たった一人の平民
入学式が終わったからといって、感傷に浸る時間などこの学園には用意されていなかった。
早々に容赦なく授業は始まり、今日から等しく寮での生活に入る。
遠方の領地からきた生徒は、長期休暇でなければ簡単に家には帰れない。
帰る場所は――この学園の寮なのだ。
そんな現実を突きつけられるように、生徒達は再びAクラスの教室へと戻ってきた。
教室の机は一人一人の席が設けられているわけではない。
教卓と黒板を囲むように半円を描く階段教室であり、誰がどこに座るのかすらも、生徒自身に委ねられている自由席である。
だが自由とは同時に――残酷さを生む事がある。
その意味を、ミリアはすぐに身を以て理解する事になった。
「……っ……」
ミリアの周囲だけ、ぽっかりと空席ができていた。
誰も近寄らない。
誰も隣に座らない。
まるでそこに見えない禁足地があるかのように。
だが彼女の孤独を破ったのは――アレクだった。
何事もない顔で、いつもと同じ穏やかな微笑みを浮かべたまま、彼はまっすぐミリアの方へ歩いていく。
そして、彼女のすぐ隣で足を止めた。
「――隣、いいかな?」
静かな声。
だがそれは教室の空気を変えるには、十分すぎる一言だった。
ミリアは驚いたように顔を上げ、次の瞬間、慌てて視線を伏せた。
「……は、はい……っ」
かすれた返事。
それだけで、彼女の緊張が伝わってくる。
アレクは構わず隣へ腰を下ろし、やわらかな声で続けた。
「さっきの挨拶――とても立派だった。僕は心から感動したよ」
その言葉に、ミリアの肩がびくりと揺れる。
「……そんな……光栄です、殿下」
小さく呟き、恥ずかしそうに下を向いてしまう。
(もう……アレクの不器用……っ!)
クラリスも、ミリアの隣席へ歩き出そうとして――ぐっと、誰かに手首を掴まれた。
「えっ……?」
振り向くと、手を握っていたのはルイスだった。
「……何?」
小声で問いかけようとするも、彼は言葉の代わりにわずかな視線だけで私を制した。
――見るんだ、周りを。
そう言われた気がして、クラリスは静かに教室を見渡した。
令嬢達は顔を寄せ合い、眉をひそめて扇の陰で何かを囁き合っている。
一方男子生徒達は、まるで自分達には関係のない出来事のように談笑していた。
その温度差が――下手な言葉よりも雄弁に物語っていたのだ。
「……クラリス、ちょっと」
「え? え??」
手を引かれるままに教室を出て、人気のない階段の踊り場へと辿り着くと、ようやくルイスは足を止めた。
「ちょっとルイス……! 何なの……?」
ルイスは周囲を一度だけ確かめるように視線を巡らせ、それから静かに口を開いた。
「……今、君がミリアの隣に行くのは得策じゃない」
低く抑えた冷徹にも聞こえる声。でもその言葉には迷いがなかった。
「……どうして? ミリアちゃんが、あんな……」
思わず声が強くなるのを、クラリスは途中で必死に飲み込んだ。
ここは階段。偶然誰が聞いているか分からない。
ルイスは困ったように僅かに眉を下げ、それでも冷静なまま言葉を続けた。
「君が動けば、公爵令嬢が平民を庇ったって構図になる」
「それの何がいけないの?」
「全部だよ」
即答だった。
「今はまだ、誰も本気で敵意を向けてるわけじゃない。――ただ様子を見ているだけだ」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷える。
「でも君が動けば話は変わってしまう。対立が確定してしまうんだ」
……対立。
その重い言葉を静かに飲み込み、胸へ沈めていく。
「兄さんは王子だ。……多少の無茶は美談になるし、むしろ平民を気に掛ける慈悲深さがあるとアピールできる。……でもね」
ルイスの視線が僅かに遠くを見る。
「平民に恋をした。平民に熱を上げた。クラリスという婚約者がいながら、愛は平民に向けられた。その言葉だけが学園に蔓延し、それが両親への手紙で貴族界に広がれば、どうなると思う?」
「私は容認しているし構わない……なんて言っても無駄よね……」
「うん、二人の間にどれだけの愛があろうと、どんな事情があろうとも、王子を誑かした悪女としてしか見られないんだ。だから……政治的に二人を離れさせるだけで済めば良いけど、最悪ミリアは……」
息が止まりそうになった。
分かっている。分かっているけれど――
「……じゃあ、見ているだけでいいって言うの?」
クラリスは自分でも驚くほど弱々しい掠れた声を漏らし、目を伏せる。
それを見てルイスは少しだけ沈黙し、それから静かに首を横に振った。
「違うよ」
その声は、驚くほど優しかった。
「今は、まだ動く時じゃないってだけ」
――今は、まだ。
その言葉が、かろうじてクラリスを繋ぎ止める。
「……タイミングや方法を間違えたら、君はミリアを守れない」
「……っ」
「それどころか、君ごと潰される。平民に負けた婚約者は王子にふさわしくない……ってね」
静かな厳しい断言。それに脅しの色はなかった。
ただの――現実なんだと。
* * *
しばらく、私は何も言えなかった。
胸の奥で、感情と理性がぶつかり合っている。
助けたい。今すぐ隣に行きたい。
でも――私は、エルフォード公爵家の娘。
感情に身を任せては、何も守れない……。
「……安心して、クラリス」
長く重苦しい沈黙を破ったのは、やはりルイスからだった。
ふっと、いつもの軽やかな笑みが戻る。
「兄さん一人に背負わせたりしないさ」
その言葉に、私ははっと顔を上げた。
ルイスの瞳は――笑っていなかった。
「盤面は、ちゃんと見る」
それはまるで、戦場を読む将の目だった。
「だから君は、切り札のままでいて」
――切り札。
その言葉が脳裏で何度も反響して響いた。
……ずるい。
そんな顔で、そんな言葉を言われたら。
「……分かったわよ」
小さく、本当に小さく息を吐く。
「今は……我慢する」
ルイスは何も言わず、ただ満足そうに微笑んだ。
そして――
「さ、戻ろう? 授業をサボる訳にはいかないからね」
まるで何事もなかったかのように、彼は踵を返す。
――ミリアちゃん。
胸の奥で、小さく名前を呼ぶ。
(……待っててね)
今はまだ、動けない。
でも……必ず守るから。




