散りしのちの花吹雪
二〇四四年が幕を開けてから十日が過ぎた。
その日は土曜日で、朝からどんより曇り、今にも雨か雪が降ってきそうな空模様だった。真由香は娘と朝食を済ませ、リビングで一緒にテレビの子供番組を見ていた。と、そこへメイドの一人が来客を告げに来た。
「えっ┅┅鹿島さんの知り合い?すぐにお通しして┅┅」
真由香は急に動悸が激しくなり、あたふたし始める。
「優衣、お母さん、お客様が来たから、隣の部屋に行くから、ここでテレビを見ていてね。何か用事があったら、咲恵さんにお願いするのよ」
「うん、わかった」
娘の髪を撫でた後、真由香はオーディションを受ける少女のような気分で応接室へ向かった。
豪邸の応接室に通された飯田礼奈も、周りの豪華な家具や美術品を見回しながら、真由香と同じ緊張感を味わっていた。聞けば、この豪邸の今の主人は一八歳のとき、元の持ち主の男と結婚し、夫が昨年死んでからは一人娘と五人の使用人と一緒に暮らしているという。まさに絵に描いたようなシンデレラ物語の主人公だ。
部屋の横のドアが静かに開き、シンプルな白のカシミアのセーターにツイードのゆったりとしたスカートを穿いた若い女が現れた。一見この豪邸にはそぐわない質素な身なりに見えたが、それがいかにも彼女にふさわしいと、礼奈は感じた。
「ようこそいらっしゃいました。小野真由香です」
「初めまして。飯田礼奈と申します」
礼奈は改めて目の前にいる年下の同性を見ながら、胸が締め付けられるような感覚を覚えていた。先祖にヨーロッパ系の血が入っているのだろうか。化粧っ気はほとんど無いのに、透き通るような白い肌、小さな細い顔に通った鼻筋、長い睫毛に縁取られた大きな愛らしい目、小柄だがすらりとした細身で均整の取れた体つき、すべてが丹精込めて造られた人形を思わせた。
(ああ、こりゃ勝負になんないわ┅┅いや、でも、相手は非処女、子持ち。こっちは正真正銘未婚の処女だ、負けるな、礼奈!)
「あの┅┅どうぞこちらへ┅┅」
「あ、ええ、どうも┅┅失礼します」
出鼻をくじかれて、無理に笑みを浮かべながら礼奈はソファに座った。
「あの┅┅飯田さんは、その┅┅か、鹿島さんとお知り合いとか┅┅ええっと、どんなご関係┅┅あ、いえ┅┅どんなお知り合いですか?」
(おっ┅┅向こうもかなり動揺してるみたいね┅┅関係を知りたい、そりゃそうだよねえ)
「ああ、ええっと┅┅わたし、実は占い師なんです」
「う、占い師?」
礼奈はとっさの思いつきに従うことにした。最初は正直に、鹿島の部下で心理学を専門にしていると自己紹介するつもりだった。しかし、相手の警戒を解き、本音を引き出すには、心理学より占いの方が良いだろうという判断だった。
「はい。心理学をベースにした、科学的な占いをキャッチフレーズにしています┅┅」
優士郎と占い、まるで正反対のものだと真由香は思った。多少夢見がちなところはあるが、当時の彼は、あくまでも論理的かつ科学的な思考をする人だった。
「┅┅鹿島さんとは、何でも話せる気の置けない友人といったところです」
「┅┅そうですか。それで、今日はどんなご用でしょうか?」
真由香の目に一瞬浮かんだ嫉妬の色を、礼奈は見逃さなかった。
「ええ、実は最近、彼が元気が無いような気がして┅┅でも、それを正直に誰かに明かして甘えるような人ではありませんので、得意の占いを使って、彼の悩みを聞き出そうと思ったんです┅┅」
真由香はごくりと息を飲んで、思わず身を乗り出すようにして頷いた。
(おお、すごい食いつきだね。まだそんなに彼のことが気になるんだ┅┅)
礼奈は胸に小さな痛みを感じながらも続けた。
「┅┅そうしたら、彼の悩みの原因が、過去の出来事に起因していることが分かりました┅┅」
真由香は再び息を飲み込んで、高鳴る心臓の音を隠すように両手で押さえた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
緊迫した空気を破るような声がして、メイドがドアを開き、二人のそばへ紅茶とケーキを持って近づいてきた。
「ありがとう。飯田さん、紅茶でよろしかったですか?」
「ええ、ありがとうございます。んん、良い香り┅┅アールグレイですね?」
(鹿島先輩の好きな紅茶か┅┅泣かせるわね)
礼奈は一口紅茶をすすって、ふうっと小さく息を吐いた。
「そういえば┅┅つかぬ事をお聞きしますが、先ほどあなたは、ご自分の名前を旧姓で名乗られましたね。今は、確か紫門さんですよね?なぜ、旧姓で┅┅」
真由香は目を伏せて小さく頷いた。そして、再び強い意志をたたえた目を上げて、礼奈を見つめた。
