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2. 承

 雨がごうごうと降る中でぼくは林檎を1口かじってみた。どうにも水っぽいので、それをそのまま手にして家に帰ってきた。玄関を入ってすぐのキッチンには果物入れとして使っていた鉄容器が置かれている。あいつと近場の朝市に出向いて買ってきたインテリアを兼ねた食器だが、もう使わなくなってどれくらい経っただろうか。その朝市にすら、その1回こっきりでしか行ったことがなかった。ぼくはかじりかけの林檎をその鉄容器に放り入れた。林檎はゴンと鉢の奥にあたって半周に満たないくらいくるりと周り、鉢の底で静止した。

 ぼくは雨に濡れた服などを洗濯機に突っ込み、全裸から下着だけを履き替えて、テレビをつけた。テレビ画面の四方に警告色のテロップが表示され、何か緊急事態があったことを知らせている。ぼくは雨に濡れた髪も眼鏡も拭かないまま下着姿でソファに腰かけた。

「…臨時ニュースが来ました。先程、16時頃、首都近郊にあります天体観測所で、基準を超える宇宙線量が初めて確認されました。この影響により生体チップ、情報機器、交通網等への影響が予想されます。政府からは、不要不急の外出は控え、ご自宅にて過ごすよう協力要請が発令されています。繰り返しお伝えします。基準値を超える宇宙線量が確認されました。これは、太陽活動の活性と、銀河系外からの宇宙放射線の飛来のタイミングが重なったことにより発生しています。現在、政府からは、」

 ついに来たのか。この数ヶ月ほどニュースからは、これに関係する情報しか流れない。ぼくにはどうも詳しくはわからないが、どうやら史上最大量の宇宙線なるものが地球に降り注ぐらしい。地球に存在するあらゆる国家の宇宙研究開発機関と、大学、天体観測所が、半年ほど前にその予想をたてた。各国の政府が報告を受け、この半年間でできる限りの対策やら準備やらを実施していたらしい。各国民に告げられたのが数ヶ月前、メディアは揃ってその来たる危険性を訴え始めた。通信、物流などに留まらず、工業、インフラ、医療といった産業が停止する可能性があるという。屋外にいれば生命活動の危機さえあり得る。

 それから世界は大混乱に陥った。人々はより利己的に動くようになった。政府は自国で産出できるエネルギー源を囲い込み、エネルギーを輸出に頼っていた国々ではそのインフレが加速した。同じように製造業に携わる企業では、原料や生産物の輸出を控えるとともに、次第に第一次産業が優先されるべきだとの国民意思を反映して、第二次、第三次産業は消極的な活動しかできなくなった。飢餓や疫病、人々による略奪などを危惧する声が高まるに加えて、世界は原始時代に舞い戻るのではないかと論じる回帰主義者も登場した。この数ヶ月で飲料、食料、日用品の買い占めが横行し、中には親族ひっくるめて地方の田舎へ引っ越すものや、地下に設けた核シェルターに閉じこもる人々もいるそうだ。

 社会インフラと同じくらい危惧されたのが、生体チップの停止だった。先進国では、子どもたちの義務教育の開始頃から脊髄に生体チップを挿入するようになっていた。これにより心拍や血圧などの健康情報や、個人識別情報、位置情報を個人が管理できるようになった。今ではすべての産業が生体チップありきで設計されているため、この停止はすなわち個人と関わる産業の停止を意味していた。日用品を買いに出かけても個人が認識されないため支払いを完了することができない、行政機関の施設に入ることもできない。人間の体内で生体チップが停止しても一先ず問題はないように開発されたデバイスではあるが、果たしてその状態で人間は生体チップ頼りの文明社会で生活することができるのか、と議論は盛り上がった。

 人々は焦燥感と世紀末感にさいなまれながら何も準備や覚悟ができず、ついに審判の日を迎えてしまった。世界はこれから誰も予想することのできない様へと変貌してしまうのかもしれない。


 ぼくが寝間着に着替えてソファで横になっていると、脊髄の生体チップが話しかけてきた。

「空腹じゃないですか!?体温も下がっていますよ。雨に濡れすぎましたかね。ほら、ボディバッテリーが10%をとうに下回っています。さ、何かご飯を食べましょう」

骨伝導を通してぼくの耳にだけ聞こえる音声で、生体チップのパーソナリティのペンティが言ってきた。確かに疲れ切っている。ぼくは横になって目を閉じたまま声に出した。

「ご飯を食べる元気もない」

ソファからは汗のにおいがする。それに外の湿気とぼくの汗を吸って寝心地が良いとは決して言えない。ぼくの家の窓際に置かれたソファ。職場に通うために引っ越してきたときに買ったソファだ。もう5年くらい使っているのか。ぼくはもう少し張りの強いソファが良かったのだが、元恋人がこれにしようと言った。

 ぼくの家は玄関を入ってすぐに廊下がある。廊下沿いにキッチンと洗濯機があり、その裏手にトイレとシャワーがある。その廊下を抜けた先に2人でならなんとか暮らせるような寝室兼、リビングがある。当時のリビングには2人分のベッドや衣類や、2人で買った小物が所狭しとあって、大きな買い物をして帰ってこようものなら足の踏み場もなかった。それが今となっては、衣装タンスには余裕があり、2つのベッドもあいつが家を出ていく際に片付けてしまった。茶色の革張りの柔らかすぎるソファが、この部屋に初めからある唯一の家具になった。

