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3. 転

 町には人の気配が全く感じられなかった。誰も外にいない。車も走っていない。ただ雨だけが降り続けている。あとは、目には見えていない宇宙線も、か。ふと宇宙線の降る音が気になった。「降る」というのが言葉の比喩であることはわかっているが、どうしても考えたくなってしまったのだ。雨のバラバラ音よりももっと軽快で小刻みな気がする。冷ややかでトゲトゲしいのかもしれない。ぼくはいくつかの音を口ずさんでみようとしたが、口から宇宙線が入ってくる気がして止めた。

 そして、ここはどこだろうか。なんとなく知っている道に突っ立っている気もするし、どこか遠い土地な感じもする。ぼくは片側1車線の車道の真ん中に立っている。両側には歩道があってすぐに、同じようなレンガ造りの見た目の集合住宅が立ち並んでいる。どの家もカーテンが閉められ、その後ろから煌々と屋内灯が映っていた。ただ不思議なことに、どの窓越しに人影はまったく見えなかった。ぼくは道の前方を見て、振り返って後方を見て、また前方に戻った。信号機も交通看板も広告看板もない。どこにも地名や固有名詞に当たるものが見つからなかった。ただ、車道沿いの歩道端に一定の間隔で街灯が光り、その光の下を無数の雨粒が通り過ぎているだけだった。

 ぼくは疲れてしまった。もうずっと頭が働かない。頭の中をジーンと低周波で、短振幅の痛さの波が決して止まろうとしない。ぼくは靴を履いていなかったが、この雨の中なら靴を履いていようと履いていなかろうと、きっと靴下はびしょびしょだったはずだ。靴下のまま前方の車道沿いを歩き始める。歩みを進めてもずっと同じ景色が続いている。ぼくの足へは心血が届いておらず、雨にそのエネルギーを吸い取られるばかりだった。フラフラと歩いては立ち止まり、後方を振り返り、また前方へ千鳥足を進めた。ずっと生体チップのペンティが頭の中で何か話しかけてきているが、もう言葉が入ってこなかった。

 ぼくはついに車道からはずれ歩道へ入り込み、レンガ造りの住宅の壁に手をついてうつむいてしまった。寒い。寒いが、体から大量に汗が出ている気もする。めまいと頭痛が止まらない。ぼくは鼻水をすすって、そのまま歩道へ鼻息を飛ばした。雨が強すぎて鼻水は雨に包まれ、歩道に溜まった水たまりに着水したのかもわからなかった。

 ぼくの中を過ぎる時間は止まってしまった。社会の中で、仕事も家族も持たず一人きりの自分は何物も動かさず、何物にも動かされない。ぼくは天頂部まで失意に浸り外界から閉ざされた孤独の空間でただ居るだけ。そこで過ごしたり、生きたりはできなかった。時間が止まってしまった以上、頭痛と目まいと無気力感に縛られ、さらにこの場に押し止められてしまう。

 顔を上げてみると、手をついた壁の少し奥に横道があった。ぼくは壁を支えにしながらなんとか横道の入り口に向かった。横道は真っ暗闇で、これまた先があるのか、すぐに行き止まりがあるのかわからなかった。背後の街灯に照らされた自分の影が横道に向かってスッと伸びている。影は雨に打たれてその輪郭が常に一定にならない。

 壁に手を添えながら横道を進むと一人の人間が立っているのを見つけた。真っ暗闇の中でツバ付き帽を被っているので顔が見えない。中肉中背だが、相当な年寄りだとわかる。それは夏なのに、この大雨を弾く毛皮のコートを着ているからだろうか。それが毛玉だらけだし、妙にかび臭いように見えるからだろうか。ぼくは人間に歩み寄り、その顔を見ようとした。

