第4話 黒き力
佳紬由さんが去った訓練場には、俺とすもも、そして早朝の張り詰めた冷気だけが残された。
言われた通り、目の前に立つすももを「見よう」と試みた。
目を凝らす。
瞬きを我慢して、網膜に焼き付けるように見つめる。
目を細め、視界の焦点をずらしてみる。
だが、どれだけ集中しても、彼女の周りに「白いオーラ」など見えはしなかった。
「くそ……!」
焦りだけが、喉の奥で乾いた音を立てる。
(見えない。何も見えやしない……!)
静香を守れなかった無力感。
あの“女王”に蹂躙された屈辱。
そして今、復讐を誓ったはずなのに、スタートラインにすら立てていない自分への苛立ち。
「あ、あの、凪人くん?」
俺から滲み出る焦燥を感じ取ったのか、すももがおずおずと声をかけてきた。
「あんまり『目』で見ようとしなくても、いいのかも」
「え? 目以外で見えるの?」
「うーん、なんていうか……物理的に『見る』っていうより、第六感で『感じる』? みたいな……」
すももは言葉を選びながら説明を続ける。
「ほら、誰かに見られてる気配とか、空気がピンと張ってるとか、そういうのに近いっていうか。波導は魂のエネルギー。凪人くんは今までそういうオーラとか見えたことないでしょ? だから、その、目で見えているけど目で見えるわけじゃないんだ。見えないものが見えているみたいな?」
「あはは! 説明が難しいや。私も常時みんなの波導が見えているわけじゃないんだよ。見方を切り替えているんだ。一度目を閉じてみてよ」
「感じるか……」
俺は言われた通り、目を閉じ、意識を研ぎ澄ませようとした。
風が肌を撫でる感覚。
遠くで鳥が鳴く音。
自分の荒い呼吸音と、速すぎる心臓の鼓動。そして、雑念。早く日常へと帰りたい焦り。
(来週は、トウジ(親友)たちと約束していた新作ゲームの発売日だ。本来なら、俺は学校帰りにあいつらと馬鹿スカ笑っていたはずなのに……)
「駄目だ。目閉じたら色々考えてしまうよ」
俺はその場に、力なくあぐらをかいて座り込んだ。
「いいよ、そのままいろいろ考えてみてよ。言ったでしょ、さっき波導は魂の力。そういう焦りとかも大事だよ。凪人くんの波導は今いい感じだよ」
そうか、意識していなくても波導というのは”そこ”にあるんだ。俺の波導も全身を流れているんだ。ただそれを感じ取ることができないだけなのか?
すももちゃんはどうやって見ているんだ? すももの姿は何も変わっていなかった。
「すももちゃんは俺のが見えるんだろ。何が違うんだよ……」
「え、えーと、違い? うーん……私は順序が逆っていうか、波導を扱えるようになってから他人の波導が見え出したっていうか。目に波導を集中させて波導を見ていたよ。今は、無意識に見てるけど」
「じゃあなんで佳紬由さんはそんな順番でやらせるの?」
「私のほうが特殊なケースだよ」
すももはポンと手を叩いた。
「あ! そうだ! いいこと思いついたよ!」
彼女は小走りで訓練場の隅へ向かうと、木刀を一本手に取り、俺の前に立った。
その表情から、先ほどまでの愛らしさが少しだけ消えている。
「私たち宮家は刀を使う一族なんだよ」
「行くよ! よく『感じて』みて」
すももが木刀を中段に構え、ふぅ、と息を吐く。
刹那。
(……!?)
俺はカッと目を見開いた。
すももは一歩も動いていない。だが、空気が変わった。
ピリ、と肌が粟立つような緊張感。
彼女が立っている場所だけ、重力が強くなったような、奇妙な圧迫感。
「どう? 見えない?」
「見えは、しない。けど……なんか、空気が……そこだけ重い」
「うん、それが第一歩だよ!」
すももは構えを解き、嬉しそうに笑った。空気がふっと軽くなる。
「じゃあ、今度はその『重い空気』を、よーく見てて。私の手を『見ない』で、手の『まわり』を見る、みたいな感じで!」
「輪郭だって本来、線があるわけじゃないでしょ? 輪郭線っていうのは絵を描くためにできたもの。でも私たちは輪郭を線として認識できる。凪人くんの脳は、今初めて波導というものを受け入れる準備ができた。魂で見てみて」
すももは木刀を置き、今度はゆっくりと右の手のひらを俺に向けた。
俺は、彼女の言葉を反芻する。
(手を、見ないで、その輪郭を……)
俺は、すももの手のひらから焦点をずらし、その見えないはずの輪郭に意識を集中させた。
相変わらず、肉眼では何も見えない。
だが、さっき感じた「圧」の余韻は、確かにそこにある。
(圧が、ある。そこには、確かに熱がある……)
集中しろ。
あの時、静香を守りたいと願った時のように。
あの時、女王を睨みつけた時のように。
脳の血管が焼き切れるほど、見ようとしろ。
「……あ」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、すももの手のひらを縁取るように、透明な陽炎が揺らめいた気がした。
アスファルトから立ち昇る熱気のような、白い揺らぎ。
「今……!」
「見えた!?」
「いや……陽炎みたいなのが……一瞬だけ、白く……」
「すごい! すごいよ凪人くん! それが波導だよ! まだ、2時間も経っていないよ」
すももが、自分のことのように手を叩いて喜ぶ。
「それでも今はもう見えないや」
「うんうん! 十分だよ。これから、さらに進化するよ。もしかしたら今日中にでも見えるかもね!!」
地獄のような日々の中で、初めて掴んだ、確かな「力」の手触り。
興奮が、指先まで痺れさせるように駆け巡る。
(もう一度だ。すももちゃんのが見えたなら、俺のも……)
俺は、今度は自分の手のひらを見つめた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
(感じろ。俺の『中』にある、力を。集中するんだ。さっきの感覚を忘れるなよ)
さっき、すももの波導を感じようとした時とは、全く違う感覚。
意識を、自分の内側へ。
暗い水底へ沈めていくように、深く、深く。
(もう少しで)
温かい陽だまりのようなすももの力とは違う。
冷たい。
暗い。
泥のように重い。
光を吸い込む、あの「黒」。
すももが言っていた、俺の波導の色。
それは、力というよりも、底なしの「虚無」や「絶望」そのもののように感じられた。
(これか……? 俺の波導……)
その「黒」に指を伸ばした、瞬間。
ドクンッ!!
