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越えられない境界

 入学式の朝。


 私は鏡の前で何度目になるか分からない、服装チェックをしていた。


 纏うのは真新しい学園の制服。

 普段来ているドレスや服に比べ、とても動きやすくて新鮮な気持ちになる。



 本当ならわくわくしながら迎えられたはずの日なのに、私はどれだけ深呼吸しても胸の奥で詰まるような嫌な感覚を覚えていた。

 

 ――何故なら、ミリアちゃんと再び同じ場所に立てるかどうかが分かる日だから。



 身支度も手荷物も、もう何度も確認した。

 鏡に映る自分は、制服を纏っていても公爵令嬢らしい気品も立ち振る舞いも損なわれていない。

 姿勢も、浮かべる微笑みも、何一つ乱れてはいない。


 それなのに――


 (……どうして、こんなに不安なのかしら)


 答えは分かっている。

 分かっているからこそ、口には出さない。



*   *   *



 馬車がつけられている玄関前には、両親が待っていた。


 いつも通り、穏やかな微笑みを携えた表情。

 その瞳の奥にある優しさは、幼い頃から何一つ変わっていない。



 「お父様、お母様……行ってまいりますわ」


 軽く足を引き、膝を降りながらスカートの裾を少し持ち、身を低くしてお辞儀をする。

 お母様は何も言わずに歩み寄ると、そっと私を抱きしめた。


 驚くほど、あたたかい腕。

 整えられていたはずの心が、一瞬だけほどけてしまいそうになる。


 「体に気を付けて……愛しているわ」


 短い言葉には深い愛情が込められて、それだけで胸がいっぱいになる。


 お父様もまた、威厳に満ちた表情で静かに頷いた。


 「エルフォードの名に恥じぬよう――精一杯頑張ってきなさい。……だが、それ以上に……自分らしくありなさい」


 その言葉に私は小さく目を見開き、そして深く頭を下げた。


 「……はい、お父様」


 「……寂しくなるな」


 お父様はふっと表情を柔らかくして、両手を広げた。

 

 「……っ……!」


 私は迷わずその腕の中へ飛び込み、ぎゅっと身を預けた。


 「何かあればすぐに手紙を出すんだよ、私の可愛いクラリス」


 

 このまま離れたくない、家に居たいと思う心をきゅっと縛り付け、抱擁の温もりをしっかり胸にしまい込み、身を離した。



 これ以上二人の顔を見ていると足が止まってしまいそうで、私は足早に馬車へと乗り込んだ。

 まもなく御者によって馬車が滑る様に走り出し、遠ざかっていく二人の姿に思わず私は窓から身を乗り出して叫んだ。


 「行ってきます!!また長期のお休みには絶対に帰ります……!!」


 二人の返事は聞こえなかったけれど、しっかりと手を振って応えてくれた。

 その姿にまた……涙が滲んでしまうけど、門を出て二人の姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。