「飯田さん、ここへ来られたということは、わたしと鹿島さん、いいえ、優士郎との過去の関係を、ある程度彼からお聞きになっていると判断していいのでしょうか?」
(うん、なかなか頭の良い子だね┅┅優士郎と言い直すことで、いい加減なことを言ったら許さないとわたしに刃を向け、同時に自分への覚悟も示したんだね)
礼奈は微笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ┅┅大まかにですが、あなたと鹿島さんが別れたいきさつ辺りを中心に┅┅」
「そうですか┅┅じゃあ、わたしと紫門龍仁が交わした約束のことも┅┅」
「はい、知っています」
「さっきのご質問への答えは、その約束の期限が切れたということですわ。今はまだ戸籍上は、紫門真由香ですが、近いうちに旧姓に戻す手続きをして、この家も、財産もすべて処分して、母と娘と三人で暮らすつもりです」
覚悟を感じてはいたものの、目の前のまだ二十歳を過ぎたばかりの未亡人の覚悟は、礼奈の想像の上をいっていた。
「そうでしたか┅┅理由は分かりました。ただ、ちょっと意地悪なことを言いますが、もし、ご主人が生きておられたら、できなかったでしょうね?」
真由香にとって、最も弱い部分だと知った上で、礼奈はあえてその問いをぶつけた。ところが、相手の答えは、また礼奈を驚かせた。
「ええ、確かに紫門は許さなかったでしょう。だから、黙って家を出て行く覚悟でしたわ。無理矢理連れ戻しに来たら、死ぬつもりでした。でも、その約束の日、一月十八日の一ヶ月前に、あの人は死んだのです」
「娘さんを置いて死ぬつもりだったと?」
「ええ。娘には何の罪もありません。しばらくは悲しむでしょうが、まだ二歳です。わたしも小さい頃に父親を亡くしていますからわかるんです。ちゃんと、生きていってくれるはずです」
「それは、母親として無責任ではないですか?」
思わず口にした正論に、しかし、礼奈自身が何か浮ついた嫌悪感を感じていた。
真由香は微かに微笑んでいた。礼奈から見ると、ぞっと背筋が寒くなるような美しくも冷酷な微笑みだった。
「知ったことではありません┅┅あの男の娘ですから┅┅」
たかが恋、たかが恋人の男一人、そんなもの忘れて、この豪邸で何不自由なく一生暮らせば、彼女も娘も幸せなはずではないか。しかも、恋人の男は、もう彼女をあきらめてしまっているのだ。どう考えても、人生を捨ててしまうのはばかげている。
(常識的、現実的な人なら、当然そう考えるわね)
「娘さんを愛していないと┅┅」
「いいえ、もちろん愛しています。わたしがそばにいるかぎり、娘に悲しい思いはさせないし、立派に育てて見せますわ」
(一見、さっきの彼女の言葉と矛盾している。でも、それを矛盾させないもの┅┅たぶん、それが、今、彼女が求めているもの┅┅すべてのカギ┅┅)
「もう一杯、紅茶をもらえますか?」
「ああ、ごめんなさい、気づかなくて┅┅」
礼奈は核心に入る前に、心を落ち着かせた。
「真由香さん┅┅とお呼びしていいかしら?」
「はい。そう呼んで下さい」
礼奈は、相手の儚げな笑顔をうっとりと見つめながら、紅茶を口へ運んだ。
「真由香さん┅┅鹿島さんが今どんな仕事をされているか、ご存じですか?」
「はい┅┅彼のお母様から聞きました。警察官になったと┅┅それ以上のことは知りません」
「そう、彼は今、警視庁のとても神経を使う部署で働いているの┅┅ちょっとしたミスが命取りになるような┅┅だから、彼が悩んでいることが心配だった、仕事に影響しないかと。だから、今回は少し強引だったけど、脅迫したの。命が惜しかったら、すべてを話せって┅┅ふふ┅┅」
真由香は驚いた。優士郎が、そんなに危険と隣り合わせの仕事をしているということ。そして、この世に優士郎を脅迫できる人間がいるということも。
「そうしたら、彼が観念して、一通の手紙を見せてくれたの┅┅」
「あの┅┅それって┅┅」
「そう、あなたの手紙です。だから、わたしは、ここに来ることにしましたの。あなたの気持ちを確かめたかったから」
真由香は手紙を見られた恥ずかしさで赤くなったが、優士郎の命に関わることだと言われたら、恥ずかしいなどとは言っていられない。
「彼は┅┅何と?┅┅」
「ええ┅┅まあ、簡単に言うと、戸惑っています。彼としては、当時、あなたを強引に奪うことはできなかった。あなたの選択を、泣く泣く認めざるを得なかった。そこですべては終わってしまったのです。それなのに、三年後、あなたから会いたいという手紙が来た。しかも、あなたは今、結婚という制約から解放された立場┅┅しかし、娘がいる。正直、あなたが何を考えているのか、分からない、といったところかしら┅┅」
