リネット・ハーシェル
王立学園の寮は、すべての生徒に平等だった。
第一王子であろうと、公爵令嬢であろうと例外はない。
——無論、配慮は存在するが。
与えられるのは二人部屋。
共同生活を通して協調を学ぶ、それがこの学園の方針だという。
それはつまり、身分を盾にした孤立も、特権による隔絶も許されないということ。
この学園に足を踏み入れた瞬間、誰もが同じ学生になるのだ。
……建前の上では。
女子寮の廊下を進みながら、私は小さく息を吐いた。
寮の廊下は想像していたよりも静かで、まだ新入生ばかりのためか、どこか落ち着かない気配が漂っていた。
時々通り過ぎる扉の向こうからは荷物を設置する音や、ルームメイトと語らう笑い声が漏れ聞こえて来る。
誰もが今日から始まる新しい生活に、少なからず緊張しているのだろう。
「私の部屋は……ここね」
私は与えられた部屋番号の前で足を止めた。
念の為軽くノックをすると、すぐに中から慌てた足音が聞こえた。
「は、はいっ! どうぞっ!」
「失礼するわね」
扉を開けて自室へと入ると、緊張した面持ちで壁際に立っていたのは、柔らかな栗色の髪を肩まで伸ばした、くりっとした目をした小動物のような少女だった。
薄い桃色の瞳が、こちらを見た瞬間――びくりと揺れる。
「あ……あの……ク、クラリス様……ですよね……?」
声が震えている。
きっと、私が同室だと知らされてから、ずっと落ち着かなかったのだろう。
私は微笑み、そっと一礼した。
「ええ。今日からお世話になりますわ」
それだけで、彼女はさらに慌てたように背筋を伸ばした。
「わ、わたくし、リネット・ハーシェルと申します……! 男爵家の……その……未熟者ですが、どうぞよろしくお願い致します……!」
深々と頭を下げる姿は、どこか必死で……私との間に見えない境界線を引いているようだった。
……ああ。
私は、こういう空気を何度も見てきた。
公爵令嬢という肩書きが、無意識に壁を作ってしまう。
私はゆっくりと室内へ足を踏み入れ、まだ空いているスペースへ荷物を置くと、リネットの正面へ向き直った。
「そんなに畏まらなくていいのよ」
そっと、手を差し出す。
「今日から同じ部屋で暮らすのですもの。いきなりで緊張するけど……お友達になりましょう?」
リネットは目を見開き、信じられないものを見るように私の手を見つめた。
「……お、とも……だち……?」
夢か現実かをまだ理解できずに、リネットは惚けた声で小さく返事をした。
私は頷き、微笑みを崩さない。
「ええ。身分は関係ありません。ここでは同じ学生でしょう?」
ほんの少しだけ間があって――おずおずと、彼女の手が伸びる。
躊躇いながら差し出された、小さく震える手を――私の方から、そっと包み込む。
「あ……っ!? そんな、クラリス様……!」
「様はいらないわ。クラリスでいいの」
「あわわ……む、無理です……! せ、せめてクラリス様で……っ!」
そう言って再び軽く握り返すと、彼女はぱっと頬を赤らめた。
その様子が可愛らしくて、思わずくすりと笑ってしまう。
……こうして。
学園での最初のお友達は、静かに生まれたのだった。
* * *
握手を終えたあとも、リネットはどこか夢の中にいるような顔をしていた。
「……本当に、よろしいのですか?」
「……何がかしら?」
「わたくしのような者が……その……クラリス様と、同じ部屋で……」
言葉を選びながら、それでも本音が零れてしまう。
私は小さく首を傾げた。
「同じ部屋で、ではなくて……同じ部屋だから、よ」
リネットはきょとんと目を瞬かせる。
「寮は二人部屋。なら、二人で過ごす場所でしょう? あなたが遠慮していたら、私が寂しいわ」
そう言うと、彼女はぱっと慌てて首を横に振った。
「そ、そんな……! クラリス様が寂しいだなんて……!」
「ふふ……、だからちゃんとお話してくれると嬉しいわ」
軽く笑いながらそう言えば、リネットはまた「あわわ……」と頬を染める。
……かわいい。
こうしてみると、本当に小動物みたい。
ずっと立ったまま話すのも何だと、私は自分のベッドへと腰掛け、リネットへと隣へどうぞとベッドをポンポンと叩く。
「し、失礼します……!」
おずおずとリネットが隣へ座ったのを確認して、私は再び質問を口にした。
「リネットは、王都へ来るのは初めて?」
「は、はい……。領地から出るのも、これが初めてで……」
不安と期待が入り混じった声音。
「ご家族は心配しているでしょうね」
「……はい。でも、学園に入るのはずっと夢でしたから」
そう言った瞬間だけ、彼女の瞳に強い光が宿る。
その光を見て、胸の奥が少し温かくなる。
ああ、ちゃんと自分の意志でここに来たのね。
偉いなぁ……そう思った時だった。
ぐぅ……。
静かな部屋に、妙に素直な音が響く。
一瞬、沈黙が室内を満たし、廊下や隣の部屋の物音が妙に大きく聞こえた。
ぷるぷると震えるリネットの顔は、唇を噛み締めたまま、みるみる赤く染まっていく。
「も、申し訳ございませんっ……!!」
私は思わずくすりと笑ってしまった。
「ふふ……ちょうど良かったわ。私もお腹が空いていたの」
