訳知らぬ鼓動
「……あ、あの……」
声を出そうとして、喉がひっかかる。
クララに肘で軽く突かれて、僕ははっと我に返った。
「ほら、ジャック。渡すんでしょう?」
小声で、でも逃げ道を塞ぐような囁き。
手の中にあった花束が、急に重く感じられた。
(……落ち着け。クラリスの友人に花束を渡すだけだ)
自分にそう言い聞かせて、一歩前に出る。
ミリアは、不思議そうにこちらを見ていた。
自分に注がれる、ただ素直な真っ直ぐな視線。
――それが、余計に胸を締め付ける。
「えっと……その……」
言葉を探す間に、指先がわずかに震えているのが分かった。
誤魔化そうとしても、どうにもならない。
結局、僕は無理に取り繕うのを諦め、余計な言葉を捨て、花束を差し出した。
「……これ」
喉から絞り出したのは、たったそれだけ。
彼女に花束を渡す理由も、説明も何もない。
視界の隅で天を仰ぐクララの姿が見えた気がしたが、今はそれに構っている余裕すらない。
一瞬の沈黙。
彼女に聞こえてしまうのではないかというくらい、心臓が鼓動を刻み、差し出した花束の先がぷるぷると震えてしまう。
「……え?」
ミリアは目を丸くし、それから、花束と僕の顔を交互に見た。
「えっと……私に?」
小さく頷く。
それだけで精一杯だった。
次の瞬間——。
彼女の顔に、ふわりと笑顔が咲いた。
まるで、本当に花が開くみたいに。
「わぁ……ありがとう!……ふふ、綺麗なお花……!」
その声は柔らかくて、温かくて……。
耳から奥へとすっと入り込み、胸の奥まで染み込み、何かを弾けさせる。
はっと息を呑んだ。
世界の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
視線をどこに置けばいいのか分からず、思わず目を逸らす。
(……聞こえてないよな?)
自分の鼓動の音が、やけに大きい。
――ばれてしまう。
そんな意味不明な焦りに突き動かされて、僕は半歩……いや、一歩後ずさった。
その様子を——
「へぇ……?」
横目で見ていたクララが、口元に手を当て、いたずらっぽく笑う。
「なに、その反応」
愉快そうに、楽しそうに。
そして、何かを察したように、わざとらしく声を上げた。
「あ、そうだ。ガイおじさんに挨拶してくるね~?」
返事を待つでもなく、ひらひらと手を振り、その場を離れていく。
――逃げた。
完全に逃げた。
(クラリス……ッ!)
心の中で抗議するも、今はそれどころじゃない。
残されたのは、花束を抱えたミリアと、挙動不審な僕。
沈黙が、少しだけ気まずく、でもどこか心地よかった。
「……えっと」
ミリアが、困ったように笑う。
「あの……ジャック、さん?」
「……あ、ああ。ジャックだ」
名乗った瞬間、胸の奥がちくりとした。
——今日、彼女に出会ったのは、アレクシスではない。
今日生まれたばかりの、ただのジャックだ。
でも、それでいい。
今は、それでいいんだ。
ミリアは花束を胸に抱きしめて、少し照れたように言った。
「ありがとう、ジャックさん。とっても嬉しい……!」
その一言で、報われた気がした。
理由なんて、どうでもよくなった。
ただ——
この笑顔を、もう一度。
いや、何度でも見ていたい。
それだけが、はっきりと胸に刻まれた。
花の香りにうっとりしていたミリアが、はっとしたように姿勢を正した。
「あ、えっと……ごめんなさい!私、ちゃんと名乗ってなかったですよね」
そう言って、花束を大事そうに胸に抱え直す。
「私、ミリア・ブレッドリーって言います。両親と一緒にパン屋をしています」
少し照れたように、でも誇らしげに言うその声。
――名前を聞いただけで、胸がまた跳ねた。
「……ミリア」
「はい!」
即座に返ってくる返事と笑顔に、また心臓が忙しくなる。
「えっと……ジャック、さんでしたよね?」
「あ、ああ。ジャックだ」
それ以上、何も付け足せなかった。
(……何をしているんだ……僕は……)
するとミリアは、ぱっと表情を明るくして、棚の方を指差した。
「よかったら、見ていきます? 今日のパン、結構いい出来なんです!」
そう言って、楽しそうに説明を始める。
「これは朝一番に焼いた白パンで、こっちは全粒粉。あと、この丸いのは——」
彼女は身振り手振りを交えながら、次々にパンを指していく。
焼き加減。
生地の違い。
香りの話。
本来なら、本業の人間から聞ける興味深い話題のはずなのに——
(……あれ?)
気付けば、言葉が頭に入ってこない。
視線は、パンではなく、話すたびに柔らかく動く唇。
笑うと少し細くなる目。
肩にかかって、ふわりと揺れる小麦色の髪。
陽の光を受けて、きらりと光るその色。
(……まずい)
自覚した時には、もう遅かった。
「——だから、このパンは——?」
ミリアがふと話すのを止めた。
そして、こちらを振り返る。
——目が、合った。
真正面から、かっちりと。
「……ジャック、さん?」
その一言で、全身に熱が走る。
「も、もしかして……お話、聞いてなかった……ですか?」
眉尻をそっと下げ、責めるでもなく小さく首を傾げる。
「い、いや! 聞いてた! ちゃんと……」
言い訳が、喉の奥で絡まる。
視線が泳ぎ、手の置き場が分からず、無意味に一歩動いてしまう。
「……ご、ごめん……」
絞り出すように謝って。
そのまま、ぽろりと。
考えるより先に、言葉が落ちた。
「その……なんだ。あまりに、君が……綺麗だな……と」
——言ってしまった。
言った瞬間、自分でも信じられなくて、目を見開く。
(な、何を言ってるんだ僕は!?)
慌てて口を塞ごうとするが、もう遅い。
ミリアは、一瞬きょとんとして——
言われた言葉の意味を飲み込むと、頬をみるみる赤く染めた。
「え……えっ……!?」
視線が彷徨い、花束をぎゅっと抱きしめる。
「そ、そんな……突然……!?」
照れと戸惑いが混ざったその反応に、今度は僕の方が限界だった。
「ち、違っ……! いや、違わなくて……でも、その……!」
言葉が完全に崩壊する。
この場にいないはずのクララの顔が、脳裏に浮かんだ。
(……絶対、笑ってる)
それでもミリアは、少しだけ間を置いてから……恐る恐るこちらを見る。
そして、小さく——でも、確かに笑った。
「……へんな人ですね、ジャックさん」
照れながらも、可笑しそうに笑うその笑顔に。
胸の奥で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。
ああ、もうだめだ。
この時点で……いや、違う。
出会った瞬間から、僕は――彼女から目が離せなかった。
それだけは、どうしようもなく確かだった。




