もしかして、迷子……?
昼食を終えた頃には、太陽はすっかり高く昇っていました。
時計の針は、ちょうど午後二時を少し過ぎたところ。
お腹も心も満たされて、わたしはすっかり花祭りの空気に溶け込んでいました。
食後の紅茶を飲みながら、お父様が言いました。
「午後は大広場の方で芝居があるらしい。国王陛下御一家も視察に来られるらしいし、我々も行ってみようか」
お父さまのその一言に、わたしは大賛成!
だって、お芝居を観るのも初めてなのです!
それに、国王陛下と王妃殿下が、花祭りの視察として大広場へお出ましになるらしいのです。
それなら、きっとアレクとルイスも来るはず……。
「あらあら。でもクララ、人が多くなるから、私の手を離してはいけませんよ?」
「はいっ!お母さま!」
調子よく返事をしたものの、わたしの心はドキドキとワクワクで、もう上の空でした。
* * *
大広場へ近付くにつれ、段々人が多くなってきました。
「わぁ……!」
思わず、きょろりと周囲を見回しました。
人、人、人。
さっきまでよりも、ずっと人が増えている気がします。
はぐれてしまわないように、わたしはしっかりとお母さまの手を握りました。
やがて、遠くの方から歓声が聞こえ始めました。
「陛下だ!」
「国王陛下万歳!」
「王妃様ーっ!」
波のような声が、街を揺らします。
人の流れが、自然とひとつの方向へ動き始めていたのです。
まるで、目に見えない大きな円が描かれるみたいに。
「クララ、手を離さないでね」
お母さまが、わたしの手をしっかりと握ってくれました。
「はい……!」
そう答えながらも——
わたしの視線は、もう前の方へと釘付けになっていました。
だって。
人垣の向こう。
警護の兵士さんたちに囲まれて歩く、一行の中に——
「……アレク……?」
見覚えのある金色の髪。
凛と背筋を伸ばした姿。
そして、その少し後ろに——
淡い赤色の髪の、もうひとりの王子さま。
アレクと、ルイス。
つい先日、一緒に走って笑って、友達になった二人が今は、王子さまとして歩いているのです。
その姿は、庭園で見たときとはまるで違っていました。
アレクは前をまっすぐに見据え、
民衆に向けて穏やかに頷きながら歩いています。
ルイスもまた、小さな体で精一杯胸を張って、
必死に「王子さま」をしていました。
(……かっこいい)
思わず、胸の中でそう呟いてしまいました。
知っているからこそ。
照れ屋で、ちょっと野菜が苦手で、
笑うと目がくしゃっとなることを知っているからこそ——
今の二人が、とても眩しかったのです。
気がつけば、足が前へ出ていました。
「クララ?」
お母さまの声が、背後から聞こえた気がしました。
でも。
「陛下万歳!!」
「国王陛下ー!!」
その声は、すぐに人々の歓声に飲み込まれてしまいます。
人の波が、ぎゅっと密になって。
わたしの身体は、いつの間にか前へ、前へと押し出されていました。
「……っ」
必死に背伸びをして、
人の隙間から、最前列へ。
そして——
ルイスと目が合いました。
「……!」
一瞬、驚いたように目を見開いて。
それから、はっとした顔で、こちらをじっと見つめるルイス。
(気付いてくれた……)
心が、ぱっと明るくなりました。
わたしは、そっと……誰にも気付かれないように、胸の前で小さく——
ひらり。
手を振りました。
ルイスは、一瞬きょとんとして。
……それから。
視線をきょろきょろ。
周囲の人たちを気にして。
右手が、ぴく。
左手も、ぴくぴく。
上げたい。
でも、上げられない。
そんな迷いが、表情にも動きにも、全部出ていました。
(……だいじょうぶだよ!分かってるから!)