「え……?」
「食堂へ行きましょうか。初日の夕食、きっと混み合うわ」
そう言って軽く手を差し出すと、リネットはほっとしたように息を吐いた。
「……はい、クラリス様!」
さっきよりも戸惑いなく私の手を取る彼女に、私は小さく満足する。
こうして二人並んで部屋を出て、廊下を歩き始めた。
* * *
夕刻の灯りがカーペットの敷かれた廊下を淡く照らし、窓の向こうには紫から深い青に染まる夜空が見える。
もうすっかり日も暮れていた。
「寮の食堂は……この先を曲がったところのようね」
「は、はい……!」
隣を歩くリネットから、まだどこか緊張を残した声が帰って来る。
それでも、先ほどよりは歩幅が揃っていた。
「ごきげんよう」という挨拶が飛び交う女子寮の食堂は、想像していたよりも広く、天井には柔らかな魔法灯が灯っている。
長い木製のテーブルが幾つも並び、既に多くの女子学生が席についていた。
鼻孔を擽るのは香ばしいパンの匂いと、温かなスープの湯気。
家で食べていた豪華な食事よりもどこか家庭的で、それでいても規律のある空気が漂っていた。
……だが、そこに流れている視線の温度は、昼間と変わらない。
私達が入室した瞬間、いくつもの視線が一斉にこちらを向いた。
すぐに逸らすもの。
わざとらしく微笑むもの。
興味を隠さないもの。
そして――ひそひそと寄せられる囁き。
「クラリス様よ」
「男爵令嬢と同室ですって……お労しい事」
「でも平民と同じ部屋でないだけいいじゃないの。……ねぇ?」
扇はないが、手元で隠す仕草は変わらない。
……本当に、噂話が好きな事で。
「……申し訳ございません、クラリス様」
小さな声でリネットが謝る。
「何がかしら?」
「その……皆様の視線が……。私なんかと一緒にいると……」
私は微笑んだ。
「慣れているわ。……リネットには迷惑をかけるわね」
「そんな……っ!」
半分は本当で、半分は嘘。
視線そのものは慣れている。
でも――今日のそれは、少しだけ鋭い。
「……列に並びましょうか」
料理は決められた順路で受け取る形式らしい。
私達は自然に最後尾へと並ぶ。
貴族も平民も、等しく同じ皿を受け取る。
これが、この学園のルールだ。
——ただし。
「あ……その、ど、どうぞ……」
「ふん……」
自発的に順を譲るのは咎めようもないし、強要されていないのなら罰則もない。
見慣れた光景として、年々受け継がれてきた悪い風習。
その一端を目の当たりにして、私はげんなりした気分になった。
私の前に並んでいた生徒は、私の顔を見るなり順を譲ろうとしたが、小さく首を横へ振り、背へ手を添えてそのまま並ばせた。
トレイを手に取り、パンとスープ、サラダに……チキンをメインにした簡素だが栄養の整ったメニューを受け取る。
二人分の席を探す視線の中で――
食堂の隅の席に、少しだけ周囲と距離を取るように座っている茶色の髪の少女――ミリアの姿を見つけた。
彼女の周囲には、露骨にぽっかりと空席がある。
誰も彼女の近くには座ろうとしない。
そんな彼女を嘲笑うように、時々視線を彼女へ向けては意地悪く口元に弧を浮かべる貴族令嬢達。
きっと内心では『いい気味ですわ』と漏らしているのだろう。
冷たい視線に晒されながらも、彼女は一人温かいスープを口に運び、何も感じていないように気丈に振舞っていた。
(……やっぱり)
「クラリス様?」
リネットが首を傾げる。
「なんでもないわ。あちらに座りましょう」
敢えてミリアと椅子二つ離れた窓際の席を選び、トレーを手に進む――が、行く手をやんわりと塞ぐように二人の生徒が立っていた。
「これはクラリス様、ご機嫌麗しゅう。お席でしたらあちらの見晴らしの良い窓際の席はいかがでしょうか?」
「わたくし、ご案内いたしますわ?」
(ふぅーん……?)
にこり、と微笑む。
「お気遣いありがとう。でも、今日は窓際の気分ではないの」
やわらかな声でそう告げると、二人の令嬢は一瞬だけ表情を強張らせた。
「で、ですが――」
「リネットとゆっくり話したいの。人気の席だとにぎやかでお話し辛いでしょう?」
声は優しいまま。
――だが、僅かに声に籠める温度を落とす。
「……失礼いたしましたわ」
二人は僅かに表情を強張らせながらも、形ばかりの礼をして道を開ける。
私は視線を動かさず、そのまま進む。
そしてトレーを置いたのは――ミリアの二つ隣。
そこへ静かに腰を下ろした。
リネットも慌てて向かいの席へ腰を下ろす。
私達がこの席座っても、食堂の賑やかさは先程と変わらない。
だが――僅かに空気が変わったのを肌で感じていた。
なぜそこに座るのか? という視線が、いくつも刺さる。
居心地が悪そうなリネットには申し訳なかったが、私は何も気付かないふりをして、スープに口をつけた。
……うん、味も悪くない。学園のシェフはきっと大変ね。
視線の端に、ミリアの横顔が映る。
彼女は気付いているだろうか。
この距離が――偶然ではない事に。
それでも私は、彼女へ視線を向けない。
今はまだ……隣に行くべきではない。
それが、私の選んだ立ち位置なのだから。




