初恋を連れて
大通りに戻ると、威勢のいい商売人達の喧騒が二人を包み込んだ。
行き交う人の数は変わらない。
呼び声も、荷車の音も、立ち並ぶ店の色も――行きと同じはずなのに。
僕は、無意識のうちに歩調を早めていた。
ふと我に返り、後ろを小走りで着いてくるクララの歩幅に合わせて歩くが、気が付けばまた僕が先行してしまっていた。
足が、勝手に前へ出る。
そこまで急ぐ必要はないのに、足は胸の高鳴りに引っ張られるように、踊る様に軽やかに前へ進む。
浮かれているのだろうか。
自分ではそんな風には思っていないはずだったのに、何故か胸が弾む。
クララはそんな僕へ何も言わない。
時々、ごめんと視線を向ければ、にっと笑みを見せ駆け寄ってくる。
だがそれも六回目を迎えた時。
「ちょっとジャック。早いってば!」
少し後ろから、クララの声が飛んでくる。
「……ごめん」
足を緩めると、クララがすぐ隣に並ぶ。
「帰りは随分せっかちね」
からかうような口調。
でも、その横顔はどこか優しかった。
「……仕方ないだろ」
言い訳めいた声になる。
「行きは遊びだったけど、帰りは違う」
城へ戻るという現実。
ジャックが消えて、アレクシスに戻る時間。
胸の奥で、何かがきゅっと縮こまる。
(……この気持ちまで、置いていくわけじゃない)
そう言い聞かせる。
忘れるつもりも、なかったことにするつもりもない。
ただ――今は、連れて帰るしかない。
誰にも見せられない。
誰にも話せない。
それでも確かに、ここにある感情を。
大通りの端が見え、城へ続く古い通用口が近付く。
楽しげな街の喧騒は、もう遥か後方から僅かに聞こえて来る。
僕は一度だけ、歩きながら視線を落とした。
指先に残る、花束を渡した時の感触。
耳の奥に残る、柔らかな声。
胸を撃ち抜いた、あの笑顔。
――初恋。
名前をつけてしまえば、もう後戻りは出来ない。
だから今は、ただ……何も言わずに、胸の奥へ抱きしめる。
再び、僕は足を進めた。
初恋を連れて。
* * *
管理用出入り口の前で、僕達は一度だけ足を止めた。
——もう、戻らなければならない。
そう分かっているのに、足がすぐには前へ出なかった。
胸の奥に残る、柔らかな温度。
小麦色の髪と、花が咲くような笑顔。
(……ああ)
名残惜しい、という言葉では足りない。
ほんの短い時間だったはずなのに、心のどこかを置いてきてしまったような感覚。
そんな僕の横で、クララ——いや、クラリスが小さく息を吸った。
そして、すっと背筋を伸ばす。
「……さぁ」
その一言で、空気が変わった。
先ほどまでの柔らかな表情は消え、代わりに浮かぶのは、よく知っている公爵令嬢の顔。
口元に浮かぶ微笑みは変わらないが、その意味が違う。
「戻りましょ、アレクシス殿下」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が静かに引き締まる。
——そうだ。
僕は王子で、彼女は未来の王妃。
この感情を捨てる必要はない。
だが、今は表に出してはいけない。
僕は一度だけ、深く息を吐いた。
浮ついていた心を胸の奥へ押し込み、顔を上げる。
「……ああ」
短く答えると、自然と歩き方が変わった。
足取りは落ち着き、視線は周囲を警戒するものへ。
さっきまでのジャックの軽さは、もうどこにもない。
それを感じ取ったのか、クラリスは満足そうに小さく頷いた。
「大丈夫そうね」
「君こそ」
「ええ。ちゃんと戻ってるわ」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
——僕達は、ちゃんと役割に戻れる。
そう思えたから。
僕は先に進み、古い管理用の出入り口へと手をかけた。
人の気配のない水路を辿り、庭園に近付くにつれて僕達はジャックからアレクシスへ。
クララからクラリスへ完全に戻っていた。
髪の色も既に元に戻っており、後は見つからずに着替えるだけだった。
僕達を外へ繋いでくれた穴を、僕から先に潜り抜け、周囲に誰もいない事を確認してからクラリスを呼ぶ。
庭園の背の高い草花の影を通り抜けながら、着替えで使った使用人室へと人の目を盗みながら飛び込み、僕は手早く着替えを済ませた。
「ごめんねアレク、もうちょっとだけ待って……!」
衝立の向こう側で、ゴソゴソと衣擦れの音が聞こえて来る。
「メアリーがいなくても、一人で着替えられるように簡単な服を選んで良かったわ」
「あの……クラリス、先に外出てるからゆっくり着替えてくれ」
「はーい」
クララの時のような、気の抜けた返事に思わず笑みを浮かべつつ、僕は一人使用人室の外へ出た。
「「あ」」
丁度目の前にルイスが立っており、声が重なった。
「無事戻ってこれたんですね……!こっちは大変でしたよ……」
疲れたような笑みを浮かべ、やれやれと首を振るルイスへ、僕は手にしていたパンの袋をそっと差し出した。
「ありがとう、おかげで……助かったよ。……本当に」
「パン……?」
ルイスはパンの袋と僕の袋を何度か見比べ、怪訝そうな顔をした。
「兄上……どうされたのですか?」
「何が?」
「いや……その、出かける前と今で、大分雰囲気が違うなと……」
ルイスへの返事を口にしようと、息を吸った瞬間——ガチャリと使用人室のドアが開けられた。
「お待たせ……ってルイス!ありがとう!おかげでまたミリアに会えたわっ!」
いつに増してキラキラした笑顔でクラリスがルイスへ感謝の言葉を述べ、ルイスは視線を彷徨わせ、曖昧な返事と共に笑みを浮かべた。
そのまま聞いて聞いてと思い出を嬉しそうに語るクラリスの言葉を、優しい微笑みを浮かべながら聞いているルイスの姿を見て、僕は黙ってただ微笑んだ。
その瞳の奥に宿る熱を――今の僕なら、分かるからだ。
だからこそ何も言わずに、僕は視線を逸らした。
まだ言葉に出来ないものが、胸の奥で静かに息をしていたから。
初恋の熱を胸に抱いたまま。
僕は、王子としての一日へと戻っていった。




