順調すぎる日々
それからの日々も、驚くほど順調だった。
一度きりにするはずだった脱走は、いつの間にか「危険な出来事」ではなくなっていた。
もちろん、短い間に何度もというわけではない。
絶好の機会を見つけては、僕とクラリスは城を抜け出し、城下町へ足を運んだ。
理由はいつも同じ。
――ミリアに会うため。
最初は、クラリスの方から誘ってきていた。
『ねぇアレク、ルイス!次はどうする?』
『……うん、行きたいな。ルイスはどうする?たまには外に出てみるかい?」
『僕は……残るよ。兄上とクラリスみたいに器用じゃないし。それに誰が誤魔化すのさ?』
それが、いつしか――
街へ行こうと言い出すのは、僕の方になっていた。
そのたび、クラリスは一瞬驚いた顔をしてから、
くすりと笑って、意味ありげに目を細める。
『ふふ……アレクの方から言うなんて』
その笑みは悪戯っぽくて、でもどこか嬉しそうで。
僕は少しだけ、胸の奥がむず痒くなる。
……ルイスは呆れたようにため息をつく事が増えていたが。
また、脱走の手際も、回を重ねるごとに良くなっていった。
手間取っていた着替えも、ほんの僅かな時間で出来るようになった上、人の目を読む事や気配を読む事にも長けて来てしまっていた。
まるで勉強の復習のように、不手際を修正し、無駄を削ぎ落とし、次はもっと上手くやろうと考える。
無論、それを支えてくれているルイスやメアリーの存在もとても大きい。
彼らは何も多くを語らない。
だが、こちらが言わなくても、必要な準備は整えてくれていた。
ルイスの立ち振る舞いはさらに洗練され、不審に思わせない自然な言葉選びも、視線の切り方も、堂々と何も隠していないと言わんばかりな態度も完璧に近い。
使用人や侍女達の間で、ルイスの評判が高まっているのも耳に入ってきていた。
「ルイス殿下は、とてもお優しい方です……!」
「それにあの微笑み……もう、くらっとしてしまいそう」
そんな囁きが聞こえる度、ルイスはどこか困ったように苦笑いを浮かべる。
それでも、彼は兄とクラリスの為にやめなかった。
無論、僕達は毎日それぞれの場所で、それぞれの役割を果たしていた。
努力した事はしっかり結果として残し、疑いの視線を向けさせない。
両親や臣下達が求める、理想の王子・王妃として成長をしている。
その日々は、怖いくらいに順調に流れていた。
だから――僕は油断し始めてしまったのだろう。
城の中で、少しずつ、少しずつ、違和感が溜まっていっていることに。
* * *
冬の訪れは今年もとても静かで、同時に容赦がなかった。
降り続く雪は、庭園も窓から見える城下町も全てを白く染めていた。
朝目覚めて、開けた窓から外を眺めると、火の魔法で雪を溶かす使用人の姿と、どこか埃っぽい雪の香りが鼻腔をくすぐる。
今年もこの季節がやってきたんだなと、白い息を吐きながら窓を閉めた。
いくら領地がすぐ隣とはいえ、冬が始まると年末年始の挨拶以外、クラリスも公爵と共にエルフォード公爵領へ帰ってしまう。
(次の脱走が今年は最後になるかもしれないな……。でも来年がある)
慌てる必要はない。だってチャンスはこれからいくらでもあるのだから。
そう、思っていた。
* * *
――数日後のことだ。
ルイスから、何気ない口調でこんな話を聞いた。
「最近……使用人たちの間で、少し噂があるらしい」
噂、という言葉に、僕は特に身構えなかった。
「噂?」
「庭園に面した控室が、時々使えないことがあるって」
それだけ聞けば、ただの手違いか、整備の問題に思えた。
寒さで扉が歪むことも、鍵の調子が悪くなることもある。
それに、これまであの部屋を使っている使用人を、僕は見た事がなかった。
「ふうん……」
大したことじゃない。
少なくとも、その時の僕は、そう判断した。
ルイスはそれ以上、何も言わなかった。
――今思えば、あの沈黙こそが警告だったのだと思う。
次の脱走について、ガゼボでクラリスと小声で話していた時だった。
いつもなら、少し呆れたように相槌を打つだけのルイスが、
珍しく口を閉ざしたまま、こちらを見ている。
その表情があまりに真剣で、
僕とクラリスは、同時に言葉を止めた。
「……兄上。クラリス」
低く、慎重な声だった。
「さっき聞いた話なんだけど……」
ルイスは一度、周囲にメアリー以外の侍女や使用人がいないことを確かめてから、静かに続けた。
「庭園の雪を処理していた使用人が、例の……あの穴に気付いたらしい」
――背中に雪をねじ込まれたかのような冷たさが走った。
(……最悪だ)
そう思ったのが、顔に出てしまったのだろう。
ルイスはわずかに眉を寄せて続けた。
「それで……近いうちに補修が入るらしい。穴は塞ぐって」
――沈黙が落ちる。
さらに、ルイスは言葉を選ぶように一拍置いてから続けた。
「それだけじゃない。ついでに例の控室も整理する計画があるみたいなんだ」
整理、という言葉がこれ以上ないほど重く響いた。
僕とクラリスは、思わず顔を見合わせる。
そして――ほとんど同時に、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、かぁ」
クラリスが呟く。
その声には悔しさと、諦めと、それでもまだ何かを探そうとする響きが混じっていた。
順調すぎた日々。
幸せだった時間。
その終わりが、今この時も確実に近付いてきている。
なら、残された時間は有効に使わなければ……嘘だ。
「……クラリス、ルイス。聞いてくれ」
(どうするか……?そんなの決まってる……!)
――これが、最後の脱走へ繋がる話だということを。




