第1章3 風の宿 とまり木亭
私はサラに案内され、こぢんまりとした建物にたどり着いた。年季の入った木造の建物だ。
一枚板の看板には『風の宿 とまり木亭』と彫られている。
きれいに掃除され、誘うように食べ物のにおいが漂っていた。
「さ、疲れたろ。どうぞ」
サラはそう言いながらドアを開いた。
ドアをくぐるとひんやりとした空気に包まれる。床板は古くなっているのか、それとも防犯なのか、歩くときしんだ音が甲高く響く。
カウンターの向こうで背を向けていた少女が振り返った。
「お母さん、お帰りなさい。今日は遅かったね」
「ああ、リサ。歩いて行ったから時間が掛かっちまったよ」
「お客さん?」
少女は後ろにいる私に気づいて首を傾ける。
「そんなようなものかね。さあ食堂を手伝っておいで」
はあいという声を残して、少女は走り去っていく。後には華やかな気配が残っていた。
ふと壁に目をやると地図と共に料金表が掲げられている。
「素泊まり一泊50G、朝食5G、夕食15G」
見たこともない文字だ。ミミズがのたうってるようなのに、なぜか読める。
一泊50G――食事の料金を考えても、恐らく1G=100円程度だろう。
日本の物価で考えても、地方のホテルだと思えばそれくらいだ。
「あんたの部屋はこっちだよ」
右手は食堂だろう、男達の笑い声がした。反対側の廊下を進み、階段の横を通り抜ける。一番奥にある物置のように椅子や箱がドアの前に置かれた部屋を案内された。
「あまり使わない部屋だから、気にしないでね」
少し申し訳なさそうにそう言うと、木でできた素朴なドアをガチャリと開けた。
狭い部屋だ。二・三歩先はもうベッドで、小さな窓がついている。
どうやらただの旅人ではなく、無一文であることを見抜かれているらしい。宿泊客が泊まる部屋とは別で、使い道に困った空間を部屋にしたものだろう。
年下であろうサラの気遣いに恐縮する。けれど、そんなことは言ってられない。
「一息入れたら食事にしよう。ちょっと店の方を手伝ってくるから、あんたはここで休んでおいで」
そう言ってサラは、入り口の向こう側へと姿を消した。
「疲れた」
私はベッドに腰を下ろし、一息つく。
今日は大変な一日だった。
残業の後、部屋に帰り、アールグレイを飲んでいた。パソコンの画面が光ってドラゴンが見えたかと思ったら、この世界だ。
あっけにとられ、ただただ呆然とするしかなかった。
「そうだ、持ち物」
ベッドの上に放り出していたバッグをまさぐる。いつもの通勤バッグに入っているのはバッテリーの切れたスマホと財布に家の鍵。化粧ポーチにティッシュにハンカチ、ペットボトル。通勤時に使う交通系カードもそのままだ。
「あっ」
数珠に手が当たった。真珠のネックレスもちゃんとある。
法事のために準備した物を、あの世ならぬ異世界にまで持ってきてしまった。
普段とは違う非日常が交差する。
「お金になるかな」
ネックレスを手に取りじっと見つめた。真珠が灯されたランプに照らされて月のように光を放っている。
女性なら誰もが持つ葬祭時のたしなみだろう。しかしここは異世界だ。もしかするとかなり価値があるかもしれない。
日本で量産に成功するまでは、相当高価なものだったはず。
一粒で、何日ぐらい生活できるだろうか。いったい何が買えるだろう。
価値があるなら資産になる。
売って終わりじゃなくて、もっと生かせる方法があるのかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
バッグや靴は売ってしまえばそれで終わりだ。
わずかなお金と引き換えに、高度な技術を手放す事になる。
これは、私の『資本』だ。
資本――その言葉に、投資をするときの心構えが浮かんだ。
まずは生活基盤を整え、生活防衛費を確保すること。投資は、生活と心に余裕ができてから――。