*   *   *



 学園に近付くにつれて、馬車の数が増えていった。

 渋滞するかと思いきや、装飾が控えめな馬車はまだ校門は遠いのに道端で動きを止め、そこから真新しい制服に身を包んだ子息令嬢が歩き出す。


 より身分が高い者ほど、校門近くまで馬車で行ける。これもまた伝統なのだそうで、誰も不服そうな顔をしていない。


 学園に入れば平等。だがそれまでは身分の差は露骨に表れる。



 私の乗る馬車は校門目の前まで進み、ゆっくりと止まった。



 「行ってらっしゃいませ、お嬢様」


 「ありがとう、ケルゼン」


 御者の助けを借りて馬車を降り、胸を張って校門を通り抜けた。


 歩くだけで、幾つもの視線がこちらへ向けられる。


 貴族の子息や令嬢達は、何度か舞踏会やお茶会などで顔を合わせていてお互いに顔見知りではある。

 それでも声を掛けてこないのは、気遣いなのか、それとも図っているのか。


 同じように真新しい制服を靡かせながら、道の中央付近を堂々と歩いている。

 その一方で、道の端を目立たぬように歩く生徒達。

 同じ学園の生徒であり、同じ制服を纏っていても、貴族と平民という見えない境界線が存在していた。



 私は背筋を伸ばし、道の中央から一歩横にそれた場所を堂々と歩く。


 ――公爵令嬢として。

 ――未来の王妃として。


 どれほど学園生活に期待を膨らませ、心が躍っていても、それを外に見せることは許されない。

 穏やかで動じぬ微笑みを携えて余裕を見せなければならない。





 やがて、前方に人だかりが見えてきた。


 クラスの振り分けが貼り出されている掲示板の前。

 自分のクラスがどこか、誰と一緒かで一喜一憂する騒めきなのかと思えば……どうやらそうではないらしい。

 掲示板を囲むというより、誰かを人の輪の中に囲っているような……。

 

 ひそひそと小声で会話をしている生徒達の顔には、揃って戸惑いの表情が浮かんでいた。




 「……何の騒ぎですの?」



 人の輪の最後尾から静かに問うと、私の顔を見た生徒達が気まずそうに身を引き、その動きが次々と伝播して、道を作るように左右へと退いた。



 開けた景色のその中心には――ずっと会いたかった少女(ミリア)が座り込んでいた。


 ミリアを庇うように、その前に立つアレク。

 そして、深く頭を下げ、臣下の礼を取る伯爵令嬢をはじめとした貴族令嬢達。



 胸が、ドクンと大きく鳴った。

 

 視線を掲示板へ向け、目を凝らすと、特進クラス――A組。

 その名簿の一番上にミリア・ブレッドリーの名前があった。



 この位置に名前があるということは――考えるまでもない。


 彼女が首席合格者だったのだ。


 胸の奥が、一瞬で光に満たされた。


 今すぐ駆け寄って、抱きしめたい。

 「おめでとう」と、何度でも言いたい。



 ――でも、私は動かなかった。


 ただ静かに、座り込んだままの彼女を見つめていた。


 

 ——その時だった。


 アレクがミリアへ振り向くと、微笑みながらゆっくりと手を差し伸べた。



 騒めきが一層強まる。



 『王子が、平民に手を?』



 空気が冷え込み、驚嘆に満ちた視線が二人へと注がれていく。


 それでもアレクは、何一つ迷わずにその手を差し出し続けた。


 ミリアは戸惑いながらも、そっとアレクの手を取ると、強く引き上げられ、彼女の体が――アレクにもたれかかった。


 再び騒めきが波紋が広がっていくかのように生徒達から発せられる。

 先程よりもさらに鋭く、冷たい悪意を帯びた囁きが至る所で交わされ始める。


 「まあ……!」

 「婚約者の前で王子殿下に色目を……?」

 「平民風情が……」


 目に見えぬ言葉の棘が、静かに空気へ混ざり、ミリアへと突き刺さっていく。


 私は、動かなかった。

 ――動けなかった。


 ここで踏み出せば、折角演じてきた公爵令嬢クラリス・フォン・エルフォードが壊れてしまう気がしたから。



 ――でも、ミリアを悪く言う事だけは許せない。


 私が口を開こうとした瞬間、ミリアは周囲の視線に耐えきれず――アレクから手を離し、走り去ってしまった。


 彼女を止める声はなく、追う者もいない。


 残されたのは、呆然と立ち尽くすアレクと、密やかな嘲笑だけ。


 掲示板前の広場はいつの間にか、冷たい空気で満たされていた。



 胸の奥で何かが、静かに音を立てた。


 悲しみでも、戸惑いの心でもない。


 もっと、はっきりした感情。


 (……ああ、そう。そうだったわね)


 こうして目の当たりにして、ゆっくりと、そしてしっかりと理解する。

 これが、ミリアが言っていた残酷な身分の差なのだと。




 私は静かに目を伏せ、そして再び顔を上げた。


 公爵令嬢の微笑みを浮かべたまま。


 胸の奥に……まだ誰にも知られない決意を宿して。



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