心臓が早鐘を打ち、脳裏に強烈なノイズが走った。
――目の前に、あの日の光景がフラッシュバックする。
鼻をつく鉄の臭い。
血に濡れた制服のリボン。
床に転がる静香の、虚ろな瞳。
『儂の食事の邪魔をするでない』
見下ろす女の、宝石のように美しい瞳。
『骨の髄まで食っていいから』
土下座する、無力な自分。命乞いをする、なにも守れない惨めな俺の姿。
「――ッ!!??」
俺は、心臓を直接鷲掴みにされたような衝撃に目を見開き、激しく咳き込んだ。
「ごふっ……! はっ、はぁっ、うぇっ……!」
胃の中身が逆流しそうなほどの、人生で感じたことのない吐き気。
全身から、嫌な冷や汗が噴き出している。
「凪人くん!? どうしたの!?」
すももが、血の気の引いた俺の顔を覗き込む。
「凪人くん、波導が! 黒さが……。凪人くん、大丈夫。落ち着いて」
「……見え、た」
俺は、震える声で呟いた。喉が焼けるように熱い。
「俺の……中……。あの、ショッピングモールの……」
「え……?」
目の前にいる女の子を困らせてしまっている。こんなこと、すももも初めてなんだろうな。
「あらら――随分と盛り上がってるわね」
いつの間にか、佳紬由さんが訓練場の入り口に立って、腕を組んでいる。
その目は、過呼吸気味の俺と、怯えたすももの顔を冷静に観察していた。
「佳紬由さん……! あの、俺……」
「顔に書いてあるわ。……自分の波導に触れて、何かロクでもないものを見たんでしょう」
佳紬由さんは、驚くでもなく、俺のそばまで歩いてきた。
「佳紬由さん! 凪人くん、自分の波導に触れてその……」
「そう。それが、凪人くんの波導の『正体』だからよ」
佳紬由さんは、俺の目を逃さないように見据えた。
「凪人くん。普通の波導士はね、波導を『外』に見ようとする。自分の外側にある空気の流れや、他人のオーラをね。……でも、あなたは違う」
佳紬由さんは、俺の心臓のあたりをトン、と人差し指で突いた。まるでそこに何かがいるように。
「あなたは、まず『内側』を見なきゃならない。あなたの波導の源を」
「俺の、内……」
内側にいるのは、あの女王だ。
そういえば、あいつはどこにいるんだ?
いや今は考えても仕方ない。でも確実に俺の中にいるんだろう。
俺は荒い呼吸を整え、脂汗を拭って顔を上げた。佳紬由さんの話を聞かなきゃいけない。
「ここでもう少し波導の説明をしようか。波導というのはね、生まれつき波導の色が決まるの。宮家はね、代々白色の波導をもつの。ほかにもたくさんの種類の色があるわ」
「その黒色が凪人くん本来の波導の色なのかはわからない。遺伝でも色が変わる場合も多いし、小さい時から色が変わる場合もあるからね」
佳紬由さんは話を続ける。
「そして、波導の女王は黒色の波導を持つ。私が知っているこの世界で黒色の波導を持つものは二人だけ」
「二人? 女王だけじゃないのですか? でも、すももちゃんは初めてだって」
「そう。黒は珍しいよ。私だって今までに二人だけしか知らないんだから。だから、あなたの黒色が何に由来するものなのかはわからないわ」
佳紬由はそこで一呼吸置き、告げた。
「でも一つ言えるのはね。あなたは、女王と繋がってしまった。それも魂レベルでね」
「だから、あなたの波導はあなただけのものではない。自分の手足のように使いこなすことは、常人の何倍も難しいわ」
「それが俺の波導?」
「そう、使い方を間違えればあなた自身を呪う力にもなりえる。あなた自身を傷つける力に」
「それでもそれは、デメリットだけじゃないわ。女王と繋がるということは1000年の伝説があなたの身体に染み込む。そうして、凪人くんの成長速度は女王によって急速に上がる」
佳紬由さんは俺の目の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
その瞳は、優しさよりも、もっと鋭利な「期待」で輝いていた。
「今の波導士の中で、一番強くなれるポテンシャルを持っているわ。それは私たちの何十倍もね」
佳紬由さんの声が、呪いのように、あるいは福音のように俺の耳にこびりつく。
「いい凪人くん? 凪人くんの波導は、いい意味でも悪い意味でもほかの誰とも違う。だからこそあなたはこれからも選択し続けないといけない」
彼女は俺の手を握った。
「その力に呑まれて女王の眷属として生きるか、木場凪人という人間として生きるか」
俺は震える手を強く握りしめた。
手のひらには、まだあの冷たく重い「黒」の感触が残っている。
それは、静香を傷つけた絶望の色であり、同時に――今の俺が持つ唯一の武器だった。




