わたしの大事なお友達!
クラリス達は、周囲を兵士達に囲まれながらも、朝食の時間を続けていました。
その中心にいるクラリスはというと……。
「……んっ。やっぱり、このパン……おいしい……」
パンを両手で抱えたまま、幸せそうにもぐもぐと頬張っています。
(サクッとした表面と、ふわっとした中身。
噛むたびに、小麦の甘さが広がって……癖になってしまいそう)
その様子を、兵士達はなんとも言えない表情で見守っていました。
一方で、ガイとエリーは背筋を正したまま席につき、落ち着かない様子でスープに口をつけています。
目の前には、剣。
背後にも、剣。
既に剣は鞘に納められているものの、多くの兵士の視線に晒されながら、平常心で食事をしろという方が難しいのです。
「……」
そんな中。
ミリアが、こそっとガイの耳元へ近付きました。
「……ねぇ、お父さん」
「ん?」
「パン……配ってもいい?」
一瞬、ガイは目を丸くしてから、兵士達を見て小さく頷きました。
「……ああ。いいぞ」
その返事を聞いた瞬間。
ミリアは、ぱっと笑顔になります。
「はーい!」
椅子から降りると、焼きたてのパンが入った籠を抱えて、兵士達の方へ。
「皆さんも、どうぞ~!」
元気いっぱいの声。
突然のことに、兵士達は一斉に固まりました。
「……え?」
「い、いや……」
「任務中だぞ……」
そう言葉では言いながらも。
徹夜明けの身体に、昨日の昼食以降何も食べていないぞと空腹を訴える胃袋。
思わず喉を鳴らす音がこだまのように脳裏へと響きました。
焼きたてのパンの香りは、容赦なく空腹を刺激し誘惑します。
ミリアは気にした様子もなく、にこにこしながら言いました。
「お腹、空いてるでしょう?」
「……」
兵士達の視線が、自然と隊長らしき人物へと集まります。
彼は厳しい顔をしたまま、しばし黙り込みました。
それを見たクラリスは、パンを持ったまま少し身を乗り出しました。
「……ねぇ」
隊長の目が、クラリスへ向けられます。
クラリスはニコッと微笑んで、隊長と兵士達を見回しました。
「夜通し探してくれたんでしょう?
だったら……ちゃんと食べないと」
キッと釣り上がったままの彼の眉が、わずかに緩みました。
……そして。
「……御令嬢のお言葉ならば」
そう言って、差し出されたパンを受け取ります。
サクッ。
その音に、場の空気が――ふっと、和らぎました。
「……」
隊長は何も言いません。
しかし、その口元には笑みが浮かんでいました。
それを合図に、次々とパンに手が伸びていきました。
「……俺も」
「……いただきます」
剣を持つ手が、パンを持つ手に変わる。
張り詰めていた空気は、いつの間にか、温かい空気に包まれていました。
エリーはホッと息をつき、ガイも肩の荷が下りたとばかりに大きく息を吐きました。
それから程なくして。
——がらがらがら。
店の外から、馬車の音が近付いてきます。
しかも、ただの馬車ではありません。
複数の馬で引かれた、大型の馬車の音です。
兵士達が、はっと顔を上げました。
「総員、整列!」
隊長の号令で、一糸乱れぬ動きで兵士達が姿勢を正します。
扉の外で、荒々しく馬車のドアが開かれる音がしました。
御者の声がするよりも早く。
「——クラリス!!」
その声を聞いた瞬間。
わたしの手が、ぴたりと止まりました。
隊長によって扉が開かれ、息を切らして入ってきたのは、目の下に隈を作ったフレデリックと、今にも泣き出しそうな顔をしたアンリエッタでした。
御者の手を借りる時間すら惜しかったのでしょう。
二人は、自分の足で馬車から降り、店の中へと踏み込んでいます。
その二人の視線が兵士達を越え、パンを持ったままのクラリスを捉えた瞬間。
……時間が止まったように動きを止めました。
* * *
「……っ」
お母さまの手が、口元を押さえます。
「……よかった……」
その声はか細く、とても震えていました。
お父さまは何も言わず、ただ一歩、前に出ました。
そして。
「……無事で、何よりだ」
絞り出したのは、たったそれだけの言葉。
でも、その声には誰よりも、安堵と喜びで満ちていました。
わたしはパンを持ったまま、にこっと笑って二人を迎えます。
「お父さま、お母さま。おはようございます。……心配かけてしまってごめんなさい」
しっかりと頭を下げ、謝ります。
そして、顔を上げて少しだけ胸を張って。
「それと、わたし……とっても素敵なお友達ができたの」