その時、トントンとドアがノックされた。
「かおり、いいかい。夕食があるけど食べるだろう?」
不意に声を掛けられた。ビクリと飛び上がり慌てて散らかった品々をバッグの中にしまい込む。
「ありがとうございます。ごちそうになります」
ドアを開けてそう言うと、サラと共に食堂へ向かった。
先ほどまで聞こえてきた声も静まり、食堂はしっとりとした雰囲気に包まれていた。
丸い木のテーブルにクッションもない硬い椅子。
ニコニコと笑うサラは、カウンターの奥にいた男性から皿を受け取り、机の上にコトリと置いた。
「さあどうぞ。まかないだけど味は保証するよ」
促されて椅子に腰を下ろす。手を合わせていただきますと言ってから、スプーンを持つ。
「美味しい……」
大きな芋と人参に玉ねぎ、それに肉が一塊。ポトフのような料理だった。
見た目はありふれた野菜だけれど、食感が違う。
芋は噛むとシャクシャクと音を立てて小気味よく、人参はとろけるようだった。
ほんの少し塩味を感じる。強い味付けの代わりに、緑色の木の芽がピリリとした辛さと風味を醸し出している。
隣の皿に乗っているスライスされた黒パンは、ちぎって口に運ぶと少し酸っぱく、おかずと交互に食べるとちょうどいい。
職場のランチ会で食べたロシア料理を思い起こさせた。
食堂の隅では常連なのか、ナッツを肴に酒を飲んでいる客がいる。さきほどの大柄な男性が鍋を洗い片付けをしていた。
こんな静かな時間は久し振りだ。人といるのに心地いい。
「こっちもどうぞ。よく眠れるよ」
テーブルに置かれたコップからは、ふわりと花の香りが漂っている。
ああこれは、カモミールだ。
ストレスを癒し、心を落ち着かせる効果がある。
あたたかい――ふいに、涙がこぼれ落ちた。
どこかで、口にしたことがある。
これは――慣れない都会で一人暮らしを始めたばかりの時に、母が送ってくれたお茶だった。
ハーブティの香りがふんわりと体を深く包み込む。
「遠いところから来て、大変だろうねぇ。よかったらうちでゆっくりして行っておくれ」
頬を濡らすものには気づかなかったと言うように、サラが微笑んだ。
「母さんたらまた気がいいんだから」
椅子を片付けていた少年が口を挟む。おそらく息子だろう。
サラにじろりとにらまれると、「でもちょっと、知らない話を聞かせてくれそう」とイタズラっぽく笑い、ペロリと舌を出した。
「珍しい国の話なら歓迎だ。情報は稼ぎにも繋がるからな」
いつの間にか宿の主人も出てきて輪に加わる。
それから、香辛料が値上がった、乗り合い馬車が5Gだったから歩いて農家まで行った、――などととりとめもない話をしながら、その夜は盛り上がった。
夕食を終えて部屋に戻った。濡れた布で体を拭いて、ベッドに身を横たえる。
布団の中身は藁だろうか。少しチクリとする。
けれど草のいい香りに包まれて、心はとても落ち着いていた。
小さな窓から光が差し込んでいる。
見上げると、クレーターのある大きな月、土星のようなリングをまとった赤い月、そして青白く輝く小さな月――三つの月が、山の稜線を煌々と照らし出している。
明日は街へ行って、この世界での価値を確認してこよう。
ここは異世界だ。
現実世界での価値観は通用しない。
どう判断されるのか検討もつかないけれど、真珠は多分それなりの価格になるだろう。小銭も珍しいからと買い手がつくかもしれない。
そういえば、以前別の職場で契約書を作っていた。ああいうものは、技術やアイデアを守るためにある。
この世界にも価値を守る仕組みがあるのだろうか。
とりとめもない考えが頭の中を泳いでいたけれど、やがて深い眠りに落ちていった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
よろしければ、続きを読んでいただけると嬉しいです。




