閑話 それぞれの結果発表 前編
まだ夜の気配が残る早朝。
街は静まり返り、空気は白く冷えていた。
その空気とは対照的に――私の胸は一晩中ずっと落ち着かずに熱を帯びていた。
そのせいで一睡も出来ていない。
何故なら今日は、王立学園の合格発表の日だったから。
身支度を終えて、何度も見返して皺だらけになってしまった受験票を、ぎゅっと握りしめる。
指先が少し震えているのは、きっと寒さのせいだけじゃない。
……大丈夫。
ここまで頑張ってきたんだから。
そう自分に言い聞かせても、胸の鼓動は少しも静まってくれなかった。
「……行ってきます」
扉の前で小さく呟くと、台所から小走りでやってきたお母さんが、何も言わずに優しく抱き締めてくれた。
お父さんも、まだ雪の積もる外を一度見てから、そっと扉を開けてくれる。
言葉はいらない。それでも感じる優しさで、胸がいっぱいになりそうになる。
――泣くのは、まだだめ。
結果を見るまでは、絶対に。
「……行ってきますっ!」
私は一度だけ大きく息を吸って、朝の街へと足を踏み出した。
外の空気は、日が登っていても思っていたよりもずっと冷たかった。
吐いた息が白くほどけて、すぐに消えていく。
まだ人通りの少ない通りを、一歩ずつ確かめるように歩く。
雪を踏み締めるサクサクという音よりも、胸の奥で鳴り続ける鼓動の方が、やけに大きく感じられた。
学園へ近付くにつれ、同じように結果を見に来た人の姿が少しずつ増えていく。
緊張した顔で、前を見ずに足元ばかり見て歩く人。
握り締めた受験票がくしゃくしゃになってしまっている人。
誰もが、まだ見えない未来に不安と期待を胸に膨らませながら一歩一歩進んでいく。
――結果を知るのが怖い。
でも、やれることはやり切った。だから悔いはない。
六年前に交わした、あの約束のために。
掲示板の前には、既にに小さな人集りができていた。
まだ結果の紙は貼られておらず、職員が校舎から現れる時を今か今かと待ち受けていた。
その輪に入るのは避けて、少し離れた所から様子を見守っていると、集まっている人達の特徴がハッキリと分かれている事に気付いた。
自分と同い年くらいの平民の男女と、その両親。もしくは代表で両親のどちらかが見に来ているのかもしれない。
もう一方は、仕立ての良い服に防寒着を羽織った使用人らしき人達。
貴族の子息令嬢は、自分の目では結果を見に来ない。……当然ではあるけど。
——ざわっ
突如人々から騒めきの声が漏れ出し、慌てて視線を校舎へと送ると、中から大きな紙を筒状にして持つ男性職員が現れていた。
「ただいまより、試験結果を貼り出します」
拡声魔法で発せられた言葉に、人々の騒めきがふっと小さくなっていく。
職員の魔法で合格者の番号が記された紙が一斉に掲示板へと貼り付けられた――
ドッと誰かの歓声や嗚咽の声が破裂したように広がっていき、結果を見た使用人達が静かにその場を足早に去っていく。
さまざまな感情が、朝の冷たい空気の中に混ざり合っていく。
……足が、止まりそうになる。
それでも私は、ぎゅっと拳を握って前へ進んだ。
人の頭の隙間から、掲示板が見える。
ずらりと並んだ数字は、整然と容赦なく、ただ変わる事のない結果だけを示していた。
視線を、上から下へ流していく。
一行ずつ、ゆっくりと。
――ない。
――まだ。
――次。
(もし、なかったら……)
考えずに思考の隅に追いやっていたはずの一抹の不安が、インクを紙に垂らしたようにじんわりと広がっていく。
「……あ」
小さな声が、こぼれた。
「――あった」
自分の見ている数字が本当に正しいのか信じられなかった私は、何度か目を擦り、頬をひっぱり、夢でない事を確認してから、もう一度目に焼き付けるようにその数字を追った。
何度確かめても……ちゃんとある。
間違いじゃない。
――合格。
その二文字が、胸の奥にゆっくりと染み込んで――
次の瞬間、視界が涙で滲んだ。
「……っ、ぁ……」
口元を両手で覆っても、声にならない息が漏れる。
足から力が抜けて座り込んでしまいそうになるのを、必死でこらえた。
……やった、やったんだ……私。
約束の場所へ、手が届いた。
その実感が押し寄せた瞬間――
涙が、止まらなかった。
「……よ、かった……っ……」
涙がこぼれて、溢れて……どうしても止められない。
周りの目なんて、もうどうでもよかった。
ただ――嬉しくて。
ここまでの全部が、胸の中でほどけていく。
震える手で口元を押さえながら、何度も何度も掲示板を見上げた。
――帰らなきゃ。
この喜びを、一番に伝えたい人達の顔が浮かぶ。
私は涙を拭いながら、人混みを抜けて駆け出した。
* * *
私は全速力で、それも笑顔で大通りを走っていた。
冷たい空気が喉を刺す。
足元の石畳が、少しだけにじんで見える。
それでも止まれなかった。
止まったら、この実感が夢みたいに消えてしまいそうで。
胸の奥で、何度も同じ言葉が繰り返される。
合格した。
届いた。
約束の場所へ、私は行けるんだ。
見慣れた通りに差しかかる頃には、息はもう乱れていた。
