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4. 結

 宇宙線はこの3日3晩降り続け、止んだそうだ。事前に準備されていた除染作業はその後さらに3日で実施された。人々は、政府が定めた1週間あたりの限られた時間内での外出が許可され、従来の生活は思ったよりも早く取り戻せそうな様子をみせた。ペンティにはぼくの年齢、健康状態からは1週間に3時間だけ外出して良いという政府通知が届いた。しかし、ぼくはまだどこかに出かけられる状態ではなかった。この間、心身の状態は目まぐるしく変わり、心地良い日もあれば、絶望しか感じない日もあった。そのランダムモザイクさはまるで、様々な状態をした複数人のぼくが、一斉に同じ一点に集められ融合してしまったかのようだった。

 家に引きこもって数日、腹は空かず、1日に数回だけ買い置きしていた飲料水をのどが渇いた分だけ飲んだ。

ある日、朝目覚めると、ペンティから郵便物が届いたと知らされた。それは、元恋人からだった。誰の手にも触れられたことのないように純白で、折り目やシワが一切ない封筒に、ぼくの住所が書かれていた。その字はどこか癖があるものの、目が悪い人でも読み取れるくらい文字はくっきり、広々としていて、几帳面さと思いやりに溢れていた。

 ぼくは封筒の中に入っていた2つ折りの手紙1枚を広げた。

「元気?わたしは今とても活力的なの。宇宙線来てみるとあっという間だったね。あっという間だったけど、ものすごく真理をわたしたちに届けてくれた。宇宙神様のメッセージは短くても、強くはっきりと、わたしたちに伝わった。そう感じたでしょ?あなたのお返事を待っています。じゃあまたね」

宇宙神様。この世の森羅万象を創造し、見守る絶対神。何物からも手が届かない存在でありながら、信じればその存在を強く認識できるもの。世界を大騒ぎさせたこの宇宙線も、宇宙神様からの啓示ということか。

 ペンティは続けて、唱えた。

「おはようございます。血圧が低いようです、大丈夫でございますか?今日は冷蔵庫に卵が入っていますから、ゆで卵でも何でも良いから食べたほうがよろしいかと」

 ぼくは、変わってしまった元恋人と、変わらないペンティと、そして、変わり得ない宇宙神様に挟まれている。それぞれが歯車で、時計回りに動いたり、反時計回りに動いたり、あるいは動かなかったりしている。ぼくはそんな歯車が噛み合わないわずかな隙間に小さく小さく入り込み、そこが唯一の居場所だと信じて裸で正座している。その隙間は歯車から干渉されない一方で、歯車と隣合わせなのに外界に対して力学的仕事を一切しない。そこは時が止まった空間。ぼくの部屋。ぼくのソファだった。

 ぼくはソファの上でまた頭を抱え込んだ。目を閉じて、何も考えず、ただそこに存在していることだけを意識した。すると無が訪れた。頭痛もめまいも、かゆみも幻覚も感じない。地震のように唸っていた鼓動すら閉ざされ、ぼくの中の時間だけでなく、ぼくが触れている時間も止まってしまった。そのまま、そのまま、そのまま、ぼくはソファの上に存在し続けた。今が何日の何時なのかもわからない。世間は変わらず動いているのだろうか。騒々しくて、利己的でいて、窮屈な社会。未曾有の宇宙線災害に相対しても、必要な生活行動の変化を受け入れ、また元の日常に戻ろうとする。その日常は、絶対に以前と同じにはなり得ないのに、それを許容する柔らかな社会。

 そして元恋人。あいつも幸せに日常を送れているのだろうか。一瞬の安寧を求めているのではなく、自分の居場所を見つけたのだろうか。そうであることを願う。心から願っている。あと、そうだ、宇宙線は止んだが雨は止んだのだろうか。ぼくは急にソファの後ろにある出窓のカーテンを開けた。勢い余って、カーテンはレールからはずれ、無残にぶら下がってしまったが、その時のぼくはまったく気にしなかった。窓の外はこの上なく晴れていた。まぶしさに目をつぶり、直ちに見開いた。ぼくは眼鏡を一度外し、タオルでレンズをこすって綺麗にした。ぼくの中の時間が動き出していた。


 今日またあの川辺に来た。ぼくはここに2時間ほど座っている。目前の川は、いつもと変わらずゆっくりと流れている。来たときには晴れていたのに、空にはいつの間にか雨雲が漂ってきた。波目には、素知らぬ顔でやって来た雲模様が映り込み、川の流れとは反対方向に動いてゆく。夏の風は数週間前よりも熱く、さらにジメジメとしている。それは熱風だが、久しぶりの外出にぼくはどこか生命エネルギーを受け取っているような気分になる。風は、シャツの半袖口から入り込み、胸元めがけて熱気をぶつけてくる。ぼくはそれに応えるかのように胸を張ってみた。

 ぼくの後ろの川べりを、数人が通り過ぎていく。ぼくは振り返ることなく、通り過ぎる音だけを感じていた。よくよく聞いてみると、右から左へ通り過ぎた人間は音楽を聞いていたようで一定のリズム音ととともに離れていった。左から右へ通り過ぎた人間は革靴の固く冷たい足音を立てていった。

