いざ、街へ
準備に準備を重ね、ようやくその日が訪れた。
珍しく、僕は昨夜、なかなか寝付けなかった。
今日が楽しみだったわけではない——。
……いや、嘘だ。
楽しみだったんだ。どうしようもなく。
子供じみていると、自分でも思う。
第一王子が婚約者を連れて城を抜け出すなんて、本来なら許されるはずがない。
静まり返った自室で天井を見つめながら、何度も頭に浮かんだのは、
あの時のクラリスの顔だった。
『……会いたい人がいるの』
あの一言に込められた、懐かしさと切なさ。
そして、抑えきれない想い。
僕は王子として、それを無視することも出来た。
誰かに告げ口すれば止める事も出来たはずなのに……しなかった。
だから今、こうして眠れぬまま朝を迎えている。
カーテンの隙間から差し込む淡い光。
王城の朝はいつもと変わらず、整然としている。
——あまりにも穏やかな朝だ。
(……だからこそ、今日だ)
衣服を整えながら、自然と深呼吸を一つ。
今日の午後、いつも通り剣の稽古が終わった後は、自主練習に当てると侍女達には伝えてある。
ほんの僅かな、監視の目が緩くなる時間の隙間。
それを、僕達は何日もかけて選び抜いた。
(……よし)
計画に漏れはないはず。唯一事情を知っている協力者は、メアリーというクラリスの侍女くらいだろう。
だが彼女がクラリスを裏切るとは思えない。きっと大丈夫だ。
――控えめにノックの音が響く。
気が付けばもう起床の時間を迎えていたようだ。
(さぁ、頑張るとするか)
着替えを手伝いに来た侍女に返事をしながら、僕はベッドから滑り降りた。
* * *
朝食の席は、いつも通りだった。
他愛のない会話。
今日の予定の確認。
侍女や従者達の、変わらぬ動き。
誰一人として、この城の中で小さな裏切りが進行しているなど、思いもしないだろう。
(……平和だな)
スープを一掬いしながら、そんな事を考える。
その平和さが、逆に少しだけ胸をざわつかせた。
視線を上げると、ルイスがこちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ目が合う。
計画について何も一言も発していないが、微かに頷いて見せる。
——準備は整っている。
——予定通りだ。
意図が伝わったのか、彼もわずかに目を伏せた。
(……頼んだぞ、ルイス)
心の中でそう告げる。
彼は今日、城に残る。
何も知らない顔で、いつも通りを装いながら過ごす。
もしもの時には、僕達の不在を誤魔化す役目を負っているのだ。
* * *
剣の稽古を終え、汗を拭いながら回廊を歩く。
午後の日差しが、長い影を床に落としていた。
この時間帯は、警備の入れ替えと、使用人の作業が重なる。
——計算通りだ。
曲がり角を一つ越えた先。
そこに、彼女はいた。
壁際に立ち、窓の外を眺めているクラリス。
今日の彼女は、いつもの「未来の妃」の装いではない。
控えめな色合い。
動きやすさを重視した服。
ぱっと見ただけでは、ただの貴族の子女だ。
僕に気付いた瞬間、その瞳がキラリと輝いた。
「……遅かったわね」
声を落とし、そう言ってくる。
「そっちが早すぎるんだ」
そう返すと、彼女はくすっと笑った。
「緊張して、じっとしていられなかったの」
その言葉に、少しだけ安心する。
……どうやら、そわそわしっぱなしなのは、僕だけじゃないらしい。
「ルイスは?」
「予定通りよ。少し後で合図をくれるって」
クラリスはそう言って、回廊の奥へ視線を向けた。
そこには、誰もいない。
けれど、僕達には分かる。
——ここからだ。
「……今から引き返すなら、まだ間に合う」
半分、本気で言った。
王子として。
婚約者として。
僕が言わねばならぬ言葉だった。
だがクラリスは、一瞬だけきょとんとした顔をしてから、すぐに、あのいたずらな笑顔を浮かべた。
「アレク、今さらそれ言う?」
「……だよな」
ため息混じりに答えると、彼女は一歩前に出た。
「大丈夫、ちゃんと戻るわ。約束も……ちゃんと守る」
その言葉には、冗談の色はなかった。
——信じていい。
そう思えた。
「……行こうか」
「うん」
小さく、でも確かな返事。
「殿下、お嬢様。こちらに」
メアリーの手伝いもあり、誰もいない控室にて着替えを行い、僕は少し質の良い平民の服を。
クラリスは動きやすいパンツタイプの服に着替えていた。
「アレク、その髪じゃバレちゃうから髪の色変えなきゃ!」
「……そ、そっか」
簡単な変化魔法で僕は金髪を茶髪に、クラリスもプラチナブロンドの髪を栗色に変化させた。
「じゃあ、私は今からクララね!アレクは……?」
「そうだな……、ジャックとでも名乗っておこうか」
「……なんか普通ね」
「うるさい」
ジャックとクララは、誰にも気付かれぬまま、誰にも悟られぬまま、穴を潜り抜けて水路を辿り、既に使われなくなった古びた通用口を通り抜けて城下町へと降りたった。
* * *
——足裏に伝わる感触が、変わった。
高さのある女性靴でも躓かぬように磨かれた石畳と違い、ゴツゴツとしたデコボコな石畳。
道の隙間から覗く、湿った土の匂い。
城とはまるで違う、少し汚れていて……色々な匂いの混ざる空気。
僕は、思わず立ち止まってしまった。
「……っ!」
城下町。
何度も窓から見下ろして知っているはずの場所だ。
それだけではない、地図でも、本でも、話でも。
何度も知識として触れてきた。
実際に訪れ、立って触れてみれば、まるで別物だった。
料理屋から漂う香辛料と肉が焼ける香ばしい匂い。
どこかから鳴り響いてくる鍛冶屋の鎚を打つ音。
ざわざわと混じり合い聞こえて来る、人々の笑い声と呼び声。
すべてが、近くにあり、触れられる距離にいる。
直接、間近で見る事が出来る。
「……すごい」
思わず、そう零していた。
横を見ると、クラリス——いや、クララが目を輝かせていた。
城の中で見るどんな笑顔よりも、ずっと柔らかくて、ずっと自由な笑顔。
「ね……アレク……じゃなくて、ジャック!」
彼女は胸いっぱいに息を吸い込んでから、嬉しそうに言った。
「街の匂い、するでしょう?」
「ああ……」
返事をしながら、胸に生まれていく高揚感を心地よく思っていた。
彼女が、ここに来たかった理由。
言葉にしなくても、分かる気がした。
「……さぁ、行こうか。クララの行きたい所へ」
「ええ……!すぐにでもっ!……と、言いたいところだけど」
彼女は、くるりとこちらを振り返り、そしてあの、いたずらな笑顔を見せた。
「その前に、寄り道してもいい?」
……やっぱり。
「目的地は、どっちだ?」
そう尋ねると、クララは迷いなく人通りの多い大通りを指を指した。
「ちゃんと、お土産持って行かなきゃね!」
彼女は楽しそうに言った。
(そう言って、自分の好きなものも買うんだろう?)
そう確信しながら、僕は城下町の喧騒の中へクララと共に一歩を踏み出した。