礼奈から、現在の優士郎の気持ちを聞かされて、真由香は予想通りだったので、わずかにほっとした気持ちになった。そして、再び自分の愚かさを思い出して自嘲気味に笑った。
「ふふ┅┅飯田さん、恋をしたことはありますか?」
それは、いきなりだと失礼な質問だったが、ここまで話した後ではむしろ自然な質問として礼奈は受け取った。
「もちろん┅┅片手では足りないくらいはありますが、┅本当に好きになったのは、やっぱり一人だけですね┅┅」
真由香は涙をぽろぽろ落としながら、それを拭おうともせず言葉を続けた。
「わたし、初めてだったんです┅┅中学生の頃から、言い寄ってくる男の人はたくさんいましたが、すぐに相手の嫌なところや下心が見えてきて、一週間以上付き合った人はいなかった┅┅だから、優士郎と出会って付き合い始めても、自然に警戒心が先に出てしまって┅┅
本当に好きになったのに、キスさえ┅┅ふ┅┅ふふ┅┅キスさえさせてあげなかった┅┅うう、う┅┅もったいぶって┅┅本当は怖くて┅┅わたしは┅┅本当は、自分からキスしたかったのに┅┅セックスも┅┅したかったのに┅┅彼は、そんなわたしを大事にしてくれて┅┅手を握るときも許しを求めて┅┅わたしは、なんだかそれで自分の価値が上がったような、いい気になって┅┅ほんと、馬鹿みたい┅┅ふふ、ふ┅┅生まれて初めて自分のすべてを捧げたい人に出会った女の子は、結局、与えたい物を与えられず、それでも愛してくれることに甘えて、それが永遠に続くと信じてしまった┅┅」
目の前にいるのは、まだ過去の闇の中から抜け出せず、むやみに何年も苦しみ続けている少女だった。ただ、人と時が彼女の中を通り過ぎていっただけだ。
(そりゃあ戸惑うよね┅┅彼は現在、彼女は過去の時間を生きているんだから。どちらかが相手の時間に合わせないと、話はすれ違うばかり┅┅)
「つらいことを話してくださって、ありがとう。もう一つ、つらいことを聞くけれど、いいかしら?」
真由香はようやく顔を上げ、ハンカチで涙を拭うと、しっかりと頷いた。
「あなたにとって、紫門龍仁との結婚、そして娘さんの出産は何だったの?」
礼奈の質問は、真由香にとって最大の負い目を抉り出し、同時に彼女を現実の時間に引き戻すためのものだった。
真由香は空間の一点を見つめたまま、しばらくの間じっと考えていた。何度か向き合い、いくつもの答えを導き出し、だが、いまだに納得できる答えを得られていない問題だった。
「┅┅ただし、自分の罪とか、若気の過ちとかいう答えはなしよ。彼のことは考えなくて良いの。自分のことだけ考えるの┅┅自分にとって何だったかを┅┅」
いつしか、礼奈は敬語をやめ、普段の言葉でしゃべっていた。しかし、その言葉が、ごく自然に、すーっと真由香の胸にしみこんでいった。
「┅┅病気┅┅ケガ┅┅入院が必要な┅┅そう、一定期間彼に会えないけど、必ず治るケガ┅┅自分ではそれくらいに考えていた┅┅たいしたことじゃないって┅┅」
その答えが独りよがりで子供っぽいものだということを、真由香は十分分かっていた。だから、答えを言った後、礼奈を見上げる彼女は、叱られた子犬のようだった。
しかし、礼奈は優しく微笑んで頷いた。
「そうなのよね┅┅あなたはそう考えたのよ┅┅紫門のことはどう思っていたの?」
「┅┅初めは憎かった┅┅憎くて殺したいって思った┅┅でも、だんだん、あの人がまるで小さな子供のようだって思えるようになって┅┅少しなら甘えさせてもいいかなって┅┅ほんと、今考えると、自分でもなんて馬鹿なんだろうと思います┅┅優士郎の気持ちを考えたら、わたしを憎むのが当たり前┅┅大事な┅┅処女まで┅┅あの男に与えて┅┅子供まで産んで┅┅」
礼奈があわてて止めようと口を開く前に、真由香は再び涙を溢れさせながら礼奈を見つめて続けた。
「┅┅だから┅┅だから、優士郎に殴って欲しいんです!┅┅ナイフで切り刻んで欲しい┅┅ううう┅┅殺して欲しい┅┅うう、う┅┅」
礼奈も思わず流れ落ちそうになる涙をこらえて、天井をしばらく見つめていた。
「でも┅┅彼が、絶対そうしないってことも┅┅分かっているのよね?┅┅」
顔を手で覆ってうめくように泣きながら、真由香は小さく二度頷いた。
「そっか┅┅結局、カギになるのは┅┅彼の┅┅」
礼奈はそうつぶやくと、立ち上がって向かいの真由香の側に歩み寄った。そして、まだ泣いている真由香の横に座って、優しく彼女の肩を抱いた。
「これは、わたしの個人的な考えなんだけど┅┅」
真由香はようやく涙を拭きながら顔を上げた。礼奈は言葉を続けた。
「┅┅人の愛の形は千差万別ってよく言われるけど┅┅タイプで分けると大きく二つに分かれるって思うの。一つは与えることで満たされる愛、もう一つは奪うことで満たされる愛┅┅人はその両方を持っているんだけど、人によってそのバランスが千差万別で、結果として、カップルの組み合わせ次第でいろいろな愛の形が生まれると、そう考えてる┅┅それでね、あなたたち二人の愛の形を考えてみると┅┅」