それでも構わず、パン屋の扉を走ってきた勢いのまま押し開ける。
「――ただいまぁっ!」
思ったよりも大きな声が出ていた。
店の奥から、お母さんが驚いたように顔を出し、続いてお父さんも工房から飛び出してきた。
二人の視線が、私の顔――
涙でぐしゃぐしゃになっても、満面の笑みを浮かべた顔に向けられる。
その瞬間、まだ何も言っていないのにすべてを理解したように目を見開いた。
「……ミリア!」
お父さんの声が、かすかに震える。
私は頷こうとして――
でも、うまく言葉が出てこなくて。
代わりに、何度も、何度も頷いた。
「……受かった、のか?」
お父さんからの小さく、確かめるような問いに、私はようやく……声を絞り出した。
「……うん……っ!」
それだけ言った瞬間、
また涙があふれてきた。
「受かったよ……!合格、してたよ……っ!」
言葉にした途端、胸の奥に押し込めていた感情たちが決壊した。
いろんな気持ちが一度に溢れて、もう立っていられなかった。
その場にしゃがみ込みそうになった私を、お母さんが慌てて抱きしめる。
「……よかった……!本当に、よかったね……!」
耳元で震える声と、温かい腕。
それに触れた瞬間、私は子供みたいに泣き出してしまった。
「っ……お母さん……っ……わたし……っ、がんばっ……」
言葉にならない。
でも、全部伝えたかった。
お父さんも、そっと私たちの肩に手を置く。
普段は滅多に感情を表に出さない人なのに――
その目は、少し赤くなっていた。
「……ああ。よく……頑張ったな」
短い言葉。
でも、それだけで胸がいっぱいになる。
六年間。
早起きして。
店を手伝って。
夜遅くまで勉強して。
何度もくじけそうになって――
それでも前を向けたのは、両親がずっと傍で支えてくれたから。
私は涙でぐしゃぐしゃのまま、二人にしがみついた。
「……ありがとう……お父さん、お母さん……っ」
言えたのは、その一言だけだった。
それで……十分だった。
それからしばらくの間、私は泣いて、笑って、また泣いた。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ、少しずつほどけていく。
――合格したんだ。
ようやく、その実感が静かに形を持ち始めていた。
でも、喜びは……まだまだ終わりではなかったのです。
* * *
翌日。
ポストに届いていた一通の封書を、お父さんが不思議そうな顔で手に取った。
「……王立学園から、だな」
その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。
合格は、もう分かっている。
その上で知らせが届くとしたら……もしかして、もしかするのかもしれない……!
お父さんから手渡された封筒は、一見何の変哲もない封筒のはずなのに、どこか特別な重みを持っていた。
震える手で封を切り、そっと中の紙を取り出すと……目を瞑ったまま紙を開く。
高鳴る鼓動に急かされるように、一度大きく深呼吸をしてから目を開き、視線を文面へと落とした瞬間――呼吸を忘れてしまった。
『ミリア・ブレッドリー殿。
貴女は王立学園入学選抜試験において、首席合格した事をここに通知する。
また、貴女を特待生として待遇し、学費の全額を免除する。
王立学園 学園長 ギルバート・グレイテール』
「~~~ッ!!」
声にならない声が漏れ、その場にへたり込んでしまう。
もう一度上から読む。
何度でも、読み返して確かめる。
――間違いじゃない、夢でもない。
首席。
特待生。
学費免除。
――これまでの努力が報われた瞬間だった。
「……お父さん……お母さん……っ!!」
座り込んでしまった私を見て、二人はすぐにただ事ではないと悟り、工房やカウンターから飛び出してきた。
「どうした、ミリア?」
私は手紙を差し出しながら、精一杯の笑顔を浮かべながら震える声で言った。
「私……首席だった……!特待生で……学費、いらないって……!」
言い終わる前に、また涙があふれてきた。
お母さんが口元を押さえ、お父さんは目を見開いたまま動かない。
数秒の沈黙。
そして――
「……すごいじゃないか……!」
お父さんの声が、今度ははっきりと震えた。
お母さんも、涙をこぼしながら何度も頷く。
「本当に……本当に、よく頑張ったね……!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がいっぱいになった。
学費の心配をさせなくていい。
胸を張って、学園へ行ける。
約束の場所に……誰の手も借りずに、自分の力で立てるんだ……!
あの日交わした言葉が、静かに蘇る。
――学園で、また会おう。
(……やっと、会えますね……アレクシス殿下、クララちゃん……!)
誰に向けるでもないのに、微笑みと涙が勝手に浮かんでくる。
今、私……どうしようもなく、嬉しいんだ……!
窓の外では、春の気配を含んだ光が静かに街を照らしていた。
――もうすぐ約束の日がやってくる。




