楽しい時間はすぐ過ぎて
「……あらあら~??」
奥の工房の扉が、きぃ、と小さく音を立てて開いた。
最初に姿を現したのは——
ニヤニヤを隠す気ゼロのクララだった。
両手を後ろに組み、わざとらしく首を傾げながら、僕とミリアを交互に見比べている。
「なぁに、この空気?」
声に出した瞬間、もう完全に楽しんでいる。
(……っ、この……!)
思わず睨みつけるが、彼女は楽し気に肩をすくめるだけだった。
そのすぐ後ろから、もう一人。
――剣術の師範にも匹敵するほどの大柄な体躯。
エプロン越しでも分かる、鍛え抜かれた職人の身体。
クララが言う『ガイおじさん』。……ミリアの父だろう。
彼は僕の様子を見て、次に少し頬を赤くするミリアの顔を見て。
最後に、クララのニヤついた表情を見て——
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、名状し難い顔をした。
花束を持ち、嬉しそうに口元が緩んでいる娘と、その前にいる少年。
父として、察したのだと思う。
だが、それら全てを飲み込み――
「——いらっしゃい」
低く落ち着いた声で、パン屋の店主としての歓迎の言葉を受けた。
腕まくりをしながら背筋を伸ばし、ゆっくりとこちらへ歩み寄り、穏やかな目で僕を見る。
……視線が、妙に鋭い。
「クララちゃんのお友達かい?」
「そうなの!ね、ガイおじさん。今日遊びに来たの……お父様達には内緒にしてね?」
「もちろんだとも。また兵隊さんにドアを蹴り壊されちゃたまらねぇからな」
くつくつと笑う店主の隣から、クララが片目を閉じながら僕をにんまりと見つめた。
「ねー?ジャック?」
(余計なことを……!)
喉が詰まりながらも、僕は小さく頷いた。
「……ああ、そうだね」
店主は、ふっと小さく笑った。
その笑みは、職人のものだ。
余計な詮索をしない、大人の笑顔。
「そうか。じゃあ、ゆっくりしていくといい」
そう言ってから、ミリアの方へ目を向ける。
「ミリア。いくらクララちゃんが良いと言っても、二人はお客さんだ、ちゃんと案内してやれ」
「は、はい!」
少し慌てた様子で返事をするミリア。
そしてクララと僕へ視線を走らせると、店主は少し目を細めた。
——やっぱり、全部分かっているのだ。
でも、何も言わない。
今は彼がわざわざ何かを言う必要がないと理解しているからだ。
「……じゃあ、私は奥に戻る」
そう言って、再び工房の方へ歩き出す。
扉の奥へ消えゆくその寸前に立ち止まり、顔だけ振り向いた店主は、僕の目を見て口の動きだけで伝えてきた。
『……急ぐなよ』
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。
返事は、出来なかった。
店主の背中が、扉の向こうに消える。
残された空間に、沈黙が落ちた。
その沈黙を——
「ふふ」
壊したのは、やっぱりクララだった。
「いやぁ……いいもの見たわ」
肩を揺らしながら、完全に楽しそう。
「クララ……!」
抗議の声を出すより先に、彼女は僕の胸元へ片手を付け、耳元へ顔を寄せた。
「ね、ジャック」
囁く声。
「……恋って、こういう音がするのね」
——バレている。
顔がカッと熱くなるのが分かった。
ミリアはそんなやり取りを、少し離れた場所で不思議そうに眺めていた。
その姿を見て——
胸が、また鳴った。
訳もなく。
理由もなく。
ただ。
この場所に、この同じ時間を過ごす中に彼女がいることが、どうしようもなく嬉しかった。
(……僕は、本当に)
自覚と共に、苦笑が浮かぶ。
クララはそんな僕を、満足そうにニヤニヤと眺めていたが、ぽんっと両手を打った。
「ね、ミリアちゃん!今日はどのパンを焼いたの?」
「えっとね、今日はこのブールっていう基本的なパンと、エピってパンを焼いてみたの!」