礼奈の楽しげな様子に、真由香も思わず引き込まれて注目する。
「┅┅あなたたちは、どちらも与えることで満たされる愛の比率が大きいのだと思う。そんな二人が出会って、お互いを好きになって┅┅初めのうち、恐がりなあなたは、与える気持ちはいっぱいあるのに、与えられなかった。でも、相手の鹿島さんは、奪うタイプじゃないので、あなたから愛をもらわなくても不満一つ言わず、逆にあなたに愛を与え続けた┅┅」
「はい┅┅はい┅┅その通りです┅┅」
「┅┅もう少し時間が、それときっかけがあれば、あなたもいっぱい彼に愛をあげられたのに┅┅その前に、奪う愛を持つ男が現れた。その男は金と力で、あなたたちを引き離し、三年間という期限付きであなたから愛を奪おうとした。あなたは、体を奪われたけれど、心の中の愛は決して奪われないと考え、それに耐える決意をした。でも、鹿島さんは、あなたの決意を知らず、すべてが終わったと考え、あなたのもとから去っていった┅┅これが五年前のいきさつ、で良いかしら?」
真由香は必死に涙をこらえながら頷いた。
「うーん┅┅一つ疑問なんだけど、どうして、あなたは鹿島さんに決意を伝えなかったの?」
真由香は悔しげに拳を握りしめながら、うつむいた。
「早く言わなくちゃって思っていたんです。でも、その前に、母の口から、わたしが紫門に抱かれたことが優士郎に知られたと分かって┅┅言えなくなって┅┅自分のような女より、もっとふさわしい相手を見つけた方が、彼のためだって┅┅」
「自分の心にウソをついたのね┅┅」
「ええ┅┅もうどうしようもなかった┅┅せめて、抱かれる前だったら、彼に理解してもらえたかもしれない┅┅彼を裏切ってしまった、その事実だけで、もう何も言えなくなった┅┅」
「ただのケガでは済ませられない、って、その時気づいたの?」
「ええ┅┅いいえ、違う┅┅その前から分かっていた┅┅男の人にとって、女が他の男に抱かれることは、その女を奪われることだって┅┅でも、わたしの考えは違うの┅┅男が女を抱くは、逆に考えたら、女が男を抱くでもいいじゃない。なぜ、男の側からの価値観ばかりが優先されるの?わたしの感覚では、紫門に約束を確実に守らせるために┅┅それに、少し可哀想だから、抱かれてやったくらいの感覚だった┅┅でも、それは優士郎には通じないって思った┅┅」
真由香もいつしか敬語を忘れ、自分の言葉で本音を語っていた。
「どうして通じないと思ったの?」
「えっ、それは┅┅」
真由香は答えに詰まった。〝それが、普通の男の人の感覚だから〟と答えようと思って、やめた。優士郎は普通の男などではないと思ったからだ。
「その時、あなたの決意を話したら、鹿島さんは受け入れてくれたかもしれない、受け入れなかったかもしれない┅┅それが一つ。もう一つは、鹿島さんの中の〝奪いたい愛〟をどれだけ引き出せるか、だけど┅┅」
真由香は話が見えず、首を傾げながら、立ち上がった礼奈を目で追いかける。
礼奈はソファの横をうろうろしながら、考え込んでいたが、やがて考えがまとまったのか、真由香の方を振り返った。
「┅┅確認したいのだけど、あなたは、鹿島さんに会って、もう一度愛してほしいと頼むつもりなのよね?」
いきなり単調直入に問われて、真由香は赤くなりながら首を横に振った。
「┅┅さっきも言ったけど、本当は、彼に殴って欲しい、殺したいなら殺して欲しい┅┅でも、彼は絶対そんなことしないから、とにかく、謝って、謝って┅┅彼の四年間の苦しみをどうにかして少しでも軽くしてあげたい┅┅また愛してもらいたいなんて、そんなことは望んではいけないこと┅┅ずっと、ずっと守ってきたあの人への愛を分かってもらえれば、それだけでいいの┅┅」
「うん┅┅それは、分かってくれると思うわ。じゃあ、彼が新しい恋を始めると言っても、あなたはそれを喜んで祝福するのね?」
「┅┅それは┅┅わたしがどうこう言えることじゃないから┅┅」
「そう┅┅じゃあ、わたし決めた!鹿島さんをわたしのものにする┅┅ふふ┅┅」
真由香はあっけにとられて、礼奈を見つめた。
「ああ、でも心配しないで┅┅あなたが、鹿島さんに会うまでは、何も手出しはしないから」
礼奈はにこやかにそう言うと、ぺこりと頭を下げた。
「お邪魔しました。美味しいアールグレイ、ごちそうさまでした」
茫然とした真由香を残して、礼奈はきびきびとした動作で部屋から出て行こうとしたが、ふと立ち止まって、バッグからパンフレットを取り出した。