 顔が見えるか見えないかの位置まで来ると、人間が両手をぼくに差し出しているのに気づいた。両手の拳は握られている。人間は帽子のツバに顔を隠しながらぼくの顔を見て、そして両方の拳を同時に開き、中に握っていたものを見せてきた。カプセル剤だった。右手には黒色、左手には白色のそれが裸のまま手のひらに置かれていた。ぼくはわけが分からず、じっと左右の薬を交互に見ていた。ふと気づいたが、薬には雨が降りかかっていないような気がした。それはすなわち、宇宙線も届いていない。急に人間が話しかけてきた。その声は男か女かわからなかったが、やはり弱々しくしわがれていた。よくぼくは聞き取ることができた。それはまるで生体チップが音声を介さずに耳骨を直接振動させているかのように、小音だがクリアに聞き取ることができた。

「黒はお前を変えない。白はお前を変える」

ぼくは意味がわからず、聞き返した。

「え、どういうこと!?」

自分が想像していた以上にぼくは大声で叫んでいた。それでも、人間は変わらずか細い声で同じ返答をした。

「黒はお前を変えない。白はお前を変える」

今すぐ元来た道を振り返り、大通りに戻って誰かに助けを求めたい気持ちもあった。だがそれ以上に、この薬のどちらかを今すぐに飲まなければいけない気がした。それはもはや自分の意志などではなく、そう命じられていること、そう記録され、伝搬され、残ってゆく事実であるに違いないと思った。ぼくはもう一度、黒と白のカプセル剤をよく見た。そして、人間の左手に握られていたカプセルを取り上げた。ぼくは落として割れて、取り返しがつかないことが起こらないように慎重に指でつまんだ薬を目の前に持ってきた。真っ暗な横道にひとつのマッチが灯ったかのようにその白色は明るかった。ぼくはその薬を目で追いながら、口に運び、それをそのまま飲み込んだ。人間はいった。

「白はお前を変える」

そして、人間はぼくの方へ顔を向けたまま後ずさりするように横道の奥へ消えていった。

 ぼくの頭痛はいよいよひどくなった。頭の中が爆発でもしているかのようだ。ぼくは髪の毛を両手で鷲掴みにし、痛みに耐えられず叫びながら、そのまま横道を戻って通りにでた。動機が激しくなる。目が開かない。たまに開いたと思っても何も見えない。頭を抱える指に力を込めたせいで、足がさらにふらつく。雨は針のようにぼくを突き刺し、肌に触れた箇所がじんじんと痛む。

 もうすべてを諦めようかと思ったとき、ぼくは自分の家の前に立っていた。なんとか部屋の扉を開け、キッチンを通り過ぎ、ソファへ向かった。そのままそこへバタンと倒れて、ぼくは気を失くした。


 翌朝、目が覚めるとたちまち不思議な感覚に包まれた。昨日からの頭痛とめまいに加えて、吐き気が加わっていた。頭を置いていたソファに目をやると赤褐色の染みができていた。どうやら寝ている間に鼻血を垂らしたらしい。ぼくは苦痛の中上半身を持ち上げた。全身が筋肉痛、そして関節痛のようだが、そこまで億劫ではない。辛さの中に、なにかエナジーのようなものが垣間見える。それはまるで身体は悲鳴を上げているのに、それを鼓舞する精神があるかのように。さらにそれは、水をかけられてもなお燻る炎のように。また空気が循環され、薪木が添えられるのを待っているようだ。ぼくは正体のわからないその火の子にすがり、立ち上がった。

 ペンティが話しかけてきた。

「おはようございます。昨日は寝るのが遅かったようですね。今日は冷蔵庫に卵が入っていますから、スープなどはいかがでしょうか?」

ぼくはそのアドバイスを無視した。しまった、宇宙線が到来したのだからペンティの電源を切らなければいけなかった。今からでも電源を切るべきかもしれない。だが、電源の切り方がわからない。ぼくは生体チップのマニュアルやら、通帳やら、物置の鍵やら、色々な大事なものをしまってある棚に向かおうとした。