 ペンティが聞いてきた。

「それではもう寝ますか?部屋の電気を暗くしましょう?」

「いや、大丈夫」

目を閉じてまぶたの裏に見えるオレンジ色が心地よかった。それに部屋の電気を消すと、真っ暗闇がそのまま永遠に続きそうで怖かった。

「そうですか、それでは私はお暇しましょう」

 しばらくウトウトしていたようだった。通信が入ったと脊髄の生体チップが言い、ぼくは目を開けた。既に別れた元恋人からだった。ぼくはすぐ読むのを躊躇って一旦放置しようと思ったが、だがあいつからメッセージが届いたという誘惑に耐えきれず、内容だけ読もうと、ペンティに読み上げを頼んだ。

「元気?宇宙線がついに来ちゃったみたいだね。なんだか怖いね。私、今から人工チップ取り外すの。だからこれが最後のメッセージになっちゃうけど、お手紙は送るね。友達だからご飯食べに行こうね。宇宙線に汚染されないシェルター産の野菜や魚を使ったレストランを教えてもらったの。あなたと行ってみたいな。じゃあまたね」

ぼくはどうしようもない無気力感に襲われた。もうあの人は完全に離れていってしまった。あの人はとても思いやりがあり、物事をよく知っていて賢く、協調性に優れた人だった。ぼくはそのすべてが好きで、本当にあの人がぼくの世界だった。

 ただ、ぼくの元恋人にとっては、ぼくはその世界の住人ではなくなってしまったようだ。宇宙線の飛来が増大するというニュースが叫ばれるにつれ、あいつはインターネットの世界で情報収集を盛んに行った。最初のうちは、自身やぼく、そして家族を心配して、まずは来たる宇宙線について正確に理解しようとしていたのだろう。だが、気づいたらあいつは、原始時代への回帰主義者の考えに惹かれていた。彼らは宇宙線はおろか、高度に発展した文明社会を毛嫌いし、特に生体チップを目の敵にしていた。無機質なニュアンスを込めてそれを無機人工チップと呼ぶ。機械を生体に取り込んだ人間を生命への冒涜と捉え、生体チップを体外に除外することを推奨すべしと叫ぶ。

 既に生体チップは、初期モデルが実用化されてから半世紀以上が経過している。成人してからチップを埋め込んだ第1世代が徐々にその生涯を終えているが、大きな致命的な問題は何も見られていなかった。稼働中の生体チップ自体は、宇宙線の影響を直接的に受けることが予想されているが、その場合チップの電源をオフにすれば問題ないことがここ半年の数多の研究でわかってきている。生体チップそれ自体は電源オンオフの切り替えによって外部通信を受けるかどうか設定できるからだ。

 あいつがなぜ回帰主義に心酔したのか、その過程は今となってはわからないし、もう知りたくもなかった。あの人はもう戻ってこないのだ。ぼくの中では回帰主義者であろうと、対局にいる生体チップのヘビーユーザーであろうと、その個人の思考にそこまで興味はなかった。さらに言うと、回帰主義者という言葉自体あまり好きではない。あえてカテゴライズして、何かの標的にしているようで悪知恵のニオイが醸っている。あいつが離れてしまったと感じるのは、あいつの世界からぼくがどんどん薄くなっている気がするからだ。当時は、あいつが仕事をしているときや、一人で私生活を送っているときにもどこか頭の片隅でぼくを思ってくれているを感じていたし、あいつもその状態に満足していたはずだ。それが次第に頭のさらに片隅に追いやられ、否、片隅に確かに存在していたぼくが薄く薄く消えかかっていったのだ。あいつの頭の中には、宇宙線と人工チップと、古き良き地球での暮らしを達成することが支配的になっている。ぼくがどんなにあいつを喜ばせ、楽しませ、あるいは、あいつの興味ある回帰的生活に同意しても、あいつの中のぼくはもはや消しゴムの最後の一振りで消えてしまう欠片だった。ぼくはそれが悔しかった。

 あいつへの返信メッセージを送る気力などとうに出ず、ぼくはなんだか目がチカチカしてきた。ソファに横になったまま目頭を抑えつけるも、その違和感は眉間を通って頭痛に変わった。目頭を右手で抑えている気もするが、指が離れてしまっている気もする。指先の感覚がわからなくなってしまった。家の外で振り続ける雨の音が次第に大きくなる。バラバラバラバラ。ふと体が揺れた気がして地震が起こったのかと思った。ぼくは目も開けられず、横になったまま静観した。それは地震ではなく、ぼくの心臓の鼓動だと気づいた。鼓動が速いものの、その心拍が激しいわけではないのに、胸が大きく上下に動いているように思える。心臓から送られた血液は、ぼくの腕を通って指先に温かなエネルギーを送っているはずだが、指先には何も感じられなかった。目をつむっているせいか、体の様子がよく伝わってくる。

 気づいたら全身がびっしょりと濡れていた。汗をかいたのかと初め思ったが、それにしては冷たいし、あまりにも濡れすぎている。気づけば心臓の鼓動音と、雨の音しか聞こえない。ぼくは感覚のない右手指先を離して、目を開けた。ぼくは雨の降りしきる町中に、寝間着姿のまま突っ立っていた。

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