そう言って、ミリアの方を振り返ります。
ミリアは、きょとんとしたまま。
なのでわたしはミリアの隣に、そっと立ちました。
「……ミリアは、わたしの大事なお友達です!」
「ふぇ……?」
その言葉にパン屋の中は驚きと困惑で息を飲む音、そしてミリアの嬉しそうで照れたような声だけが響きました。
その言葉が皆の理解に落ちた瞬間。
パン屋の中に、ふっと静かな空気が広がりました。
お父さまもお母さまも、兵士達もガイもエリーも、皆言葉を失っていて。
ミリアだけが、目をぱちぱちと瞬かせたまま、わたしを見上げています。
「……お、ともだち……?」
小さく、確かめるような声。
わたしは、うん、と一度だけ大きく頷きました。
「ええ。とっても、大事なお友達よ」
ミリアの目が、ゆっくりと潤んでいきます。
目を潤ませたまま、無理に笑おうとして、口角が震えていました。
それを見て——お父さまが、一歩前へ出ました。
兵士達の前。
パン屋の家族の前。
そして、ミリアとガイさん、エリーさんの前で、深く深く頭を下げました。
「……娘が、皆さまに多大なご迷惑をおかけしました」
低く、誠実な声。
「それだけではありません。
恐怖と混乱の中で、あなた方を疑い、剣を向けさせた」
「——父として。
そして、公爵として。
心より、お詫び申し上げます」
顔を上げたその瞳には、はっきりとした後悔と感謝がありました。
「娘の命と心を守ってくださったこと……
どれほど感謝してもしきれません」
ガイはしばらく黙っていましたが、やがて困ったように笑いました。
「……頭をお上げ下さい、公爵様。俺たちは、当たり前のことをしただけです」
エリーも、小さく頷きます。
「泣いている迷子の子を放っておける親はいませんもの」
その言葉に、アンリエッタの瞳から、ぽろりと涙がこぼれました。
「……ありがとうございます……本当に……」
彼女は震える声でそう言い、ミリアへと視線を向けます。
「あなたが……この子の、大切なお友達なのね」
ミリアは、少し緊張したように背筋を伸ばしてから、こくんと頷きました。
「は……はい……!」
それを聞いて、アンリエッタは微笑みました。
とても、やさしい笑顔で。
「ありがとう。あなたのおかげで……
この子は、ひとりぼっちになりませんでした」
その瞬間。
ミリアは、わたしの袖を、きゅっと掴みました。
「……クララ……ううん、クラリス様」
「だめ、クララちゃんって呼んで?……私も、ミリアちゃんって呼ぶから!」
「え……ぅ……く、クララちゃん……!もう、行っちゃうの……?」
わたしの胸が、きゅっと痛みました。
でも、だからこそ。
わたしは、ちゃんと笑って言います。
「ええ。でもね——」
ミリアの両手を、そっと握って。
「これは『さよなら』じゃないわ」
「……え?」
「『またね』よ」
驚いたように見開かれた瞳。
わたしは、大事な花の冠を手に取って、ミリアの頭にそっとかぶせました。
「また、パンのいい匂いが恋しくなったら……その時は、遊びに来てもいいかしら?」
ミリアの目から、ぽろぽろと涙がこぼれました。
でも、その口元は、ちゃんと笑っています。
「……うん……!ぜったい、また来てね……!」
「うん……!約束……!」
わたしは、小指を差し出しました。
ミリアは一瞬迷ってから、ぎゅっと指を絡めます。
「約束……!」
外では、馬車の準備が整った音が聞こえていました。
わたしは、最後に一歩前に出て。
ガイさんとエリーさんに、もう一度だけ深く頭を下げました。
「本当に……ありがとうございました」
それから、ミリアを見て。
もう一度、にこっと笑いました。
「またね、ミリアちゃん!」
「……またね、クララちゃん!」
お父さまとお母さまに連れられて、馬車に乗り込む直前。
「クララちゃんっ!!」
振り返ると、ミリアちゃんは花冠を持っていました。
「これ……私の花冠……!クララちゃんのと……交換……なんて」
わたしが持っていた花冠と比べて、控えめで花も小さい冠。
でもわたしは大喜びで、そっと受け取りました。
「ありがとう!ミリアちゃん……っ!」
「それでは、出発致します」
馬に乗った兵士達に前後を守られながら、馬車はゆっくりと走り出しました。
窓から顔を出すと、ミリアちゃんが大きく手を振っているのが見えます。
わたしも、ミリアちゃんの姿が見えなくなってしまうまで、何度も何度も大きく手を振り返しました。
『またね』
この言葉を、胸の奥に、大切にしまいながら――。
