表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

1. 起

 2年勤めた会社が経営破綻で潰れ仕事が無くなり、その後すぐに6年付き合った恋人から別れを告げられたのが、3週間前だった。ぼくは川辺に2時間ほど座っている。目前の川は、幅10mほどで、大きくもなく小さくもない。傾斜のない水平な川は、ゆっくりと、期待よりもさらにゆっくりと、ありがたいことに流れている。整理された川辺からは岩や枯れ木が飛び出さず、何も障害のない水流はただ自身の動きにつられて波目を作る。波目には、今にも雨が降り出しそうな雲模様が映り込み、遠目からは黒色とも青色とも見え、数色で織りなされたモザイクは刻々とその表面色だけを変えていた。

 川の対岸に見える雲は、まるで落っこちてくる空を抱えるベールのように身狭であり、すべてを抱え込む力強さを感じさせた。しばらく見ていると雲は川の流れとは反対方向に動いているようで、雲と川を見ているぼくは、2層に挟まれて時間が止まってしまっている気になった。これまたありがたいことに、天頂の雲は何層にも重なった暗灰色をしており、それはどこか温かみのある暗色だった。

 そういえばもうすぐ夏が来る。初夏の温かい風が吹いているのだ。つい先日までキンとした空気を感じていただけに、この風に吹かれるとなんだかこそばゆい気持ちになる。ぼくは夏の湿気を含む風が好きではないが、数百日ぶりの今日の風はどこか愛おしい。優しくズボンの裾をなびかせ、あるいはシャツの半袖口から入り込み、胸元をゆっくりと膨らませて、ぼくをなだめてくれているのか。変に情を投げかけられた気がして、ぼくは顔をうつむけ、両腕を抱え込んだ。この2時間、ぼくの後ろの川べりを人々が通り過ぎていく。ぼくが伏せていると、通行する人間の足音は、まるで意識しなければ気づけないリズムベースのようにぼくの耳を右から左へ、あるいは、左から右へ抜けていった。

 ぼくの背後は人間が通過していくし、初夏の風がぼくをなでていくし、川と雲がぼくをこの場に押し留めていた。それからさらにどれくらい経ったのだろうか。雲は次第に暗さを増していた。川べりにおそらく長い時間止められている1艘の釣り船が、風になびかれてガタンガタン音をたてて揺れている。その船体の一部は穴が開いたのか、繊維強化プラスチックで上から補修されている。

 右頬が濡れた感触に気づいた。指で触って指の平を眺めてみたが、あまりの少量の水滴で拭われてしまったか、あるいはぼくの勘違いなのか、特に何も見えなかった。ぼくは天を仰いでみた。真上の雲に色濃く映る影から、そのベールは今にも重みに耐えかねて、中身をすべてぼくの頭へぶちまけてしまいそうだ。そうしてくれたらどんなに良いだろうか。その中身が何であれ、ぼくの頭上の物体がのしかかってきたら、ぼくはぺしゃんこに圧迫され、あっと叫ぶまもなく伸ばされてしまう。その窮屈さがもしかしたら気持ち良いのかもしれない。世界は広すぎて速すぎて、両の手を伸ばしても触れることができないから、かえって焦りを感じてしまう。息苦しい。

 眼鏡の上にさらに小粒の水が落ちた。雨か。ぼくは眼鏡の水滴を拭こうと眼鏡に手を伸ばしたが、レンズにさらに3つ4つの雨粒が付いた。出し惜しみせずに一気にきてほしいものだ。めんどうくさくなって、眼鏡のレンズを拭かずそのままに、また川面に視線を戻すと、さっきまでのモザイクにはいくつもの波紋が発生しては消えていた。ぼくの体が感じる以上に、川は雨を感じているように見える。いずれの波紋もその広がりは同程度で、天から垂直落下する粒サイズは同じ程度なことがわかる。どの粒も同じなのに、落下地点だけが異なる。川表面A地点もあれば、川表面B地点もある、あるいはぼくの眼鏡レンズの表面A地点、B地点だ。ベールから溢れる場所、そして風に流される程度によって、川の水流に合流できるか、あるいはレンズ表面を滑る運命になるのか決まるなんて。何者が決めているのだろうか。

 そんなことを考えていて、気づけば全身がぐっしょり濡れていた。雨は本降りになっていた。背後を行き交う人々は皆傘をさしているようで、雨粒が張られたポリエステルに当たる音が聞こえる。もはや雲の位置を確かめようにも水滴だらけのレンズを通してでは何も見えないし、温かな風を感じようにも服は一切なびかなかった。

 家に戻ろうと立ち上がると、腹の上の服に溜まっていた水がざっと流れ落ちた。ゆっくり振り返ると、土手を通行するひとりの人間が見えた。片手に傘をさし、もう片手に重そうな買い物袋を握っている老人だ。傘を持ち替えようとすると、袋から数個の果物が落ちて、それはそのままぼくの足元まで転がってきた。ぼくは眼鏡越しによく見えないながらも、落ちた果物すべてを拾い上げ、人間の買い物袋に戻してやった。人間は言った。

「ありがとう、助かったわ。これほら、1個持って帰りなさい」

返事する間もなく、ぼくの片手には林檎が1つ握られていて、人間は既に立ち去っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