1話 無能の巫女
「――朝霧千歳。本日をもって、天御柱神社における巫女としての務めを解く」
社務所に響いた宣告は、まるで刃のように冷たかった。
障子の向こうで夏蝉が鳴いている。じりじりと肌を焼く陽射しが、開け放たれた縁側から畳の上に四角い光を落としていた。
千歳は正座したまま、目の前の文机に置かれた一枚の紙を見つめた。「神力測定結果報告書」と銘打たれたそれには、無情な文字が並んでいる。
神力値――測定不能(無)。
「……はい」
声が震えないように、唇を噛んだ。
俯いた千歳の頭上から、鷹取颯真の声が降ってくる。
「まあ、仕方ないだろう。三年も猶予を与えたんだ。それでも神力が発現しないなら、うちに置いておく理由がない」
颯真は天御柱神社の宮司の嫡男であり、次期宮司と目される二十三歳の青年だった。端正な顔立ちに切れ長の目。白衣に浅葱色の袴という出で立ちは様になっているが、その瞳には千歳への労りなど欠片もない。
「朝霧の家系は代々この神社に仕えてきた巫女の血筋だ。だからこそ期待もしていたが……残念だよ」
残念、という言葉に込められた侮蔑を、千歳は感じ取っていた。
天御柱神社は、日本有数の霊場として知られる古社だ。ここに仕える神職や巫女には、等しく「神力」――神々と感応し、その力を借り受ける霊的な素養が求められる。
祈祷、祓い、鎮魂。それらはすべて神力あってこその神事であり、神力を持たぬ者がこの場所にいることは許されない。
それが、天御柱神社の掟だった。
「荷物はもうまとめてある。今日中に出ていけ」
颯真が無造作に言い放つ。千歳の胸に、小さな棘が刺さった。
――今日中。
十七年間、生まれてからずっと暮らしてきた場所を、たった数時間で去れと言うのか。
「……颯真さん。せめて、ご本殿にご挨拶だけ」
「必要ない」
遮るように、颯真は立ち上がった。
「神力のない人間が本殿に近づくな。穢れる」
その一言で、千歳の中の何かが音を立てて折れた。
穢れ。自分の存在そのものを、そう断じられた。
「……失礼、いたしました」
深く頭を下げ、千歳は社務所を出た。
振り返れば、千年の風雪に耐えた檜皮葺の本殿が、木々の間から荘厳な姿を覗かせている。あの場所で、幼い頃から毎朝祝詞を上げていた。神楽を舞い、境内を掃き清め、参拝者に笑顔を向けてきた。
神力がなくとも、自分にできることはあると信じて。
「……ありがとう、ございました」
誰にも聞こえない声で呟いて、千歳は鳥居をくぐった。
振り返らなかった。振り返ったら、涙が止まらなくなると分かっていたから。
◇ ◇ ◇
天御柱神社は、深山幽谷と呼ぶにふさわしい山奥に位置している。最寄りの集落までは、山道を半日ほど歩かなければならない。
千歳は巫女装束から着替えた簡素な着物姿で、木漏れ日の差す山道を一人歩いていた。背には小さな風呂敷包みひとつ。十七年分の荷物は、驚くほど少なかった。
蝉時雨の中、ふと足が止まる。
道の脇に、小さな祠があった。苔むした石の祠で、注連縄も朽ちかけている。おそらく、もう何年もお世話をする者がいないのだろう。
「……かわいそうに」
千歳は風呂敷包みを下ろし、祠の前にしゃがみこんだ。懐から手拭いを取り出し、丁寧に苔を拭う。朽ちた注連縄を外し、持っていた麻紐で簡素ながらも新しい注連を結んだ。
「お社が寂しかったですよね。ごめんなさい、立派なお供え物はないのですが……」
風呂敷から、出がけに握ったおむすびを一つ取り出し、葉の上に載せて供える。
それから、千歳は自然と両手を合わせた。
――どうか、この小さなお社の神様が、安らかでありますように。
祈りに、神力は込められない。込めようにも、千歳にはそれがないのだから。
ただの、心からの願い。
それだけのことだった。
――はずだった。
瞬間、祠がぼうっと淡い光を放った。
「えっ……?」
千歳が目を見開く。光は祠から溢れ、周囲の木々を柔らかく照らし出す。苔むした石肌がまるで新品のように白く輝き、朽ちかけていた祠が、みるみるうちに修復されていく。
「な、何……?」
驚いて手を離そうとした、その時。
「――ああ。久しいな、この温もりは」
声がした。
低く、澄んだ、月光のような声。
千歳が弾かれたように顔を上げると、祠の上に一匹の白狐が座っていた。雪のように白い毛並みに、金色の瞳。尾が二つに分かれている。
「あ、あなたは……」
「小さな稲荷の使い番だ。この祠が忘れられてから、もう百年以上も眠っておった」
白狐は千歳をじっと見つめた。金色の瞳が、不思議な優しさを湛えている。
「人の子よ。お前、神力がないと言われたのか」
「……はい。測定で、無と出ました」
「ふん」
白狐は鼻を鳴らした。
「馬鹿な連中だ。あの者たちには見えぬのだろうな」
「え?」
「お前の祈りには、力がある。我はそれで目覚めた。――百年ぶりに、だ」
千歳は意味が分からず、ぽかんと口を開けた。
白狐はひらりと祠から飛び降り、千歳の膝の上にちょこんと座った。驚くほど軽い。そして、温かい。
「コハクと呼べ。しばらくお前についていってやる」
「え、え? で、でも私、神力なんて……」
「うるさいな。百年寝ていた分、足が鈍っておるのだ。お前の温もりで少し休ませろ」
そう言って、コハクは千歳の膝の上で丸くなった。
ふわふわの尾が、千歳の手にそっと触れる。
――あたたかい。
千歳の目から、不意に涙が零れた。
追放されてから、初めて誰かに触れてもらった。それが嬉しくて、悲しくて、温かくて。
「……ありがとう、コハク」
「礼はいらん。おむすびの方がいい」
千歳はつい笑ってしまった。涙を拭いて、残りのおむすびを差し出す。
コハクがもそもそと食べるのを見ながら、千歳は空を見上げた。
木々の隙間から、青空が覗いている。
その片隅に、昼間だというのに、うっすらと白い月が浮かんでいた。
千歳は知らない。
あの月の向こうで、一柱の神が、静かに彼女を見つめていることを。
「――見つけた」
誰にも聞こえぬ呟きが、天上から降りた。
「千年待った。ようやく――我が巫女よ」