馬車の扉が閉まり、
ごとり、と車輪が動き出した瞬間。
——静寂。
さっきまでの喧騒が嘘のように、
柔らかな揺れと、布張りの座席の軋む音だけが残りました。
わたしは、膝の上に手を揃えて、ちょこんと座っています。
……空気が、重いです。
とても。
隣には、お母さま。
向かいには、お父さま。
どちらも、黙ったまま。
(……こ、これは……)
逃げ場がありません。
しばらくして。
ふう、と深く息を吐いたのは——お父さまでした。
「……クラリス」
ぴし、と背筋が伸びます。
「……はい」
「君は」
一拍、置いて。
「……自分が、どれほどのことをしたか、分かっているか?」
その声は、怒鳴るでもなく、冷たく責め立てるでもなく、ただ静かでした。
だからこそ、胸にグッサリ刺さります。
「花祭りの最中にアンリの手を離し、人混みに入り、姿をくらました」
ひとつ、ひとつ。
事実だけが、積み重ねられていきます。
「……はい」
小さく、答えると。
今度は、お母さまが口を開きました。
「クラリス」
その声は、少し震えていました。
「……あなたが見えなくなった瞬間、
私は……何も考えられなくなったのよ」
わたしは、はっとして顔を上げました。
「声が、届かなくて」
「人の波に飲み込まれて」
「……二度と、あなたの手を握れないかと思った」
アンリエッタの指先が、ぎゅっと重なります。
「……あの時間が、どれほど長く、辛かったか……」
その言葉に、胸の奥が……ぎゅっと締め付けられました。
「……ごめんなさい……」
じわりと視界が涙で滲み、溢れて頬を伝い零れていきます。
「軽い気持ちで……前に出て……多くの人に、迷惑を……」
声が、少しずつ小さくなっていきます。
お父さまがふっと息を吐いて、言いました。
「……兄上にまで心配をかけてしまった。王まで動いたのだ。これがどれだけ大きな事か、分かるかクラリス?……これから王城へ謝りに行かねばならん。……だがな」
そっと、お父さまの手がわたしの涙を優しく拭いました。
「クララが無事で戻ってきた事が……私は何よりも嬉しい」
お母さまも、そっと頷きました。
「私も、怒っていないわけではないけれど……それよりも」
お母さまが手を動かす気配に、わたしはビクッと身体に力を入れてしまいました。
(——ぶたれるっ!)
でも、お母さまはわたしを優しく抱き寄せました。
ぎゅっと。
とても強く。
「生きていてくれて、ありがとう」
優しいお母さまの声に、またぽろぽろと涙がこぼれました。
「……っ……」
「……もう、勝手にいなくならないで。あなたは公爵令嬢である前に……。
私の、たったひとりの大切な娘なのよ?」
わたしは、お母さまの胸に顔を埋めて、こくこくと頷きました。
「もう、しません……」
しばらく馬車の中には、私のすすり泣く声と、ゴトゴト車輪が揺れる音だけが残りました。
やがて、お父さまがわざとらしく咳払いをしました。
「クラリス、罰として当分の間、外出は制限する。無論今日の花祭りも駄目だ」
「うぅ……はい……お父さま」
「護衛の数も増やす。一人でも庭で走り回るのも禁止だ」
「え……!」
「……気付いていないとでも思ったか?もっと女の子らしくしなさい」
(誰も見ていないと思っていたのに……)
シュン……と肩が落ちます。
少し間を置いてから。
「……だが」
お父さまは、視線を逸らしながら、ぽつりと続けました。
「……良い友を得たな」
その言葉に、わたしは思わず顔を上げました。
「……ミリアのことだ。知り合って間もない友の為に、多くの兵士を前にしても恐れず、抜き身の剣の前に立つ。……あれは、勇気ある行動だった」
お母さまも、微笑みます。
「ええ。とても素敵なお友達ね」
わたしの胸が、じんわりと温かくなりました。
「……はい!」
ミリアちゃんを褒められて嬉しい。
でも、先程のお父さまの言葉を思い出し、サッと顔色を青くしました。
「……もう、ミリアちゃんと会えないのでしょうか……?」
少し不安になってそう尋ねると、お父さまは僅かに口元を緩めました。
「約束したのだろう?『またね』と」
「でしたら……!」
「例え口約束だとしても、約束を守るのも貴族の務めだ」
わたしは、ぱっと顔を輝かせます。
「……はい!」
馬車は、静かに走り続けます。
膝の上には、大切に包んだ焼きたてパンの包み。
胸の奥には、大切な友達との『またね』の約束。
この王都の花祭りで、わたしは多くの大切な物を得たのです!