「忘れるところだったわ。これ、鹿島さんに頼まれていたの、あなたに渡してくれって」
礼奈は、パンフレットを真由香に手渡すと、手を振りながら去って行った。
桜の舞う季節に
「やっぱり班長殿はメンクイだったぁ┅┅」
待ち合わせをしていた『ロゼ』で、先に来ていた優士郎の顔を見るなり、礼奈は開口一番、そう言った。
「いきなり、何事だ?」
「なんだ、礼奈ちゃん知らなかったのかい?優君は昔からメンクイでねえ」
他の客たちの笑い声や冷やかしの声を浴びながら、礼奈は意外にうれしそうな笑顔で、優士郎が座る一番奥のカウンター席の横に行って座った。
「飯田礼奈、任務を無事終えて帰還しました」
礼奈が敬礼をしながらそう言うと、優士郎もそれに合わせて敬礼を返す。
「ご苦労様┅┅それで、さっきのが報告ってやつか?」
「にひひ┅┅あれは感想というやつです。あ、マスター、モカお願い」
「はい┅┅少々お待ちを┅┅」
礼奈は片肘をついて、優士郎の方を見ながら意味ありげに微笑む。
「ほんと可愛かったなあ┅┅お人形さんみたいで。でも、頭も良くて、なかなか芯がしっかりした良い子で┅┅さすが、先輩が好きになった人だと思いました┅┅」
「そうか┅┅まともに言われると照れるもんだな┅┅」
礼奈は前を向いて、少し寂しげに小さなため息をつく。
「┅┅彼女の愛は、ホンモノです┅┅会ってやるべきです」
「そうか、分かった┅┅でも、たぶん僕の心は変わらないよ」
礼奈が何か言おうとしたとき、マスターがコーヒーを持ってきた。
「お待ちどおさま┅┅」
礼奈はマスターに礼を言って、コーヒーにミルクを少し注ぐ。
「彼女とどんな話をしたのか、聞かないんですか?」
「┅┅聞いてどうなるものでもないさ┅┅事実は決して変わらないし、時間も決して元には戻らない┅┅」
「そうですね┅┅じゃあ、やっぱり会わない方がいいかな┅┅」
「なぜだ?」
「だってえ┅┅彼女が諦めてくれたら、わたしにもチャンスが巡ってくるかもしれないしぃ┅┅にひひい┅┅って、冗談はさておき┅┅」
「┅┅冗談かよ┅┅」
礼奈はコーヒーを一口飲んで、ふうっと息を吐く。そして、少し上の方の空間を見つめながら、微笑みを浮かべた。
「┅┅班長殿、礼奈オリジナルのおとぎ話、聞いてもらえますか?┅┅」
「おとぎ話?┅┅ああ、いいけど┅┅」
礼奈は優士郎に向けて微笑むと、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「┅┅昔、ある森の中に若い夫婦が暮らしていました。暮らしは貧しかったのですが、二人は力を合わせて木を切り、畑を耕しながら幸せに暮らしていました。
ところが、あるとき夫が病気になり、日に日にやせ細っていきました。妻は何とか夫を助けたいと思い、必死に働いてお金をため、ようやく街のお医者さんに看てもらうことができました。でも、お医者さんは言いました。『この病気を直す方法は無い』。妻は、それでも諦めきれず、毎日神様に必死で祈り続けました。『自分はどうなってもかまわないから、夫を助けて下さい』と。
すると、ある夜、いつものようにお祈りをしていると、突然声が聞こえてきました。『彼の病気を治してあげようか?』妻が声のした方を見ると、そこには美しい男の姿をした悪魔が微笑んでいました。妻は、それが悪魔だとすぐに分かりましたが、藁にもすがる思いで悪魔に尋ねました。『どうすれば、夫を助けられるのか』。悪魔は言いました。『三年間、私と一緒にいてくれたら、すぐに治してあげるよ』。
妻は迷いましたが、夫の命が助かるのならと、ついに悪魔の申し出を承諾しました。悪魔は喜んで、すぐに夫の病気を治しました。実は、夫の病気は悪魔が呪いをかけていたものだったのです。妻はそれを知って悪魔を憎みましたが、既に契約は結ばれており、泣く泣く悪魔とともに夫の元を去ったのでした。
それから三年の月日が過ぎました。夫は、妻が自分を捨てて逃げたのだと思っていました。それでも、妻を忘れられず、縁談話も断って、森の中で暮らしていました。ある日、森の奥に入って、一本の大木の前まで来たとき、その大木の陰から若い娘が小さな女の子を抱いて現れました。夫は驚きました。それは三年前いなくなった妻だったのです。
妻は、夫が元気になったことを喜び、涙ながらにすべてのことを打ち明けました。
夫は、妻が自分のためにその身を犠牲にしたことを知り、また、悪魔の子供を産んだことも知りました。妻は夫に言いました。『三年間、悪魔にこの身を汚され、子を孕まされましたが、魂は決して渡しませんでした。あなたを愛する気持ちは三年前と変わりません』。 それに対して、夫はこう答えました。『お前を犠牲にしてまで、助かりたくはなかった。なぜ、三年前、一緒に死んでくれなかったのか。悪魔に体を汚されたお前など、見たくはなかった』。
