交錯する思惑
覆面をした人物だった。
黒いタクティカルマスクで顔全体を覆い、暗視ゴーグルを装着している。体格から判断して、女性——それも若い。黒いコートを着込み、その下にタクティカルベストが見える。
腰には——”ヴァルキリーP12”
10連発、9mmパラベラム。冷間鍛造の銃身に遊びはなく、25メートル先の標的を確実に穿つ。
極寒から酷暑、泥濘のなかでさえ、このリボルバーが沈黙することはない。低軸線設計が反動を殺し、次弾を吸い込まれるように元の照準線へと戻す。
「多弾数は兵士を慢心させる」 帝国の思想を象徴する10の装弾。一発一殺を強いる、死神を想起させる一品だ。
そして、その銃口は——陸坤に向けられていた。
陸坤は即座に反応した。体を捻り、シュタインベルクを盾にする位置に移動——
「待て!」
シュタインベルクが叫んだ。
「彼は——撃つな!」
覆面の人物は、銃口を廊下に向け直した。そして、ドアを閉めて施錠した。
廊下から足音が聞こえる。複数の親衛隊員が、研究室に向かって走ってきている。
覆面の人物は、ドアの前に立ち——待ち構えた。
陸坤は素早く状況を判断した。この人物は——敵ではない。少なくとも、今この瞬間は。
「あんた、誰だ?」
覆面の人物は答えなかった。ただ、廊下に耳を澄ませている。
その時、ドアが蹴破られた。
五人の親衛隊員が、一斉に研究室に突入した。
覆面の人物は、即座に動いた。
最初の親衛隊員の喉仏にナイフを突き立てる。
声も出せぬまま、無様に血と尿を垂らしながら崩れ落ちた。
次の親衛隊員が銃を構える前に、彼女は懐に潜り込み——バーティツの関節技で腕を極め、銃を奪った。そして、そのまま親衛隊員の首をへし折った。
三人目——ナイフを逆手に持ち替え、脇腹に無慈悲に突き刺す。骨を避け、深く、正確に。心臓を狙った一突き。
四人目——相手の懐へ深く潜り込み、その身を背に担ぎ上げた。 膝を絞り、強靭なバネの力で体を捻りながら投げた。
バーティツの投げ技が鮮やかに決まり、敵は床へと叩きつけられた。悶絶する間も与えない。その頭部を容赦なく踏み抜き、絶命させた。
五人目——最後の親衛隊員が恐怖で思わず後ずさる。彼女は容赦なくヴァルキリーP12を発砲した。弾丸は見事に眉間を貫いた。
全員、絶命。
所要時間、たった八秒。
だが、陸坤は——その「八秒」の中に、致命的な隙を見た。
四人目を倒した後、彼女の動きが0.5秒止まった。遺体を見下ろし——躊躇した。五人目を撃つ前にも、引き金に指をかけてから発砲するまで、0.3秒の遅延があった。
あまり殺しに慣れていない。実戦経験が浅い。
彼女は廊下を確認した。まだ親衛隊員が来る。
そして陸坤を見た——ジェスチャーで伝える。
「博士を連れて逃げて」
陸坤は答えなかった。代わりに、拳銃を彼女に向けた。
「なぁ、だから誰なんだよ?」
彼女はゆっくりと両手を上げた。
「とりあえず、私は敵じゃありません」
声は若い女性のものだった。電子変声機を通しているが、年齢は15歳から20歳の間だろう。
シュタインベルクが口を開いた。
「そうだ、彼女は——味方だ」
陸坤はシュタインベルクを見た。
「…どういうことだ?やっぱりあんた、この女を知ってるのか?」
「...ああ」
シュタインベルクは深く頷いた。
「そもそも、彼女の動きを見れば明白だろう。あの冷徹な振る舞いは、ヴァルハラの訓練を受けた者のそれだ。だが、同時に英国式の格闘術も織り交ぜている。つまり――」
「イギリスのスパイ、ということか」
「そうだ。私はイギリスと取引をしていた。このウイルスを破壊し、情報と共に妻と娘をイギリスへ亡命させる。その手筈だった。だが、アメリカまでもが同時に動くとは誤算だったよ。……動くこと自体は予想できたのだがね。」
陸坤は舌打ちした。
「ちっ、聞いていた話以上だな。」
その時、廊下から更なる足音が聞こえた。今度は十人以上だ。
