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龍神記

作者: 山谷麻也


 その1


 孝介の生まれ育った村は貧しかった。

 山肌にへばりつくように家々が点在していた。稲作には適さないので、傾斜地が畑として開墾された。どの家も、わずかばかりの畑で一家がやっと食べていけるだけの作物をつくっていた。


 ある年、ネズミが大量に発生した。ソバや粟、ヒエなどの穀物を食べ尽くした。やがて、村に疫病が流行(はや)った。孝介が一三の時だった。何人かが腹痛に苦しんで、高熱を出した。そのうち、孝介の両親だけ帰らぬ人となった。


 村人は孝介の家に出入りしなくなった。孝介が他人の家に近づくことも嫌がった。子供たちも親から言い含められ、孝介は遊びの仲間に入れてもらえなくなった。


 そんな中で、おゆきの一家だけは違っていた。

 おゆきは孝介と同い年だった。物心ついた頃から一緒に遊んだ。孝介の両親が亡くなってからというもの、よく夕飯に呼ばれた。


「孝介、ちゃんとご飯、食べとるか」

 いつも、おゆきの父親は気づかってくれた。

「オラがこの家に来てもええんか」

 孝介は村人の目を気にした。

「言いたいやつらには、言わせとけ。あの時は誰がかかってもおかしゅうなかったのに」

 おゆきの母親は手のひらを返したような村の衆に心底、腹を立てていた。


 その2


 孝介は遺された畑を耕しながら、おゆきの家の農作業を手伝った。

 おゆきの父親は裏山に分け入り、炭焼きをしていた。

 炭焼きが忙しい時には孝介に声が掛かった。大きくなるにつれ、孝介は筋肉がついてきた。おゆきの父親の有力な片腕になっていた。


 おゆきの家の手伝いをした夜は必ず、孝介の夕食も準備されていた。

 おゆきの父親はドブロクを飲みながら、若い頃の話をした。御一新の年の生まれだと言っていた。

「孝ちゃんの年ごろには、ここに婿養子に入っとった。きょうだいが多かったんで、口減らしや」

 働きづくめだったらしい。家の周囲に畑を拓き、屋敷も広げた。それでも、本家は婿ではなく、いつまでも使用人のように扱っていた。


「どや、孝ちゃん、うちに養子に来んか」

 孝介は不意を突かれた。思わず、おゆきを見ると、おゆきは顔を真っ赤にしていた。孝介はうつむいた。

 おゆきの両親は大笑いしていた。


 以来、孝介はおゆきと目を合わせるのを避けるようになった。そのくせ、おゆきが気になり、知らず知らず、おゆきに視線を集中していた。


 その3


 おゆきが寝込んでしまった。

 日ごとに、両親も明るさを失っていった。

「ものを食べんのや」

 母親はおゆきが残したソバがゆをすすりながら、言った。


 孝介はおゆきの寝ている部屋に入った。おゆきの目をみつめた。額にそっと手を当てた。

「孝ちゃんの手、冷とうて気持ちええ」

 おゆきの声はやっと聞き取れた。


 沈黙を破って、おゆきの母親が本家のおばちゃんと共に入って来た。母親は部屋にロウソクを灯した。

「おゆきちゃん、どうなん」

 おばちゃんはおゆきの顔をのぞきこんだ。


「一度、先生にみてもろうたら。カジヤのおふみちゃんもな、寝込んだんで先生が拝んでくれたんよ。そしたら、やっぱり(たた)られとったんやって。どんな疫病神がついとるか分からんで」


 よく当たるというので有名な祈祷師だった。

「けんど、だいぶ良うなっとんよ。なあ、おゆき」

 おゆきの母親は早々におばちゃんを帰した。


 孝介は炭焼きの手伝いに行った。一休みしていると、話題は自然におゆきのことになる。

「なんぞ、栄養のあるもんでも食べさせたらどうやろか」

 ソバがゆでは、孝介でも食欲は湧かない。

「うん、山鳥やウサギを食べさせたけんど、吐いてしもうたなあ」

 ふだんの快活さに似合わず、おゆきの父親も心配そうだった。


「おっちゃん。魚はどうやろ。鯉なんか、元気になれそうやない」

 思い付きだった。黒鯉ほど力強い魚はいない、と孝介は心の内で納得した。

「孝ちゃん。ありがとな。けんど、鯉、釣るのは難しいで。それに、あの淵は気つけんと何人も死んどるからな」


 その4


 孝介の住む村に一本の谷が流れている。

 ウナギ、カワヨシノボリのほか沢ガニや川エビもいて、季節になると子供たちでにぎわう。多くの村人の喉を潤してきた命の水でもある。


 谷は山あいを流れる川へと注ぐ。V字型に山が削られ、川幅が狭く、流れは急だ。そんな川でも、ところどころで深い淵をつくり、満々と水をたたえる。その神秘さから、古来、川の主が棲むとされ、人々を遠ざけてきた。