妻はそれを聞くと、悲しげな顔で夫を見つめ、こう言いました。『たとえ手足を悪魔にちぎられても、魂さえ守れば、私は私でいられる。三年間、この魂を守り抜きさえすれば、またあなたと暮らせる。そう信じていました。でも、それは私の思い違いでした。やはり、三年前、私は悪魔と契約をせず、あなたと一緒に死ぬべきでした』。
実は、まだ悪魔は妻の魂を狙っていました。妻は、自分が悪魔から救われるただ一つの方法は、夫から真実の愛を得ることだと知っていました。しかし、夫の言葉で、もはや夫から真実の愛を得ることはできないと悟ったのです。その瞬間、悪魔が現れ、笑い声を響かせながら、妻と娘をさらって空の彼方へ消えてゆきました。妻は二度と戻ることはありませんでした┅┅」
礼奈が語り終えて、コーヒーを飲もうとしたとき、静まり返った店内で急にすすり泣く声が聞こえてきた。びっくりしてカップを置き、声のした方を振り向いて、またびっくりした。少し離れたカウンター席で、客のルミ子が顔を手で覆って泣いており、その隣の小説家の和田もグスグスと鼻を鳴らしながら、礼奈に注目していた。さらに、マスターまでが、涙を流しながら礼奈の方を見つめていたのである。
「な、なんでしょうか、この空気┅┅あは、あはは┅┅」
「飯田君っ!」
「うおっっと┅┅び、びっくりしたぁ┅┅な、何ですか、班長まで┅┅」
「あ、いや、すまん┅┅その、今の話なんだが┅┅」
優士郎は、今まで見せたことがないような苦悩の表情を浮かべて、うつむきながら言葉を探していた。
礼奈はそっと優士郎の手に自分の手を重ねて、優しく頷いた。
「ええ、これが彼女の思い┅┅ただし、今はまだ夫の答えを聞く前ですが┅┅もう一つ付け加えると、彼女は約束の三年が過ぎて、悪魔が約束を守らなかったら、娘は置いて逃げる覚悟をしていました。悪魔が追いかけてきたら、死ぬつもりだったそうです」
(あーあ、やっぱりわたしは悪魔にはなれないな┅┅)
顔を上げた優士郎の目に強い決意を読み取った礼奈は、心の中でつぶやいた。
「ありがとう、飯田君、君に頼んで良かった」
「はい┅┅」
優士郎は礼奈の手を両手でぎゅっと握った後、立ち上がった。
「彼女に会ってくる。マスター、代金ここに置いとくよ」
「うん┅┅行っておいで」
「優くーん┅┅えぐ┅┅うう┅┅真由ちゃんを┅┅ばゆちゃんをじあわぜにじてあげてええ┅┅」
「優君、今度はもう、放しちゃだめだよ。しっかり、ね」
そうした声を背に、優士郎は店を後にした。そして、スマホを取り出すと、四年ぶりに真由香へSNSでメールを送った。
『君に会いたい。例の公園で待っている』
送信ボタンを押した後、優士郎は真由香と出会って、そして別れたあの公園に向かって歩き出した。十メートルも行かないうちに、ポケットに入れたスマホが震え、メールの着信音が鳴った。
『すぐに行きます』
真由香からの返事は、ただそれだけだった。でも、その背後にあるたくさんの彼女の言葉や声が聞こえてくるように感じた。
休日の午後にもかかわらず、辺りに人の姿は少なかった。日差しは時折雲間から差し込み、寒さでかじかんだ手を温めてくれた。
優士郎は桜の木にもたれ、かれこれ二十分近く真由香が来るのを待ちながら、自分の心に問いかけていた。
(お前は本当に彼女を許せるのか?┅┅あの頃と同じ気持ちで彼女を愛せるのか?┅┅)
答えは、やはり否定的だった。自分にも彼女にも正直であろうとすれば、どうしても、礼奈のおとぎ話に出てきた夫の気持ちと同じになる。
(やはり、会うべきではないのか?┅┅いや、あのおとぎ話で、夫と自分が唯一違うのは、妻の幸福を願う気持ちだ。僕があの時願ったのは、彼女の幸福だった┅┅)
ふと、足音が聞こえた気がして、優士郎は考えるのをやめ、音のした方に目を向けた。公園の入り口から少し入った所に、白いコートを着て、走ってきたのか、前屈みになってハアハアと息を切らしている女性がいた。
一目で真由香だと分かって、優士郎は彼女の方へ歩み寄っていった。
「真由香┅┅」
まだ下を向いたまま肩で大きく息をしていた真由香は、一瞬息を止めて、顔を上げられずにいたが、やがてゆっくりと体を起こした。だが、その細い肩は震え、まだ顔を上げられずにいた。
「急に呼び出して、すまない┅┅それと、礼奈┅┅飯田礼奈に頼んで君の家へ行ってもらった┅┅本当は自分がすべきことだったと思っている┅┅すまなかった┅┅」
「┅┅て┅┅ばかり┅┅」
「えっ┅┅」
下を向いたまま、かすれた声で言った真由香の言葉が聞き取れず、優士郎は少し前屈みになって彼女の言葉を聞き取ろうとした。
「いっつも謝ってばかり┅┅あなたって┅┅」
