閑話 拍手の中で
大人達のダンスの時間が終わり、僕達子供のダンスの時間が始まった。
子息令嬢は緊張の面持ちでダンスホールへと進み、楽団の音もどこか柔らかく緩やかになっていた。
この時間は、これから始まるダンスのパートナーを決める時間。
僕が踊りたい相手――そんなの、一人しかいない。
クラリスの姿は、すぐに見つけられた。
壁際。料理の並ぶテーブルの近く。
伯爵子息に声を掛けられるも、少し困ったように笑みを見せ、丁寧に頭を下げて辞退している。
(……今だ)
そう思ったのは、僕だけじゃなかっただろう。
でも——
一歩、前に出たのは――僕の方が早かった。
(……誘える、誘うんだ!)
そう思った瞬間。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
別に、特別な意味があるわけじゃない。
兄上の婚約者だから、ではなく。
ただ、昔から知っている友人として。
同じ年の、顔見知りとして。
——それだけのはずだった。
そう、自分に言い聞かせながら、僕は彼女の方へ歩き出そうとして。
「ルイス殿下!」
呼び止める声。
「殿下、よろしければ一曲……」
「私とも、ぜひ……!」
気が付いた時には、
視界の左右が、色とりどりのドレスで埋まっていた。
(……あ)
しまった、と思った時には遅い。
差し出される手。
期待を隠しきれない視線。
断れば角が立つ。
応じれば、時間は取られる。
第一王子ほどではないにせよ、第二王子という立場は、こういう時に自由が利かない。
「……ありがとう、誘い……とても嬉しく思います」
僕は、いつもの笑顔を作った。
「順に、お相手させてもらいますね」
そう言った瞬間、
クラリスの方へ伸ばしかけた手を、そっと引っ込める。
(……間に合わなかったな)
視界の端で、兄上が同じように令嬢達に囲まれているのが見えた。
……兄上は、慣れている。
昔から、こういう役回りだ。
でも。
(今日はまだ、同じ立場だったはずなのに)
胸の奥に、モヤついた感情が落ちる。
音楽が流れ、ステップを踏み、言葉を交わし、笑顔を見せる。
兄上よりもダンスは得意だ。
すべて完璧に出来ている。
――なのに。
幾度となく視線をクラリスへ向ける。
……何故か彼女は踊らずに、目をキラキラさせて料理を食べていた。
そして——目があった。
あっ……と少し目を大きくさせ、見つかっちゃったとでも言うかのように、悪戯っぽく笑みを浮かべると、小さくヒラリと手を振って見せた。
(……ああ)
「頑張って!」
きっとそう言っているのだろう。
胸の奥が、少し痛んだ。
音楽はまだ軽やかに続いている。
拍手と笑顔と祝福で溢れるこの場所。
何も悲しむ要素などどこにもないはずなのに……。
僕はその輪の中で、一人取り残された気がしていた。
* * *
楽団の奏でるワルツの最後の音が静かに消えた。
拍手が波のように広がり、そしてゆっくりと収束していく。
もうまもなくこの祝宴も終わりを迎えるだろう。
そして……僕達の関係が変わっていく瞬間も、まもなく訪れるのだろう。
理由もなく、そう思った。
――いや、嘘だ。理由はある。
朝の謁見で、すでに聞いている。
父上とフレデリック卿が並び、兄上とクラリスが並んで立っていた、あの場で。
だからこれは、初耳ではない。
ただ――。
父上が一歩、ゆっくりと前に出た。
その瞬間、大広間からはざわめきが消え、父上へと視線が集まり、王の言葉を待つ静寂が降りる。
僕の胸の奥も、この大広間に流れる空気と同じように、酷く静かだった。
決まっていた事。
生まれて育って、彼女に出会って、いつかはそうなるだろうと分かっていた。
それでも……握り締めた指先が冷たくなっていく。
「さて――」
父上の声が、大広間にはっきりと響く。
「この祝宴を締める前に、ひとつ、皆に伝えておきたいことがある」
僕は、無意識に視線を動かしていた。
探すまでもない。
クラリスは、すぐに見つかった。
「——クラリス・フォン・エルフォード嬢。前へ」
名が呼ばれた瞬間、会場に小さなざわめきが走った。
彼女は一瞬だけ目を瞬かせてから、すぐに前へ進み出る。
多くの視線に晒されながらも、進む足取りに迷いはなく、姿勢はまっすぐにブレる事も、震える事もしない。
ただ、堂々と軽く微笑みすら携えてこちらへと進み出るクラリスの顔を見て、胸の奥が痛んだ。
(……ああ)
分かっていたはずなのに。
彼女は、もう僕の隣に立つ事はないんだと……。
父上の言葉が続く。
「本日、皆の前でひとつ、正式に告げる」
大広間は再び沈黙に満たされる。
僕は、もう目を逸らさなかった。
逃げる資格も、否定する資格も何もない。
「クラリス・フォン・エルフォード嬢は」
一拍。
「我が第一王子、アレクシスと——」
兄上の横顔が視界に入る。
背筋を伸ばし、王子として相応しくあるように表情一つ動かしていない。
……兄上は、強い。
昔からそうだ。
「——正式に婚約を結んだ事を、ここに宣言する!!」
どっと広がるざわめき。
割れんばかりの拍手と歓声。
第一王子と公爵令嬢への祝福の嵐の中で、僕はただの観客としてその場に立っていた。
(……ああ、そうか)
これは、失ったわけではない。
最初から……持ってすらいなかったのだ。
それでも。
ダンスの時間に、ほんの一瞬だけ抱いた期待。
一曲くらいなら。
兄上の婚約者ではない、今なら。
そんな淡い夢が、音もなく消えていくのを感じていた。
拍手の中で、兄上がクラリスの隣に立つ。
彼女は兄上に何かを耳打ちし、兄上もふっと表情を和らげた。
二人はただ、決められた通りに関係を前に進めただけだ。
それを、置いていかれた側がどう感じるかなんて、彼女には何の関係もない。
「……おめでとうございます、兄上」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。
心からの言葉だった。
兄上は、こちらを見て、一瞬だけ目を細めた。
――ありがとう。
そう言われた気がした。
拍手は、まだ続いている。
その中で、僕は小さく息を吐いた。
(……大丈夫だ)
分かっている。
理解している。
納得もしている。
それでも。
――この日の夜だけは。
胸が痛む事も、誰にも見られぬ場所で、兄を妬み羨んでも許してほしい。
そんな心を胸に抱く事を、誰にも気付かれないまま、悟られぬまま。
第二王子として、そして――アレクの弟として。
僕は祝福の拍手を送り続けた。