 孝介は物置から、父親の使っていた釣り道具を取り出した。

 川へ行く途中、幼馴染みに会った。しきりに、何を釣りに行くのか訊いてきた。

 前に、孝介が嫌いな年上の子の話をしたところ、みんなに言いふらされてしまったことがある。孝介は年上の子から殴られた。孝介はその幼馴染みとは、真面目な話をしないことにしていた。


 淵は不気味な静けさに包まれていた。道路からは岸が見えなかった。

 孝介には好都合だった。誰の目も気にせず、釣りに没頭できる。それは、おゆきのことを考える時間でもあった。


 アタリはなかった。何時間たっても、竿はぴくりとも動かない。エサも取られてはいない。気が付くと周囲が暗くなりはじめていた。やむなく、孝介は竿をしまった。


 翌日も淵に孝介の姿があった。竿を手にしたまま、孝介は微動だにしなかった。頭の中はおゆきのことでいっぱいだった。

 ふと右手下を見ると、うごめく黒い影があった。ゆっくりと遠ざかっていく。仮に針にかかったとしても、とても釣り上げられる大きさではなかった。


 この日、一尺足らずの鯉一匹だけを釣った。タモ網に入れ、おゆきの家に急行した。


 次の日も、孝介は淵で糸を垂れた。

 やはり、前日の巨大な鯉が現れた。よくアタリがあったので、孝介は釣りに夢中になった。何匹も釣り上げた。


「毎日、精が出るのう」

 いきなり声をかけられた。女の声だった。

 声のする方に振り向くと、川岸に着物姿のうら若い女が立っていた。


「何のために鯉を釣っておるのか」

 女に訊かれた。

「病に苦しんでいる知り合いがおって、滋養のある鯉を食べさせるためじゃ」

 孝介は答えた。何の応答もなかった。見ると、女の姿は消えていた。


 その5


 おゆきは目に見えて元気を取り戻した。

 孝介が鯉を届けるのを楽しみに待っていた。この分だと、四、五日もすれば床上げできそうだった。


 その日も、女は岸に現れた。

 孝介はいつしか、女の現れるのを心待ちにするようになっていた。

「頼みがある。一人暮らしという話だったが、わらわを連れ帰ってくれぬか」


 孝介は釣った鯉をすべて放流した。この日を限りに釣りを止めた。


 孝介が女を連れ帰るのを、幼馴染みが目撃した。

 彼は慎重になっていた。どういう関係か、確証をつかんでからでも、触れ歩くのに遅くない。


 おゆき一家は孝介の変化にいち早く気づいていた。

 孝介が寄り付かなくなったにしても、おゆきの命の恩人である。遠くから、孝介の幸せを祈るだけだった。


 孝介の幼馴染みは夜陰に乗じて、雨戸の隙間から部屋の中をうかがっていた。

 ロウソクの光が揺れる。孝介の背中が見えた。何者かが孝介をしっかりと抱きかかえている。掛布団からはみ出しているのは鉤爪(かぎづめ)。異形の顔から差し出された舌が、孝介を嘗め回していた。


 幼馴染みは村の道を行く孝介を呼び止めた。

 孝介は夢遊病者のようだった。幼い頃、おゆきと三人で遊んだ話をした。おゆきの名前を出しても表情ひとつ変えなかった。


 幼馴染みは祈祷師を訪ねた。

 放心する孝介を前に祈祷が始まる。祈祷に熱がこもるにしたがい、孝介は苦しみだした。やがて孝介は失神した。なおも祈祷は続いた。


 孝介がすっくと立ちあがった。すっきりした表情だった。

「わらわは淵に毎日現れる孝介を見ていて、とりこになってしもうた。多くの若者を淵に引き込んだが、孝介だけは生かしたかった。そこで、わらわが人間の娘に姿を変え、孝介と夫婦になることを思いついた。幸せな毎日だった。しかし、龍が人間に化身していられる時間は長くない。孝介を激しく愛すれば愛するほど、孝介の命は細って行った。さよなら、孝介。わらわは淵に帰るが、絶対に後を追ってはならぬ」


 家は静まり返っていた。

 孝介は次第に自分を取り戻した。何が起きたのかは分からなかった。ただ、心にぽっかりと穴が開いた感じだった。


 物置に行くと、釣り竿に見覚えがあった。孝介の脚は自然に淵に向かった。

「こんな嵐の日に釣りに行くアホがおるわ」

 と村人は眉をひそめた。


 淵の水はいつもの台風以上に、怒涛の如く波打っていた。まるで、巨大な龍がのたうっているかのようだった。

 川の水が引き、岸に誰かの釣り竿が置き忘れたままになっていた。村の誰も孝介の消息を知らない。

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