「あ、ああ、そうかな┅┅自分が悪いと思うから謝っているんだけど┅┅」
優士郎がそう答えた直後、真由香がゆっくりと顔を上げた。
すでにその頬は涙に濡れ、唇は小さく震えていた。思わず抱きしめようとする衝動を抑えながら、優士郎は彼女から目をそらした。
「ああ┅┅その┅┅少し歩こうか?」
「┅┅ううん┅┅ここがいい┅┅」
真由香は小さく息を吐いて、涙をこすりながらそう言った。
「そうか┅┅じゃあ、そこのベンチに座ろう┅┅」
優士郎の言葉に真由香は頷き、二人は側のベンチに並んで座った。
二人は五十センチほど離れて座り、しばらく無言のまま時が流れた。三年という月日を埋めるには、あまりにも二人の距離は離れすぎていた。心の中は、お互いに対する思いで溢れていたが、その熱で二人の間を隔てる厚い氷を溶かすことは、永遠にかなわないように思われた。
「┅┅子供はいくつになったんだい?」
優士郎は、あえて二人の距離の遠さを確認するように、そう切り出した。
「┅┅今、二歳┅┅もうすぐ三歳になるわ┅┅」
「そうか┅┅ちょうど可愛い盛りだね。女の子だって?マスターがとても良い子だってほめていたよ」
真由香はうつむいたまま、少しもうれしそうな表情ではなかった。また無言の状態で、しばらく時が流れた。冷たい風だけが、二人の髪を時折揺らす。
「┅┅真由香┅┅君に会おうと思ったのは┅┅」
優士郎がようやく心の整理を終えて、そう口にしたとき、真由香が何かを決意したように顔を上げて、首を横に振った。
「もういいの┅┅いつまで経っても、あなたから手を引いてもらわないと何もできない自分が、ほんとに情けない┅┅」
真由香はそう言うと、初めて微笑みを浮かべて前を見つめた。
「手紙にも書いたけれど、あなたに会って、あなたに知ってもらいたいことがあったの┅┅
優君┅┅愛してる┅┅今でも┅┅出会ったときから、ずっと、変わらず愛しています┅┅でも、わたしは取り返しのつかない間違いを犯した┅┅」
真由香がそこまで言ったとき、優士郎は立ち上がって真由香の前に移動した。
「もう、それ以上言わなくていい┅┅飯田君から、君の気持ちはすべて聞かせてもらった。君がずっと変わらず僕を思っていてくれたことは、本当にうれしい┅┅その気持ちさえ変わらなければ、三年間紫龍のもとでがまんすればいい、と考えた君の気持ちも理解できる┅┅
ただ、その時の君の判断は、例えるなら、青い梅が『たとえ赤いシソに漬けられようと、芯の種までは決して染まらない』と考えたようなものだ┅┅」
自分の命がけの告白を途中で遮られた真由香は、少し怒った顔で優士郎の言葉を聞いていたが、梅干しの例え話に、眉をひそめて首を傾げた。
「┅┅梅?┅┅」
「ああ、そうだ┅┅君は『自分は絶対紫龍の色には染まらない』という自信があったのだろう?でも、それは間違いだ┅┅当時、奴に本当にその気あったら、一ヶ月もしないうちに、君は紫龍の色に染められていたはずだ┅┅」
「違うっ!そんなことないっ!」
「いいや、君は幼くて知らなかっただけだ┅┅女は┅┅体と心は、どんなに切り離そうと思っても切り離せないものだ。今、君がそんなことを言えるのは、紫龍にそこまでの気持ちが無かったのか、あるいは仕事が忙しすぎたのか┅┅ただ幸運だったからだ┅┅」
「女でもないのに、知った風なこと言わないでっ!」
涙を浮かべ、激しい怒りを露わにして立ち上がった真由香に、優士郎は心を鬼にしてトドメを刺すために言った。
「ああ、知らないさ┅┅それに、今さらどうでもいいことだ┅┅あの時の君の判断は正しかった┅┅間違ってはいなかった┅┅それだけは言える。だから、もう僕に負い目を感じたりしなくていいんだ┅┅今さら、愛していると言われても┅┅辛いだけだ┅┅」
真由香は茫然と立ち尽くし、ただ涙をぽろぽろと落とし続けた。もう、彼女の心はぐちゃぐちゃだった。一番自信を持っていた優士郎への真実の愛を、幸運だったから持ち続けられただけだと否定され、迷惑だと拒絶された。覚悟はしていたものの、殺されるほうが、まだましだった。
一方、優士郎は、これが最善の道だと判断していた。真由香には辛い思いをさせたが、彼女とその娘の将来を考えれば、今のままが良いに決まっている。長い目で見れば、それが真由香の幸せなのだ。
「じゃあ、さよなら┅┅」
「遊びだったの?┅┅」
真由香はうめくような声で、去って行こうとする優士郎の背中に問いかけた。
優士郎は立ち止まり、背を向けたまま歯を食いしばった。〝違う〟と叫びたかった。
「┅┅あの時もそう┅┅あなたは何も言わず、何も聞かず┅┅去って行った┅┅」
「何も言ってくれなかったのは、君の方じゃないかっ!」
優士郎はついに荒ぶる感情を抑えきれず、振り向いて叫んだ。
