。


 千歳はしばらく、月を見上げたまま動けなかった。

 頬を伝う涙が、月光を受けて銀色に輝いている。


「……コハク」

「なんだ」

「私、もう少しだけ頑張ってみてもいいのかな」

「当たり前だ。馬鹿者」


 コハクが千歳の膝に飛び乗り、ふわふわの尾で涙を拭った。


「我がついておろう。それに……ツクヨミ命が直々に動いたのだ。お前が思っている以上に、大事おおごとだぞ、これは」

「大事?」

「三貴子が人の前に姿を現すなど、千年ぶりだ。それも、あの方は滅多に人の世に降りられぬ。姉神の天照大御神にすら顔を見せぬと噂される御方だぞ」


 千歳は驚いて目を瞬いた。


「そんな方が……私なんかに」

「我なんかと言うな。あの方が選んだのだ。それは、つまり――」


 コハクは言いかけて、ふいと顔を背けた。


「……まあ、追い追い分かる。寝ろ、明日も早いぞ」


 千歳はコハクを抱き上げ、部屋に戻った。

 布団に横になると、右手がまだ温かかった。ツクヨミの手に触れた、あの感触。


「おやすみなさい、ツクヨミ様」


 窓の外の月が、一際明るく輝いた気がした。

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