最強の暗殺者
大ゲルマン帝国の首都は、夜になっても眠らない。
かつてベルリンと呼ばれたこの都市は、今やヒトラーの後継者たちが支配する巨大都市へと変貌を遂げていた。中心部にそびえ立つ大会堂は、ナチスの威信を示すモニュメントとして夜空を睨んでいる。
───1939年。
独ソ不可侵条約は早くから極秘に結ばれていた。
その結果、ポーランドは英仏との相互援助体制を築けず、
孤立したままドイツに飲み込まれた。
ナチス・ドイツはソ連と領土を分割した直後、
油断したソ連本土へと矛先を向ける。
大粛清の傷が癒えぬソ連軍は、
指揮も統制も崩壊していた。
そして冬が来る前に、電撃的にソ連本土への侵攻を開始した。
フィンランド方面からの側面攻撃と
苛烈な電撃戦が一気に国土を切り裂く。
イギリスのチェンバレン内閣は
「反共」を掲げ、秘密裏にドイツへの支援を続けた。
冬将軍が到来する前に、モスクワは陥落した。
ウラル山脈以西──
バルト三国、ベラルーシ、ウクライナ、西ロシアは
ドイツ人の入植地として再編され、
ウラル以東には傀儡国家「ロシア共和国」が樹立された。
こうして第二次世界大戦は、
ナチスの勝利によって終結する。
だがそれは、終戦という名の幕間にすぎなかった。
ナチス・中華民国・ロシア共和国を中心とする東側。
アメリカ・イギリス・日本を中核とした西側。
両陣営は互いを滅ぼすことなく、
ただ睨み合い続けて八十余年。
いまもなお、世界は凍りついたまま分断されている。
──終わらない冷戦。
だが、旧市街の路地裏には、別の世界が広がっていた。
────
スイス【チューリッヒ】。
中立国として静かに佇むこの街は、いまも東西の諜報網が密かに交錯する舞台となっていた。
湖畔に面した高級ホテル──その一室のラウンジは、沈黙と緊張に支配される暗い戦場だった。
窓の外、湖面に映る街灯の光が揺れるたび、潜む危険の気配が室内を一瞬震わせる。
陸坤は窓際の席で、依頼人の到着を待っていた。
サングラス越しの赤い瞳が、湖面を鋭く見据える。黒いジャケットの襟元には赤い刺繍。片耳の三つのピアスが、わずかな風に揺れる——それは、失った仲間の数だった。
25歳の陸坤は、16歳から22歳まで中華民国政府直属の暗殺者として活動した。
わずか六年間で、47件の暗殺任務を完璧に遂行──失敗はゼロ。
冷静で、残忍で、そして正確。「東側最強」と呼ばれるにふさわしい男。
その名を聞けば、敵は心の奥底で凍りついた。
だが、三年前──シベリアのノヴォシビルスクで、陸坤はすべてを失った。
任務は、ナチスの依頼によるロシア共和国傀儡政府要人の暗殺。しかし、それは表向きの依頼にすぎなかった。
ナチスは中華民国直属の精鋭暗殺者を警戒していた。潜在的な戦力を削ぎ、影響力を掌握するため、巧妙な罠を仕掛けたのだ。
背後で蠢くドイツ諜報機関とFSR──その共同の罠が、陸坤の部隊を一網打尽にした。
李明、王薇、張浩
──仲間たちは捕らえられ、拷問の末に無惨に殺された。
陸坤だけが生き残った。仲間たちが、彼を逃がすために囮になったからだ。
裏切りの理由は頭では理解できても、胸の奥のこの痛みは消えない。
冷酷な計算と陰謀の渦中で、陸坤は初めて“最強”である己が無力さを思い知った。
その日を境に、陸坤は中華民国政府を去った。 忠誠も、理想も、仲間も──全部、シベリアの冷たい雪の中だ。 もう誰にも従わない。 もう誰も信じない。 誰かのために戦って、また仲間を失うくらいなら、最初から独りでいい。 だから、傭兵になった。
命を張る理由はただひとつ。
「金さえあれば足りる」──そう自分に言い聞かせながら。
「ミスター・ルー」
英語で呼びかける声が、扉の外から聞こえた。
ドアが開き、中年の白人男性が入ってきた。スーツの下に防弾ベストを着込んでいるのが、わずかな膨らみで分かる。CIA、それも本部直属の人間だろう。
陸坤は動じず、軽い調子で答えた。
「老哥、随分と慎重だな。ホテルの外に何人の護衛を配置した?」
男は眉をひそめた。
「護衛など——」
「六人だ」
陸坤はサングラスを指で押し上げた。
「正面エントランスに二人、裏口に二人、屋上に一人、そして湖畔のボート乗り場にも一人。ああ、それと廊下にも一人いるな。
....七人だな。感が鈍ったかな?」
「噂通りだな。君を選んでよかった...君は本物だ。」
「...金を払う相手を選ぶ趣味はない。で、仕事の内容は?」
男は席に座り、スマートフォンを取り出した。画面を陸坤に向ける。そこには、白衣を着た初老のドイツ人男性の写真が映っていた。
「ハンス・フォン・シュタインベルク博士。68歳。専門は微生物学とウイルス学。かつてはマックス・プランク研究所の所長だったが、15年前に突然姿を消した」
「で?」