ミリアは花束を大切そうにカウンターに置くと、試食用なのか、木のトレーに乗せられた小さなパンを取り出してきた。
きゅっとクララがミリアの腕に飛びつくように寄り添い、ミリアも嬉しそうに僅かにクララに身を寄せる。
傍から見ていても、二人は親友なのだとひしひしと伝わってきている。
二人で楽しげに笑みを交わし、言葉を交わしているのを、じっと眺めていると――
「……あの、ジャックさん」
ミリアが、少しだけ照れたようにこちらを見る。
「……な、なに?」
「良ければ、ジャックさんも……試食されますか?」
見れば、もう既にパンを頬張っているクララと、もう一つトレーに残るパン。
鼓動がうるさい。
でも今度は……逃げたくなかった。
「ジャックが食べないなら、私食べちゃうわよ?」
「ば、バカ!食べる!食べたいよ!!」
そう答えると、ミリアはまた花が咲くみたいに笑った。
* * *
試食用のパンは、思っていた以上に温かくて、柔らかかった。
噛むたびに、小麦の甘さがじんわりと広がる。
――それ以上に、胸の奥がじんわりしていた。
「……どう?」
ミリアが、少し緊張したようにこちらを見る。
その視線だけで、味の感想なんてどうでもよくなってしまいそうだったが、僕はちゃんと頷いた。
「……美味しい。すごく」
それは嘘じゃなかった。
彼女は、ぱっと顔を明るくして微笑んだ。
「よかった……!」
その笑顔が、また胸を締め付ける。
(……ああ、もう)
この時間が、ずっと続けばいいのに。
でも――そうはいかない。
「……あ」
ふと、クララがパンを頬張りながら声を上げた。
「そうだ。ルイスにお土産、忘れたら怒られるわよ?」
わざとらしく、でもちゃんと現実を突きつける声。
――そうだ。
今日はただ、遊びに来た日じゃない。
隠し通さなければならない日だ。
「……お願い、ミリアちゃん。いくつか包んでもらえる?」
「もちろん!」
ミリアは嬉しそうに頷き、すぐに店の奥へ向かった。
包み紙を広げ、丁寧にパンを選ぶ後ろ姿。
手際のよい慣れた手つき。
当たり前に見られる景色なのだろう。
(……ここが、彼女の世界なんだ)
そう思った瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。
ミリアが包み終えた紙袋を両手で差し出す。
「今日焼いた中で、日持ちのするものを選びました!」
「……ありがとう」
受け取ると、紙袋越しにほんのり温もりが残っている。
――この温もりを、城まで持ち帰らなければならない。
何事もなかった顔で。
「……ジャックさん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
ミリアは、少しだけ躊躇うように視線を揺らしてから、柔らかく笑った。
「また……来てくださいね」
胸が、強く鳴った。
「……ああ、必ず」
返事は、それだけ。
それ以上言えば、きっと――戻れなくなる。
隣でクララが、何も言わずにそっと背中を押した。
「行こっか」
小さな声。
名残惜しいが、行かなきゃいけない。
「……うん」
店の扉を開けると、午後の光が差し込む。
僕は振り返りたい衝動を必死で抑えた。
もしここで立ち止まれば。
もし、もっとここに居たいと願えば。
今日のこの脱走劇は――
楽しい思い出だけでは終われなくなる。
だから、振り返らない。
扉が閉まる直前。
扉に隔てられていくその隙間から、ミリアが小さく手を振るのが見えた。
その姿を、心の奥に深く刻みつけてから――
僕は、クララと並んで歩き出した。
来た時と変わらぬ喧騒を保つ大通りへ向けて。
また、元の居場所へ戻るために。
楽しい時間は、驚くほど速く過ぎ去っていく。
それでもこの胸に残った、この想いだけは……簡単には消えてくれそうになかった。




