優しいパン屋さん
「わぁ……綺麗なお花の冠……!
その花の冠、壊れちゃったの?」
知らない女の子は、わたしの隣にそっと腰を下ろし、
泣きじゃくる背中を、やさしく撫でてくれました。
「うん……お爺さんにもらった……大事な冠なの……」
その子は、わたしの手の中にある、
潰れてしまった花の冠をじっと見つめます。
少しだけ考え込んでから——
ぱっと、花が咲くみたいに笑いました。
「う~ん……大丈夫!
きっと私のお父さんが直してくれるよ!」
「……ほんと?」
「うんっ!私のお父さん、手先がとっても器用なの!一緒にいこう?」
「……うん……っ!」
胸の奥につかえていたものが、
すうっと、少しだけ軽くなりました。
涙は、まだ止まらないけれど。
でも、さっきまでの「こわい」だけじゃない。
一緒に立ち上がったその子は、
私よりほんの少し背が高くて、
やさしい目をした女の子でした。
「私、ミリアって言うの。
お家は『黄金色の天使』って名前のパン屋さんなの」
「パン屋さん……!
すごい……わたし、初めて……」
思わずそう言うと、ミリアは目を丸くしました。
「えっ?パン屋さん、初めてなの?」
「うん……。怖くない……?」
「ううん、全然怖くないよ?大丈夫大丈夫~」
おっとりした、優しくふんわりした人。
それに、安心できる声……。
不安でいっぱいだったわたしを、優しく癒してくれました。
「それで、あなたは何ていうの?」
「あ……ごめんなさい。私はクラリ……クララ」
そう、今のわたしはクララ。
お父さまが言っていました。
悪い人に私が公爵令嬢だって知られたら、きっと酷い目にあうって。
「クララちゃんね……!よろしくね」
ミリアに手を引かれて歩き出すと、さっきまで胸をいっぱいにしていた不安や悲しい気持ちが、少しずつ遠ざかっていきました。
代わりに、ふんわりあたたかくてやさしい匂いが鼻先をくすぐります。
焼きたてのパンの匂い。
甘くて、香ばしくて……。
何故かお腹が空いてくる匂いでした。
「もうすぐだよ!」
ミリアはそう言って、少しだけ足を速めます。
路地をひとつ曲がった先。
そこにあったのは、小さくて……とても可愛らしいお店でした。
木の扉。
大きな窓。
窓辺には、花祭りの飾りと一緒に、こんがり色づいたパンが並んでいます。
看板には、金色の文字で書かれていました。
《黄金色の天使》
「ここ……?」
「うんっ!ここが私のお家!」
ミリアは誇らしそうに胸を張って、扉を押しました。
——からん。
小さな鈴の音。
扉が開いた瞬間。
「……わぁ……」
思わず、声が漏れました。
店の中は外の日差しとランプの光で明るく、焼き立てのパンの香りが胸いっぱいに広がります!
棚いっぱいに並ぶ、いろんな形のパン。
丸いの、細長いの、星みたいな形のものまで。
「ミリィ、戻ったのか」
奥から聞こえた、低くてやさしい声。
白い粉のついたエプロンをした、大きな男の人が店の奥から姿を現しました。
優しそうな目。
少し日焼けした顔。
そして——ちょっぴり怖いニッコリ笑顔。
「お父さん!この子ね、花祭りで困ってたの!」
ミリアはそう言って、ぎゅっとわたしの手を引きました。
「ん?ああ……なるほど」
パン屋さん——ミリアのお父さんは、
わたしの顔と、ぎゅっと抱えた花の冠を見て、すぐに察したようでした。
「どれ、見せてみなさい」
差し出された大きな手に、そっと花の冠を預けます。
——私のお父さまより、大きな手。
思わず目を丸くしながら、花とミリアのお父さんの手を交互に見てしまいました。
「ほう……!これは綺麗に編んである。
踏まれたのは残念だが……直せるよ」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ、本当だとも。ミリアの友達だろう?良ければ奥でゆっくりしていってくれ」
お父さんはそう言って、店の奥へと戻っていきました。
それと入れ替わる様に、店の奥からミリアのお母さんらしい方が現れました。
「あらまぁ、小さなお客さんね?いらっしゃい~!」
「お、おじゃましていますわ……それと、あの……わたし……」
まだ、ミリアとお友達じゃない……。
その言葉は、喉から出て来ませんでした。
「……?」
言葉に詰まったわたしを見て、
ミリアのお母さんは、少しだけ首をかしげました。
でもすぐに、にこっと微笑んで、しゃがみ込んでくれます。
「大丈夫よ。ここはパン屋だもの。悪い人はいないわ」
そう言って、ミリアのお母さんはしゃがむと、わたしの目の高さまで視線を合わせてくれました。
「う……でも、わたし……お金持ってない……です。その……迷子……なので」