 足を進めると、靴下にまた濡れた感触があった。部屋の床には、水たまりが玄関まで続いていた。昨日着替えずに寝てしまったことを思い出し、後悔した。寝間着もソファもまだ幾分湿っており、強烈なにおいを放っていた。マニュアルの前にシャワーだ。その方が頭も幾分かさっぱりして、マニュアルの内容が入ってくるかもしれない。ぼくは急いで服を脱いだ。脱いだ服を洗濯機に入れながら、建設的な思考ができていることに驚いていた。頭はまだ割れるように痛いのに、なぜだかしっかりと考えることができた。それは決して気持ちの良い状態ではなく、気を抜いたらそのまま吐いてしまいそうなくらいに調整力を要した。

 シャワーを浴びながら鼻をこすると、足元に赤い流れができた。なんの感覚もなく鼻血が出ていた。上を向いたり、鼻をつまんだりして、なんとか鼻血を止めようと思ったが、結局は無駄骨に終わり、シャワーから出ることにした。タオルを真っ赤に染めながら体中の水と血とを拭き取っていると、また不思議な感覚に気づいた。体中が軽い。さっきまでの全身の関節痛はおろか、昨日から耐え難いほどに続いていた頭痛がピタリと止んでいた。ぼくはタオルを水洗いして、昨日から溜まっている洗濯物を片付けようかと思ったが、今度は逆に、どうにも気力がでない。カンカンと真っ赤に照る薪木に水が吹きかけられ、勢いよく燃えることを押し止められているようだ。洗面台でタオルを洗うのはまだしも、洗濯機に向かっていくつかのボタンを押すのもままならない。なぜか無性にため息を連発してしまった。

 裸のままソファに寝転がる。洗濯も、床に滴っている水拭きも、生体チップの操作も終えてない。でももう少し休んでから始めたって今日くらい良いじゃないか。ソファは未だに湿っていたが、ぼくは気にせず、目を閉じてそのまままた一日眠りこけてしまった。

 翌日は全身が痒くてたまらず目を覚ました。目をこすりながら体を見ると、全身に赤い斑点が出ていた。痒くて痒くて苛ついたのでガリガリガリガリかいていると、線上の赤い引っかき傷が幾本も浮き出て、そこからにじみ出るように血が出てきた。そういえば気分はなんともいえない。何か物足りなく、何かを欲している。ぼくはなんとなく、右腕を引っ掻いて出てきた血に口を近づけ、それを吸ってみた。血は血の味がした。肌に表出していた血は既に吸いきったであろうに、ずっと肌を吸い続ける。口を離してみると、右腕には口の位置そのままのアザができていた。そうだ、ペンティ。ぼくはペンティに話しかけられる前に、おはようと挨拶した。ペンティは応じた。

「おはようございます。今日はよく眠れたようですね。ふむ、しかし、ややレム睡眠が多かったようです。今日は冷蔵庫に卵が入っていますから、目玉焼きにしてウスターソースをかけて食べるなどいかがでしょうか?」

 ぼくはペンティの話を聞きながら気づいた。無性に人恋しい。ペンティともっと話をしたいし、もっといえば目と目を見つめ合って向かい合いたいし、抱きしめられたく、抱きしめたい。今日はそんな気分だった。ぼくは今度は左腕を出して、こっちは別に血など出ていなかったのに、またチューチューと吸い始めた。こんなに寂しくては、ペンティの電源をオフになどできない。ぼくは少し前に人恋しいときに連絡をとった相手の存在をなるべく考えないようにしながらペンティに話しかけた。

「今日のニュースを教えてよ」

ペンティは待ってましたと言わんばかりに饒舌に答えた。

「政府は非常事態宣言を発令しまして。なんでも昨日観測された宇宙線量は想定の1.3倍もあったらしいですよ。まずあらゆる労働機関と学校、それに家庭に対して外出自粛を求めております」

「そうなのか、町の様子はどうなんだろう」

「ああ、誰もおりません。ソファの後ろの窓から覗いてみては?」

「うーん、町の様子なんかをデバイスに送ってくれないか」

「では、公共放送の基地ビルから撮影している中継ビデオを、はい、送信しました。……見ないので?」

「ああ、まだいいんだ。そうか、そうしたらみんな買い物にも行けないな」

「買い物に行ったところで、お店がやっておりません。事前の予行演習通り、最低限の食べ物や日用品などを通販で買うように通達が出ています。ドローン宅配でございます。皆様、来たるこの日のためにある程度の整えはしてきましたから、インフラや農業酪農なんかもこの期間は無人で乗り越えられるそうです」