心の中で、そっと伝えます。
でも、その時。
「陛下、どうぞこちらへ」
案内人の声が響き、
国王陛下が一歩、前へ進まれました。
それに続いて、王妃様が、アレクが。
そして——
ルイスも。
振り返りながら。
後ろ髪を引かれるように、でも前へ。
わたしと目が合ったまま、
最後に、ほんの一瞬だけ。
小さく。
本当に小さく。
——こくり。
そう、頷いてくれました。
それだけで、胸がいっぱいになりました。
……でも、ふと気付いた時。
わたしの手は……お母さまの手を離していたのです。
周囲には、知らない人たちばかり。
歓声と音楽と、人の熱気。
「……あれ?」
胸の奥に、
ひやりとしたものが広がりました。
この時、わたしはまだ——
それが「迷子のはじまり」だと、はっきりとは分かっていなかったのです。
「……お母さま……?」
わたしは、きょろきょろと周囲を見回しました。
さっきまで隣にあったはずの、あの温かい手。
でも、どこにも見当たりません。
人、人、人。
振り返った視界いっぱいに広がるのは、知らない顔ばかり。
「……あれ?」
もう一度、今度は少しだけ大きく息を吸って、辺りを見渡します。
(だいじょうぶ……だいじょうぶよ……)
そう、自分に言い聞かせました。
お母さまは、きっとすぐ近くにいます。
ちょっと見えなくなっただけ。
そう思って、一歩前へ。
……でも。
人の流れは、思った以上に強くて。
ぐい、と肩が押され、
気付けばわたしの身体は、流れに沿って動いていました。
「……っ」
「わ、わたし……」
声を出そうとした、その瞬間。
どんっ、と太鼓の音が鳴り響き、
きゃあっ、と歓声が上がりました。
どうやら——
大広場で、お芝居が始まったようです。
音楽が鳴り、
役者さんの声が高らかに響き、
人々の拍手と笑い声が、空気を震わせます。
「……おかあ、さ……」
声を出しても、
すぐに、音の波に飲み込まれてしまいました。
胸の奥が、きゅっとします。
でも、不思議と……。
怖いだけじゃ、ありませんでした。
こんなにたくさんの音。
こんなにたくさんの人。
こんなに大きな、非日常。
心のどこかが、ふわふわと浮いているような——
変な、高揚感。
(……こっちに行けば……)
わたしは、人の流れを避けるように、
横へ、横へと動き始めました。
お母さまは、きっとあっち。
そう、何となく思ったのです。
人波をかき分けて。
小さな身体で、必死に。
でも。
気付けば、音楽は少し遠くなり、
歓声も、だんだん小さくなっていました。
(……あれ?)
立ち止まって、振り返る。
さっきまで見えていた大広場は、
もう、人の隙間の向こう。
むしろ——
遠ざかっていました。
「……ちがう……?」
胸が、ひやりと冷えます。
慌てて、今度は反対方向へ。
でも、人の流れは一方通行で、
思うように進めません。
やっとの思いで人混みを抜け出した時。
そこは、
少し静かな通りでした。
屋台もまばらで、
通る人も、ぐっと少ない。
「ぁ……」
周囲を見回しても。
——お父さまも。
——お母さまも。
どこにも、いません。
「……おかあ、さま……」
声が、震えました。
胸の奥が、ぎゅっと縮んで。
目の奥が、じんわりと熱くなります。
(……だめ……なかない……)
そう思って、ぐっと唇を噛みました。
でも。
不安は、足よりも早く、胸いっぱいに広がっていきます。
わたしは、どこへともなく走り出しました。
あっちへ。
こっちへ。
人の顔を見上げては、首を振って。
また、別の道へ。
でも、走れば走るほど、
広場の音は遠ざかり、
知らない街角ばかりになっていきました。
「……っ……」
とうとう、涙がこぼれました。
ぽろり。
ぽろぽろ。
止めようとしても、止まりません。
通り過ぎる大人たちは、
一瞬だけこちらを見て、
すぐに目を逸らします。
飾り気はないが、見るからに良質な綺麗な服。
はしゃぎ回る子供とは雰囲気の違う子供。
関わらない方がいい。
そう思われているのが、分かってしまいました。
「……ひっ……」
鼻をすする音が、情けなく響きます。
その時。
どんっ。
突然、身体がぶつかりました。
「うわっ」
相手は、酒の匂いのする大人の男の人たち。
「なんだぁ、ガキんちょ。まっすぐ見ねぇとあぶねぇぞぉ」
ふらふらとした足取りで、そのまま去っていきます。
足元を見ると——
「……ああっ!」
花の冠が。
踏まれて、
ぐしゃりと潰れていました。
庭師のお爺さんが、
大切に編んでくれた、あの花。
わたしは、急いでしゃがみ込み、
潰れた花を胸に抱き寄せました。
「……ッ!」
声を殺して、
ただ、泣きました。
これ以上踏まれないように、人通りの少ない道の隅で、小さく、丸くなって泣きました。
——とて、とて。
近付いてくる、小さな足音。
「……ねぇ」
やわらかい声。
「大丈夫?」
顔を上げると。
そこにいたのは、
ふんわりとした茶色の髪の女の子。
そして。
ほのかに漂う、
——焼きたてのパンみたいな、甘い香り。
「……ッ」
言葉より先に、
涙が溢れてしまいました。
あの日の不安と、不思議と安心出来るパンの香り。
……今でも忘れられません。
これが私と——ミリアとの、出会いでした。




