命運
地下二階は、白い壁と蛍光灯に満ちた無機質な空間だった。空調の音だけが、廊下に響いている。
陸坤はCIAから提供された施設図を頭の中で再構築しながら、シュタインベルクの研究室に向かった。廊下の両側には、複数の実験室が並んでいる。ガラス窓越しに見える内部には、培養器、遠心分離機、そして——檻に入れられた実験動物たち。
猿だ。
陸坤は足を止め、ガラス越しに檻を覗き込んだ。
猿たちは異常な様子だった。檻の中で激しく暴れ、互いに噛み付き合っている。目は血走り、口からは泡を吹いている。一匹は既に死んでおり、他の猿に食いちぎられていた。
「…これが、凶暴化か」
陸坤は顔をしかめた。CIAの情報は正しい。このウイルスは、本当に存在する。そして、その効果は——想像以上に恐ろしい。
彼は先を急いだ。
シュタインベルクの研究室は、廊下の最奥にあった。ドアには「Dr. H. Steinberg — Autorisiertes Personal / Zutritt Verboten für Unbefugte」と書かれたプレートが掲げられている。
陸坤は息を止めるように耳を澄ませた。
室内から、かすかな機械音が聞こえる。誰かいるのか?
彼は慎重にドアノブに手をかけた。ロックはかかっていない。ゆっくりとドアを開ける。
室内は広く、中央には大型の培養装置が置かれ、無数のチューブとモニターがそこから伸びている。壁際には、データ端末とファイルキャビネット。そして——
奥のデスクに、一人の老人が座っていた。
白衣は黄ばんでいて、髪は雪のように白い。ハンス・フォン・シュタインベルク、間違いない。
彼は顕微鏡を覗き込んでおり、陸坤の侵入に気づいていないようだった。
陸坤は音を立てずに室内に入り、ドアを閉めた。そして、静かに拳銃を抜いた。
サプレッサー付きのグロック19。
掌に伝わる冷たさが、生きるか死ぬかの重さだった。
...一発で仕留める。
彼は照準を合わせた。
その瞬間——
「待ちたまえ」
顕微鏡の影から低い声が染み出した。
ドイツ語訛りの重い英語だった。
陸坤は動きを止めた。
「来ることは、予想していた。しかし早いな。」
老人はゆっくりと顔を上げた。目は疲労で霞み、諦念がそこに座っている。驚きも恐怖もない。ただ、深い溜息のような声。
「誰が送り込んだ?.....アメリカか?フランスか?」
陸坤は無言で銃を構え続けた。
シュタインベルクは穏やかに——最後の時を悟り、微笑んだ。
「撃つ前に、少しだけ話を聞いてくれないか?どうせ私は死ぬのだ。せめて、真実を知ってほしい」
「話すことなど何もない」
陸坤は冷たく言った。
「あんたは生物兵器を開発している。それで十分だ」
「その通りだ」
シュタインベルクは頷いた。
「だが——私はこのウイルスを作りたくなどなかった」
「強制されたと?」
「15年前、帝国保安本部は私の家族を人質に取った。妻と娘を。『研究を続けるか、彼女たちが死ぬか』——選択肢など、なかった」
陸坤は銃を下ろさなかった。
「よくある話だな。だが、それであんたが免罪されるわけじゃない」
「知っている」
シュタインベルクの声は、自己嫌悪に満ちていた。
「毎晩、悪夢を見る。このウイルスで死ぬ人々の顔が、私を責める。だが——私は弱い人間だ。家族を見捨てることができなかった」
陸坤は数秒間、沈黙した。
シュタインベルクの目を見た。
疲れ切った、諦めた目。だが——その奥に、わずかな希望が残っていた。
「…あんた、本当に死にたいのか?」
シュタインベルクは目を見開いた。
「何を——」
「あんたは、俺が来ることを予想していた。だが、逃げなかった。抵抗もしなかった」
陸坤は続けた。
「それは——死にたいからか?それとも——」
陸坤は培養装置を見た。
「このウイルスを、止めたいからか?」
シュタインベルクは息を呑んだ。
数秒の沈黙。
そして——
「…両方だ」
シュタインベルクは目を伏せた。
「私は、死にたい。15年間、悪魔の研究を続けてきた。その罪は——償いきれない。だが、同時に——」
彼は培養装置を見た。
「このウイルスを、止めたい。これ以上、犠牲者を出したくない」
銃をゆっくり下ろした。
部屋はしんと静まりかえっている。
陸坤は小さく声を出した。
「……協力しろ」
伏せていた目を、シュタインベルクがようやく上げる。
「協力、か」
陸坤は言葉を重く区切った。
「ああ。俺の任務は、あんたの暗殺とウイルスサンプルの破壊だ。」
シュタインベルクはかすかに息を吐いた。
そして、淡々と応じる。
「私を消すのは構わん。しかし、私を消しても、研究の記録は保安本部に残る。別の者が、研究を続けるだろう。」
陸坤は短く頷いた。
「そうか……意味がない」
シュタインベルクも静かに頷き、ゆるりと目を上げた。
その眼差しには、諦念とも達観ともつかぬ影が揺れている。
「……そうかもしれんな」
陸坤は一歩、彼の思考の縁に踏み込むように言った。
「なら、保安本部を叩くか」
その声音は低く、しかし揺らぎがなかった。
また彼の眼は妙に澄んで見えた。
シュタインベルクは、しばらくその光を見つめていた。
まるで、自分の命運を他人の瞳の奥に探しているかのように。
「...だが——保安本部を叩くのは、君一人では不可能だ」
「分かってる」
陸坤は短く舌打ちをした。
「だが、あんたなら——保安本部のデータがどこにあるか、知ってるんじゃないのか?」
「知っている」
シュタインベルクは静かに言った。
「保安本部の地下二階、中央記録室だ。そこに、全ての研究データが保管されている」
「警備は?」
「厳重だ。常時50人以上の親衛隊員が警備している。さらに、中央記録室は複数の電子認証ゲートで保護されている」
陸坤は考え込んだ。
「…一人じゃ無理だな」
「その通りだ」
その時、室内の警報が鳴り響いた。
「侵入者発見!地下二階!全隊、至急応援を!」
「クソッ!」
陸坤は再び舌打ちをした。
シュタインベルクは立ち上がった。
「君は——逃げるんだ。このままでは——」
その瞬間、研究室のドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは——