「そううまくいったらいいがなー。その無人の農業ってどうやってんのさ」

ぼくはこうして、ペンティに常に話しかけながら、この日もソファから動くことができなかった。

 次の日目を覚ますと、昨日の体中の無数の引っかき傷はカサブタになっていた。ぼくがポリポリそれを剥がしていると、少しの取っ掛かりで左手人差し指の爪が割れてしまった。面白いことに何も痛みを感じないが、生々しいその見た目をずっと見ている気にはなれなかった。ペンティはまた言った。

「おはようございます。昨日はいっぱい話せて、ええ、楽しかったです。今日は冷蔵庫に卵が入っていますから、スクランブルエッグにしてベーコンと一緒に食べのはいかがでしょうか?」

 ふと何か目の端を横切るものを感じた。コバエか。ソファの背中側にある出窓はカーテンと合わせて完全に閉まっている。どこから入ってきたのだろう。コバエを目で追おうと頭を振ってみる。コバエはどこにも見つからない。部屋のどこかへ飛んでいってしまったのだろう。ぼくはそのままソファに横になりながら、今度は足にもできたカサブタをかいている。

 また視界の端で何かが動いた。しかも、今度のそれは大きい気がした。まさか、鳥か。また部屋の中を見渡すも何もいない。鳥ほど大きければ見つからないはずはなかった。気のせいか、否、幻覚だ。不思議なことに、それが幻覚だと意識しても脳の反射的な認識というものは変えようがなかった。しかも意識すればするほどに、それはぼくの上に覆いかぶさってきた。

 コバエやら鳥やらが本当にいないか頭を振って確認していると、なんだか床板の上にもぞもぞ動くものがいる。大量のミミズが木目の上をのたうち回っている。ぼくはとっさに床下から素足を離してソファに登った。どこからかセミの鳴き声がしてくる。セミだけじゃない。コオロギもいるし、マツムシもいる。それにギーギーとトノサマカエルの喉笛も聞こえてきた。ぼくは目を閉じて、耳を両手で覆って、ソファの上でそのまま丸くなった。それでもぼくの周囲に活気あふれる生物が散乱し、しかもそれはぼくの方に徐々に徐々に近づいてくる気がした。

 加えて、最悪なことにソファも動き始めた。はじめ、誰かがソファの下に潜り込んで、その張り生地を爪で引っ掻いているように、ぼくのお尻に突起物が何回もあたっていた。しかし、次第にそれはさらに小ギザミで俊敏でか細いものになった。まるで、ソファの下をハツカネズミが大行進しているように。ぼくはもうどうにも気持ち悪くなり、目を開けてソファから飛び退いた。ただ、急に立ち上がったせいで体が言うことを聞かず、ミミズの這い回る床に裸のまま仰向けに倒れ込んでしまった。

 ついに部屋の中の生物たちすべてが大合唱を始めてしまった。耳をつんざくように高音から低音まで、左右の耳から入った振動が脳そのものを震えさせた。視界にいるあらゆる生き物たちがぼくを中心にして、集まってきた。味方だと思っていたソファまでが、今度はひとりでに立ち上がり、ぼくに向かって大きな口を広げながら大笑いしていた。ぼくはさっきまで耳を塞いでいた両手を今度は目に当てようと顔の前に持ってきた。その両の手のひらには、ぼくの顔が浮かび上がっていた。手の皮膚を突き破って出ている両目、鼻、口。そのすべての空洞が可能な限りに広がり、ぼくに向かって馬鹿笑いをしている。その手のひらに向かって肘から手首にかけて、昨日の引っかき傷ではなく、大雨と宇宙線が立ち上っていた。ぼくはそのまま気を失ってしまった。

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