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第1章1 チャートの光と異世界転移

※この物語は、剣と魔法で無双するお話ではありません。


大きな事件よりも、生活や選択の積み重ねを描いていきます。

投資や経済の話は出てきますが、専門知識は不要です。

 ――緑の爽やかな風が、髪をなぶる。遠くに見える城は陽に照らされて、白く輝いている。

 青空にはドラゴンが、弧を描くように舞っていた――。


 今日もよく働いた。深呼吸をするように、大きなため息が胸の奥から吐き出される。


 私、佐々木香織は45歳の派遣社員だ。ひとり都会に部屋を借り、事務員として20年以上働き続けている。

 不安定な非正規の仕事だ。いつ切られてもおかしくない。

 共に働く仲間たちはひとりふたりといなくなり、気づくと残っているのはいつも私。

 やってられないと皆は言う。けれど、続けなければ次の仕事ももらえない。


 仕事は嫌ではない。けれど、何日も続けば疲れは溜まる。

 それでも生きていくためには働かなくては仕方がない。


 今日も大量に渡されたデータを、ひたすらパソコンに入力していた。

 左から右へ、専用システムからExcelにデータを移して加工する。左手でキーを押さえ、右手でクリックし続けた。


 時には罵倒され、無能なあなたはいらないと低い評価をつけられた。歯を食いしばり、人手が足りずに溜まる仕事を片付ける。

 それでも数年ごとに仕事を変えなければならなかった。それが派遣社員としての宿命だ。


 ――だからこそ、投資のチャートを見る時間だけは、私の心を軽くしてくれた。

 ほんの少しでも増えていれば、明日も頑張れる気がする。


 ティーカップから湯気が立ち昇る。スモーキーなベルガモットの香りが、鼻の奥をくすぐった。

 アールグレイの紅茶をひとくち口に含むと、温もりが喉を潤していく。


 ノートパソコンを開き、ボタンを押して、ティーカップを遠ざける。

 表示された画面の中のアイコンをクリック。映し出されたのは一本の線だ。

 株価がグラフになりギザギザと上下している。上がる日もあれば、もちろん下がることもある。

 これが世界を表しているのだから不思議なものだ。

 昨日より少しだけ上向いているのを確認すると、目を閉じた。


「よかった、今日も増えている」


 私は安堵の声を上げて、胸をなで下ろした。

 画面に映し出されているのは、証券会社の投資信託のページだ。別のページをクリックすると、数千円増えているのが数字で示される。世界分散型投資信託に、少額ながら毎月お金を積み立てていた。

 世界中の企業の株が、まるでノアの箱舟のように集められている。

 不安定な仕事だからこそ安心が欲しい。


 そこに描かれているのは私の未来への贈り物だ。

 少しでも生活の足しになるかと数年前に始めてみた。


「これで、……好きなときに、思いのまま休める生活ができたら。ううん、誰も私を知らない遠くの街で過ごせたら」


 夢のような妄想が頭の中に広がる。


 青い空にかすむ稜線。その手前にはどこまでも続く緑の大地と、光る湖がある。

 風は髪を優しくなでて、柔らかな光が降り注ぐ。

 誰にも知られず、そっと姿を消して、広い大地の上で存分に息を吸う。


 それが私の中にある憧れの未来だ。


 現実では、そうはいかない。

 今日も定時で帰る同僚の仕事を引き取った残業で、疲れた体を引きずりながら部屋に帰った。

 途中で買ったニラレバと餃子を温めて、ひとり寂しく箸でつついた。


 ふと、別の世界を訪れても、このチャートは着いてきてくれるのかと頭をよぎった。

 柔らかな日差しが降り注ぐ、緑の大地。そこで深呼吸をしている私に、安心を与えてくれるもの。

 バカなことを考えていないで、早く寝ないと。

 明日は休みだけれど、親戚の法事のために、朝早くに家を出なければならない。

 法事には欠かせない、真珠のネックレスと珊瑚の数珠もバッグに入れた。


 出掛ける先が高原だったらよかったのに。

 それなら歩き慣れたスニーカーで、思う存分ハイキングを楽しめただろう。


 突然、白い光がほとばしった。


 あまりの事に顔をしかめる。

「え、なになに? パソコンのクラッシュ?」

 慌てて立ち上がり、画面をのぞき込む。


 チャートの線が生き物のように脈を打ち、どこまでも伸びていく。世界の値動きが私の未来を暗示するかのように、ギザギザと上下する。

 部屋中に広がる光が体を包み込み、意識を飲み込んでいく。


 まるで光の洪水だ。ナイアガラの滝のような怒濤の勢いに流される。

 体が宙に浮き、恐怖に襲われた。

(うそっ……これで、終わりなの……?)


 強い後悔が胸にあふれる。

 異国の石畳の街にも、珊瑚礁の青い海にも行っていない。もっと広い、自由な場所で、風に身を任せていたかった。


 遠い、どこか。自由になれるそんな場所へ、連れて行って!


 たった一本の命綱にすがるように、私はチャートに向かって手を伸ばした。


 ――緑の爽やかな風が髪をなぶる。

 遠くに見える城は陽に照らされて、白く輝いている。

 青空の中をドラゴンが、身をくねらせながら翔け昇る――。


 目を開けると、見たこともない世界が広がっていた。

 青い空に緑の大地、空気は清々しく、草の匂いを含んでいる。

 人々の雑踏も、肩の疲れも、遠くに消えていた。


 「キャッ!」


 足元を、角を生やした青い蛇が這い回る。一瞬、血の気が引くような感覚に襲われ、足が動かない。


 スズランに似た白い花が銀の鈴のように囁き、どこからか馬車の轍の音が聞こえてくる。

 視界に入るものすべてが、私の日常からかけ離れている。

 まるで、こどもの頃に読んだ絵本の国に、連れてこられたような心持ちだ。


(……ここは、どこ?)


 足元にはいつもの通勤バッグ、そして真珠のネックレスと珊瑚の数珠が入っていた。

 それを手にするとほのかに光る。

 不思議な安心感が訪れた。立ち上がる足が震え、不安が脳裏を過ぎる。


 けれど、胸は高鳴った。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


よろしければ、続きを読んでいただけると嬉しいです。

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