一方その頃……?
母、アンリエッタは人混みをするするとすり抜けて前を目指す娘、クラリスを目で追っていた。
まだ追いつける。
夫のフレデリックは王の到着の喧騒を眺め、気付いていない。
「クララ!あまり前に行っては……!」
呼びかけた声は、すぐに歓声に溶けて消えた。
王を讃える声。
王を一目見ようと、横入りしようとする男を咎める怒声。
幼い王子達へ浴びせられる女性の黄色い声。
耳が痛くなるほどの喧騒の中で、それでもアンリエッタはもう一度、クラリスを呼んだ。
「クララ!戻ってきなさい!クララ!!」
——戻ってこない。
つい数秒前まで、確かに繋いでいたはずの小さな手。
今度は、少しだけ声が震えた。
人混みの中に、見覚えのある淡い色のワンピースを探す。
花の冠を被った、小さな後ろ姿を探す。
だが、目に映るのは知らない人々ばかりだった。
「……そんな……」
胸の奥が、すっと冷える。
アンリエッタはすぐに、近くにいた夫を探した。
「——あなた!」
声を抑えようとしても、抑えきれない。
「……クララが、クララがいないの!」
その一言で、夫の表情から笑みが消えた。
フレデリックは、ほんの一瞬だけアンリエッタの顔を見つめ——
次の瞬間には、すでに周囲を鋭く見渡していた。
「……いつからだ」
声は低く、短い。
動揺を外に出さない、統治者の声だった。
「王の御一行が見えた直後……ついさっきの事よ。
前に出ていくのが見えて、呼び止めたけれど……」
アンリエッタの言葉は、途中で震えた。
フレデリックはそれ以上、問い返さなかった。
——僅かな時間。
だが、この人混みでは小さい子供を隠すには、十分すぎる時間だった。
「……周囲を探せ」
それは、独り言のように低く発せられた言葉だった。
次の瞬間、彼は近くに控えていた数人の男へと視線を投げる。
見た目は、花祭りを楽しむ一介の商人や町人。
だが、その視線を受けた男達は市民に偽装した彼の護衛だった。
「すぐに探せ。だが騒ぎ立てるな、王の顔に泥を塗る」
短く、的確な指示。
男達は頷くと、人混みに溶けるように散っていった。
フレデリックは、今度はアンリエッタの肩に手を置く。
「……必ず見つける」
断言だった。
慰めではない。
だが、それでも——
アンリエッタの胸を締め付ける不安は、消えなかった。
花祭りの喧騒は、なおも高まっていく。
笑い声。
音楽。
王を讃える歓声。
そのすべてが、
娘の姿を覆い隠す幕のように感じられた。
「……クララ……」
アンリエッタは、人混みの向こうを見つめたまま、
祈るように、その名を胸の内で繰り返した。
* * *
クラリスの捜索は難航していた。
すぐに捜索人員は増やされ、街の至る所で目が光った。
だが、どこにも——クラリスの姿はない。
衝撃に耐えきれず、崩れ落ちそうになったアンリエッタを、
フレデリックは咄嗟に抱き留め、そのまま馬車へと運んでいく。
報告が上がり次第、すぐにでも自分の足で愛娘を迎えに行く。
……だが肝心の報告が届かない。
公爵たる者、不用意に苛立ちや感情を表に出してはならない。
己の立場は理解している。
――それでも。
胸の奥に滲み出す焦りだけは、どうしても抑えきれなかった。
* * *
その日——
結局、クラリスは見つからなかった。
日が傾き、やがて街に灯りが入り始めても情報の一つすら手に入らなかった。
「まだだ。もう少しだけ……」
現場近くに残ろうとするフレデリックとアンリエッタ。
だが執事のバートランドは、二人の前に立ち、深く頭を下げた。
「……旦那様。奥様。どうかここは、一度屋敷へお戻りください。
報告が入り次第、すぐにお知らせ致します」
「だが——」
「お願いでございます」
主の言葉を途中で遮るなど、老練の執事にはあるまじき蛮行だが、それでもバートランドは続けた。
「旦那様が倒れられては……奥様がここで気を失われては、誰がお嬢様がお帰りの時お迎えなされるのでしょうか……!」
その言葉に、フレデリックは拳を強く握りしめ——やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
無論、これで捜索が止まるわけではない。
今も兵士達は夕闇に染まる街を巡り、路地から酒場。宿屋から雑貨に至るまで、
考えうるすべてを調べ続けていた。
屋敷へ戻ったエルフォード夫妻は、食事を取る事も眠る事もなく、ただ報告を待ち続けた。
灯りの落とされた広間で。
祈るように、縋るように。
——どうか、無事で。
——どうか、生きていて。
その想いは夜通し途切れることはなかった。
* * *
クラリス失踪の報せは程なくして、国王の耳にも届いた。
事の重大さを悟った王は、即座に大規模な捜索を命じる。
総動員された兵士によって、街の空気は目に見えて変わっていった。
人々は、花祭り二日目を楽しみに、夜の花灯台へと足を運んでいたが——
その途中で、異変に気づく。
巡回する兵士の数。
鋭い視線。
張り詰めた空気。
「……何かあったのか?」
「ただ事じゃないぞ……?」
騒めきと不安は、静かに広がっていった。
そして——夜も更けた深夜のとある酒場。
そこで二人の酔っ払いの男が大声を上げていた。
「あぁ?ガキんちょ? ああ、いたいた!俺によぉ、ぶつかってきやがってさぁ!」
一息でジョッキの酒を飲み干し、酒臭い息と共に、男は下卑た笑いを浮かべる。
「花輪もかぶってたなぁ。丁度目の前に落ちたもんだから、踏みつぶしてやったんだよ!」
「「ひゃっはっは!!」」
「うぃぃ、エールもう一杯!!」
その瞬間。
男達の背後に、音もなく複数の兵士達が集まっていた。
彼らのその後については……。
想像に、難くないだろう。
夜が明けても、クラリスの行方は分からないままだった。
捜索は一晩中続けられ、宿屋から街はずれの倉庫に至るまで、徹底的に洗われた。
それでも、成果はない。
焦燥と不安が、王都全体を覆い始めていた——
その時だった。
「……見た、という者がいます」
朝の冷たい空気の中、ようやく届けられたのは、人伝の情報だった。
「花祭りの最中、泣いていた少女がパン屋の娘に連れられ、路地へ入っていった」
という証言。
「その店の名前は《黄金色の天使》です」
その情報は、即座に王へ、
そしてエルフォード公爵——フレデリックへと届けられた。
「……パン屋、だと?」
疑念と警戒が瞬時に浮かび上がる。
娘を攫ったのか、保護したのかは、今は判断できない。
だが、ただひとつ確かなのは――
『公爵令嬢が、民間人の手で連れ去られた可能性がある』
という事実だった。
命令は、短く下された。
「公爵令嬢を保護するのだ」
日の光が街を照らし始めた頃。
王命を受けた数名の兵士達が路地裏へと踏み込む。
目的地は、ひとつ。
《黄金色の天使》
まだ店の準備も整わぬ朝。
静まり返った通りに――
ドガァッ!!
乱暴な音が響いた。
兵士の蹴りによって、木の扉が音を立てて開く。
「王命だ!」
「中を改める!」
そうして、彼らはパン屋へと踏み込んだ。
そこにいるのが、善意の人々か。
それとも——