覆面の女性が素早く言った。
「議論は後です。今は逃げることが先決ですよ。」
陸坤は彼女を見た。
「逃走ルートは?」
「地下三階。非常用トンネルがあります」
「地下三階?」
陸坤は眉をひそめた。
「CIAの情報には載っていなかった」
「当然です。このトンネルは、帝国保安本部の極秘ルート。公式記録には存在しません」
シュタインベルクが補足した。
「その通りだ。このトンネルは、緊急時に研究員を避難させるために作られた。出口は森の中——施設から3キロ離れた場所だ」
陸坤は数秒考えた。
選択肢はない。正面突破は不可能だ。
「…分かった。案内しろ」
覆面の女性は頷き、研究室の奥——書棚の前に向かった。彼女は特定の本を引き抜いた。
カチリ。
書棚が横にスライドし、隠し通路が現れた。
「行きましょう」
三人は通路に入った。書棚が背後で閉まる。
通路は狭く、照明は最小限だった。階段が地下三階へと続いている。
陸坤は後ろを警戒しながら、覆面の女性に尋ねた。
「あんた、名前は?」
「…イレーヌ」
短い沈黙の後、彼女は答えた。
「イレーヌ・アダムスカ」
陸坤はその名前を記憶した。
地下三階に到着すると、そこには古いトンネルが伸びていた。壁は湿気で覆われ、かび臭い空気が漂っている。
「この先、800メートルで出口です」
イレーヌが言った。
三人はトンネルを進んだ。
だが——その時、背後から爆発音が響いた。
「隠し通路を破壊された!」
シュタインベルクが叫んだ。
陸坤は振り返った。トンネルの入口から、親衛隊員たちが突入してくる。
「走れ!」
三人は全力で走り出した。
銃声が響く。弾丸が壁を削り、破片が飛び散る。
陸坤は振り返りながら応戦した。グロック19を発砲——一人、二人と親衛隊員が倒れる。
だが、敵の数は多い。弾丸が尽きる。
「クソッ!」
イレーヌが叫んだ。
「前方、出口です!」
トンネルの先に、かすかな光が見えた。
三人は出口に向かって最後の力を振り絞った。
そして——森の中に飛び出した。
夜明け前の冷たい空気が、肺を満たす。
「こっちです!」
イレーヌは森の奥へと走った。陸坤とシュタインベルクが続く。
親衛隊員たちもトンネルから出てきたが——森の暗闇の中で、三人の姿を見失った。
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森の奥、倒木の陰。
三人は息を潜めていた。
親衛隊員たちの足音が、徐々に遠ざかっていく。
陸坤は時計を確認した。午前4時15分。夜明けまで、あと一時間。
「…助かった」
シュタインベルクが息を吐いた。
イレーヌは周囲を警戒しながら言った。
「まだ安全ではありません。日が昇れば、捜索範囲が広がります」
陸坤は頷いた。
「次の動きは?」
イレーヌは陸坤を見た。
「博士の妻と娘を救出します。それが、私の任務です。」
「偶然だな」
陸坤は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「俺もだよ」
シュタインベルクは二人を見た。
「…ありがとう」
陸坤は立ち上がった。
「礼を言うのは早い。まだ何も終わっていない」
イレーヌも立ち上がった。
「保護施設の警備は厳重です。二人だけでは——」
「まてまて」
陸坤は片手を上げた。
「アンタも俺を一人換算か?それに——」
彼はシュタインベルクを見た。
「博士も一緒だ」
シュタインベルクは目を見開いた。
「私も?だが、私は戦えない——」
「戦わなくていい」
陸坤は言った。
「あんたは、妻と娘に会うため、そして案内人として来るんだ」
沈黙。
シュタインベルクは、陸坤とイレーヌを交互に見た。
そして——決意を固めた。
「…分かった。行こう」
三人は森を出て、ゲルマニア市内へと向かった。
夜明けが近づいていた。