 気がつくとぼくの後ろに宇宙神様が突っ立っていた。その姿はあの大雨の日に、ぼくに黒と白のカプセル薬を渡してきた人間の姿をしていた。ぼくは別に神様に話しかけるでもなく、独り言のようにつぶやいた。

「この川にはたまに来てるんだけど、いつ来ても同じ川ではないんだ。ぼくの目の前を流れている水は、ほら、もうずっと下流に行っている。今、ぼくの目の前を流れている水は、さっきまでもっと上流にいた水だ。その水はずっと前に、あの大雨で地上に降りてきた水かもしれない。」

神様は何も言わなかった。もしかしたら声は届いていないのかもしれない。それでも、神様もぼくもただ川の流れだけを見つめていて、ぼくが何を考えているのかは流れるものを通じて神様が理解してくれている気がした。ぼくは続けて言った。

「雲だって、雲の中の水蒸気やホコリは逐一同じ雲の中で場所を変えているんでしょ。だから同じ雲なんてないし、でもそれは同じ雲とも言える。この風もそうさ。暑い夏の風であり、毎回吹く風は別物だ」

ぼくの後ろを通行人がまた通る。

「ぼく、ここに座ったとき、背中を通る人のことなんてまったく気にしたことなかった。でも、毎回通る人は違う。」

ぼくは少し考えてからまた独り言を続けた。

「そういえば、前ペンティがテセウスの船って言うのを話してくれたんだ。船の部品が入れ替わっていってもそれは元の船と同じと言えるのかって。でも、それって、なんていうか、時間の流れがあってこその問題だ」

ぼくはおもむろに地面に落ちていた小石を拾い上げ、それを川に向かって投げ入れた。小石は静かに川に飲み込まれ、そこに波紋がたった。ぼくは波紋が消えるのを待ってから続けた。

「もし、時間が止まった世界で、どうにか船の部品を取替えたときに、船には元の部品と新しい部品が同時に存在することになる。船はどっちの部品も持っていると言えるし、どっちの部品もないとも言える。うーん、それってすごくごちゃごちゃして、気持ち悪いかも」

ぼくは神様を見上げた。

「そういえば、あの薬って?」

神様は何も答えずに、ひたすら川、否、その向こうにある世界を見つめている。ぼくは続けた。

「でも、この世界には時間が流れているから、川は一時として同じ状態にならないし、人も薬を口にしたらどうにかして代謝される。だから、世界は少しずつ変わっているのに、ずっと同じなんだ。だから世界に惹かれる。たぶんぼくらは、見かけは変わらないと認識していても少しずつ少しずつ変わっていくものに、親愛を覚えて、同情して、それを美しいと感じる」

気づいたら小雨が降っていた。またメガネも服も濡れている。でも今はこの雨が愛おしかった。

 ぼくの頭の中の元恋人が叫んできた。

「じゃあ、宇宙神様は美しくないっていうの?宇宙神様は絶対神なの。不動で不可侵なの!」

ぼくは咄嗟に言い訳した。でもそれは決していい加減なものではなく、ぼくの本心だった。

「そうじゃなくて、えっと、変わらないものもあるよ。それは人間の時間にしてみたら、一見変わらないっていう意味だけど」

ぼくは別の小石を手にとって、お手玉のように両手で転がしてみた。

「変わらないものには、安心感がある。頼りたくなる。守られているとも感じる。美しいっていうより、なんだろう、荘厳なんだ。一方の川や雨や人間やこの世界は逆に、儚くて愛おしい。内在的に同じであろうとするんだけど、外界からの力でその均衡は崩れてしまう。だから美くしいんだ」

 徐々に雨が本降りになってきた。頭の中の元恋人も、宇宙神様もいなくなっていた。ぼくは川辺から立ち上げって、ポケットからハンカチを取り出し、軽く眼鏡と髪についた水を払った。家への帰り道、スーパーマーケットに寄って、食料の値上がりに文句を言いながらも、冷凍野菜と飲料水を、生体チップの通貨を通じて買った。ぼくは家へ向かう中でペンティに話しかけた。

「なあペンティ」

「はい、なんでしょう?」

「ぼく言ってなかった気がするけど、オムライスが好きなんだ。だから冷蔵庫の中の卵でオムライスを作るよ」

 家に帰ると自分が無性にお腹が空いていることがわかった。ぼくはフライパンに火をかけ、野菜を熱しているうちに、溜め込んだ衣類のひと山の洗濯を開始した。洗濯機はやっとかと、ぐわんぐわん唸りながら時計回りに動いた。冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに割り入れにおいを嗅いでみる。多分大丈夫と、ボウルで溶いた卵をフライパンに流し込み、ぼくはオムライスを作った。ペンティは興奮した様子でそれを実況していた。

 ふとキッチンの隅を見ると、腐ったかじりかけの林檎とその林檎の入った鉄容器が、動き出した時間の中で存在していた。

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