わたしの呟いた声に、ミリアが目を大きくして驚きを顕わにしました。
「え、クララちゃん迷子だったの?」
「えっ」
「え?」
一瞬の沈黙。
わたしは、ぎゅっと胸の前で両手を握り締めて、こくりと小さく頷きます。
その瞬間。
「まぁ……!」
ミリアのお母さんは、驚いた声を上げると同時に、すっと立ち上がりました。
でも、慌てた様子はなくて。
むしろ、落ち着いた、頼もしい動き。
「それは大変だったわね。怖かったでしょう?」
そう言われた途端。
今まで必死にこらえていたものが、また胸の奥でぐらっと揺れました。
「……はい……」
小さく答えると、ミリアのお母さんはすぐにわたしの肩にショールをかけてくれました。
「ほら、まずは奥でゆっくり座りましょう。立ちっぱなしで、きっと疲れてるでしょう?」
「こっちだよ、クララちゃん」
促されるまま、手を引かれるままに店の奥へと連れられた私は、椅子に腰を下ろすと、足の力が抜けて……ふうっと息が漏れました。
「……ふぅ……」
「ね?ここは大丈夫大丈夫」
ミリアは、わたしの隣にちょこんと座って、にこっと笑います。
その様子を見て、ミリアのお母さんは安心したように頷きました。
「お名前はクララちゃん、でいいのよね?」
「……はい」
「じゃあ、クララちゃん。
お母さんやお父さんのお名前、分かる?」
「……はい……」
ちゃんと答えなきゃ。
そう思うのに、声は少しだけ震えてしまいました。
でも、ミリアのお母さんは急かさず、ただ静かに耳を傾けてくれます。
「ゆっくりでいいのよ。ここは安全だもの」
——安全。
その言葉が、胸にすとんと落ちました。
「……ありがとう、ございます……」
ぽつりと零した声に、
「どういたしまして」
ミリアのお母さんは、優しく笑いました。
その時。
「おーい、直せたぞー」
店の奥から、ミリアのお父さんの声が響きます。
「花は少し減ったがな、
それでも、ちゃんと冠だ」
その言葉に、わたしはぱっと顔を上げました。
「わぁ……!」
胸の奥で、
また小さな光が、ふわっと灯った気がしました。
「……ほら。どうだ?」
ミリアのお父さんが、そっと差し出してくれた花の冠。
少しだけ形はいびつで、
踏まれてしまったところは完全には戻らなかったけれど——
それでも。
ちゃんと、あの冠でした。
花はまだ香っていて、
色も、やさしく残っていて。
「……ぁ……」
受け取った瞬間。
胸の奥で、何かがぷつん、と切れました。
「……っ……う……」
声を出そうとしたのに、
喉がきゅっと縮んで、言葉にならない。
代わりに。
ぽろっ。
ぽろぽろぽろ。
さっきよりも、ずっと大きな涙が溢れ出しました。
「……うわぁ……っ……」
もう、止まりません。
怖かったこと。
寂しかったこと。
見つからなかった不安。
そして——
ここが安全だと分かった安心感。
全部が一緒になって、
涙になって、こぼれていきました。
「……クララちゃん……」
ミリアは何も言わずにそっとわたしの隣に来て、小さな手でわたしの頭を撫でてくれました。
「だいじょうぶだよ」
その声は、お母さまのようにあたたかくて、優しくて……。
「……ここにいるよ」
ぽん、ぽん、と
背中を撫でられるたびに、
身体の力が、少しずつ抜けていきます。
ミリアのお母さんとお父さんは、
何も言わず、少し離れたところから、
ただ静かに、その様子を見守っていました。
「……よく、がんばったな」
小さく呟く声。
その言葉を聞いたあたりで、
涙はまだ止まらないのに、
まぶたが、とても重くなってきました。
花の冠を胸に抱いたまま、
ミリアの肩に、こてん、と寄りかかる。
「……みり、あ……」
「……うん」
ミリアは、逃げませんでした。
むしろ、わたしの方へそっと身体を寄せてくれました。
そのまま……。
いつしか、わたしの意識はふわふわと遠のいていきました。
* * *
「……寝ちゃったわね」
ミリアの母、エリーが少し困ったように、でも優しく微笑みます。
「ほら、ミリィも……」
見ると、ミリアもクラリスに寄り添うようにして、すやすやと眠っていました。
「はは……まいったな」
ミリアの父、ガイも頭をかきながらエリーと顔を見合わせます。
「仕方ない。ソファーに運ぼう」
「そうね」
二人はすやすやと眠る子供達を起こさないように、そっと抱き上げ、柔らかいソファーに並べて寝かせ、毛布をふわりをかけました。
その際、クラリスの握る花の冠が崩れないように、その手からそっと外して机に置きました。
「……いい夢を」
その声を、クラリスは眠っていて聞いていませんでした。
しかし、この場所がとても温かく、優しい場所だったことだけは、きっと夢の中でも感じていた事でしょう……。