「彼は今、帝国保安本部(RSHA)直属の秘密研究施設で働いている。場所はゲルマニア郊外、オラニエンブルク近郊。表向きは農業研究所だが、実際は——」
男は声を落とした。
「生物兵器研究所だ。博士が開発しているのは、人間を凶暴化させる特殊なウイルス。コードネーム『ラーゲ・ヴルフ(怒れる狼)』」
陸坤は眉を上げた。「凶暴化?」
「このウイルスは、感染者の前頭前野と扁桃体に作用し、理性を奪う。感染者は極度の攻撃性を示し、見境なく他者を襲う。潜伏期間は48時間。発症後は制御不能だ」
男は画面をスワイプし、別の資料を表示した。
「そして、このウイルスは『選択的』だ。特定の遺伝子マーカー——具体的には、アシュケナージ系ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系に特異的に反応する遺伝子配列——を持つ人間にのみ作用する」
陸坤は長い息を吐いた。
「つまり、民族を狙い撃ちできるわけか」
「その通りだ」男は厳しい表情で続けた。「ナチスの目的は二つある。一つは、ユダヤ人口の削減。戦後、国際社会の監視下でホロコーストのような露骨な虐殺は不可能になった。だが、このウイルスなら——感染者が自滅し、互いに殺し合う。ナチスは『悲劇的な疫病』として世界に説明できる」
「もう一つは?」
「アメリカの社会崩壊だ。我々の情報では、ナチスは数ヶ月以内に、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴの地下鉄で同時多発的にウイルスを散布する計画を立てている。アフリカ系とヒスパニック系が多く利用する路線を狙う。感染者は数百万人。社会インフラは麻痺し、経済は崩壊する」
男は声を落とした。
「そして、混乱の最中に、ナチスは『救世主』として介入する。ワクチンと治安維持部隊を提供し、アメリカを事実上の保護国にする——それが、彼らの計画だ」
陸坤は舌打ちした。
「えげつないな」
「だからこそ、止めなければならない。我々の情報では、シュタインベルクは来月中に最終実験を行う。成功すれば、量産段階に入る。そうなれば——」
「止められない、か」
「君の任務は、シュタインベルクの暗殺だ。報酬は200万ドル。前金50万は既に君の口座に振り込んである」
陸坤はスマートフォンを受け取り、詳細情報を流し読みした。警備体制、施設の配置図、シュタインベルクの行動パターン——CIAの情報網は、さすがに優秀だ。
そして——ある情報に目が止まった。
「…博士は、月に一度、ゲルマニア市内の保護施設を訪問している?」
「ああ」男は頷いた。「彼の妻と娘が、そこに収容されている。帝国保安本部が人質に取っているんだ。博士が研究を続ける限り、彼女たちは生かされる」
「その保護施設で殺せないのか?警備も緩いだろう」
「それも考えた」男は首を振った。「だが、博士は常に四人の親衛隊護衛を伴っている。さらに、保護施設の周辺も監視されている。暗殺は可能だが——」
「逃げられない、か」
「その通りだ。市内での暗殺は、リスクが高すぎる。君が捕まれば、アメリカの関与が露呈する」
陸坤は考え込んだ。
「なら、なぜ研究施設なんだ?そこはもっと警備が厳重だろう」
「確かに厳重だ」男は認めた。「だが、研究施設には利点がある。施設は郊外の森の中にあり、逃走ルートが複数確保できる。さらに——」
男は別の資料を表示した。
「施設には、夜勤の清掃業者が定期的に出入りしている。君は、そこに紛れ込める」
陸坤は資料を見た。
清掃業者は、毎週水曜日の深夜0時に施設に入る。警備は、その時間帯が最も手薄になる。
「…悪くない」
「そして、最も重要なのは——」男は真剣な表情で言った。「研究施設なら、ウイルスのサンプルも破壊できる」
陸坤は眉を上げた。
「サンプル?」
「ああ。博士を殺すだけでは不十分だ。研究データは保安本部に保管されているが、ウイルスのサンプルは研究施設にある。それを破壊すれば、ナチスの計画は大幅に遅れる」
「…つまり、博士の暗殺とサンプルの破壊、二つをやれと?」
「そうだ」男は頷いた。「報酬は、その二つをセットでの金額だ」
陸坤は数秒間、考え込んだ。
そして——
「…分かった。やる」
「本当か?」
「ああ。だが、条件がある」
「何だ?」
「まぁ、百あり得ないが。」
陸坤は片耳のピアスに触れた。
「もし俺が死んだら、俺の遺体はシベリアに埋めてくれないか?」
男は頷いた。「約束する」
陸坤はスマートフォンをポケットに仕舞い、立ち上がった。
「じゃあ、一週間後に結果を聞かせる。老哥、せいぜい祈っててくれよ。」
彼は部屋を出た。
男は窓の外を眺めた。陸坤の姿が消えていく。
男はゆっくりと額、胸、左肩、右肩へ――指先で十字を描く。
その動作の中に、恐れもためらいも、すべて包み込むような祈りがあった。
「神よ、彼にご加護を」