「君は僕を選ばなかった!┅┅あの男を選んだっ!」
「違う┅┅わ」
「違う?┅┅あの男の子供を産んでおいて、何が違うって言うんだ!」
言ってしまった後、優士郎は後悔したが、真由香は涙に濡れた顔を微かに微笑ませた。
「わたしは┅┅ずっと┅┅ずっとあなたとの未来だけを見つめていた┅┅あなたはさっき、女は心と体を切り離せないと言った┅┅でも、わたしは心と体を切り離した、三年間、どんなに体を奪われても、あの男のものになるつもりはなかった┅┅でも、あの時、あなたには、もっとふさわしい女の人がいるんじゃないかと思ったの┅┅もっと、きれいで優しくて、あなたのために純潔を捧げてくれる┅┅可愛い人が┅┅体を汚されたわたしなんか、あなたを引き留めることはできないって思った┅┅あの時、わたしは死んだの┅┅今も死んだまま┅┅」
「┅┅じゃあ、どうすれば良かったと言うんだ?┅┅」
優士郎がうめきながら地面にかがみ込むと、真由香は優しくこう言った。
「もう、あの時は戻らない┅┅でも、あなたにもう一度会えたら、あの時言えなかった、わたしの本当の気持ちを言って、その答えを聞きたいと思ったの。もう、さっき答えは聞いちゃったけど┅┅ふふ┅┅でも、わたしが一歩前へ踏み出すために、今から言うね┅┅」
真由香はそう言うと、目をつぶって大きく息を吸った。そして目を開くと、両手を胸の所で組んで、優士郎を見つめた。
「優君、愛してる┅┅お願い、わたしを捨てないで┅┅あと三年、がまんして待っていて┅┅この体は、あの男に汚されるけど、決してあの男のものにはならない┅┅わたしを信じて下さい┅┅それでも三年なんて待てない、処女じゃないと嫌だって思うなら、そう言って下さい┅┅あなたの口からそれを聞けたら、辛いけど、あきらめられる┅┅」
優士郎は体を起こすと、ゆっくりと真由香に近づき、そして優しく両腕でその細い肩を抱きしめた。
「優君┅┅」
「真由香┅┅四年前のあの夜、今の言葉を聞いて、僕が三年間待つと約束できたかどうかは分からない┅┅結果として同じ運命をたどったかもしれない┅┅でも、今、あの時の君の本当の気持ちが聞けて、うれしかった┅┅」
優士郎は体を離すと、真由香を見つめた。真由香は優士郎の体に抱きついたまま言った。
「どんな答えでもいいの┅┅お願い、正直な気持ちを聞かせて┅┅」
「過去の真由香に答えたって意味は無い。だから、現在の真由香に答える┅┅」
優士郎はそう言うと、真由香の肩を両手でつかみ、真剣な顔で見つめた。
「今でも君が好きだ┅┅あの頃からずっと変わらず好きだ┅┅でも、僕は一度、君を思い出にしようと心に決めた┅┅今、君がその思い出の中から、再び現実の世界に出てきたことで、僕は正直戸惑っている┅┅現実世界の僕たちの間には、いくつもの高い壁がある。それが、越えられるものならば┅┅」
優士郎はそこでいったん言葉を切り、真由香を見つめた。
真由香はもう喜びに満たされて、涙が溢れ流れるままに優士郎を見つめていた。
「┅┅もう一度、君とやり直したい┅┅」
「優┅┅く┅┅ん┅┅うう、う┅┅あああ┅┅」
真由香は今までの思いが堰を切ったように溢れ出て、優士郎の胸で泣いて、泣いて、泣き続けた。
雲の隙間から冬の夕暮れの赤い太陽が、辺りを染め始めていた。ようやく泣き止んだ真由香の肩を抱いて、優士郎は大通りに向かって歩いていた。
真由香の強い思いにほだされて、自分の決意を翻してしまったが、本当にこれで良かったのかという思いは残った。これから、越えなければならない課題は困難で、数も多い。愛さえあれば、などと甘いことを考えていたら、すぐにまた破局を迎えるだろう。
「優君┅┅今度はいつ会える?」
真由香はもう夢見心地で、優士郎を絶対放さないというように抱きしめていた。
「僕の方から連絡するよ」
「うん┅┅ねえ、またメールしていい?」
「ああ、いいけど┅┅すぐには返事を返せないことが多いぞ」
「うん、いいよ┅┅前もそうだったし┅┅」
「え?ちゃんと返していただろう?」
「ええ?そうだったかなあ┅┅ふふ┅┅」
真由香は幸せだった。もう二度と、あの幸せな時間は帰ってこないと思っていた。ただ、優士郎の悲しみを少しでも和らげてやりたい、そして、自分も前へ一歩を踏み出したい、そう願っていただけだった。しかし、彼女の思いを神様が哀れんでくれたのか、優士郎からの愛の復活を得ることができた。微かな期待が無かったかと言えば嘘になる。しかし、この結果は彼女にとって、奇跡と呼べるものだった。
(彼が言う「いくつもの高い壁」のうち、一つか二つは思いつくけど、他にはどんなものがあるんだろう。でも、どんな壁だろうと、今度こそ失敗せずに越えてみせるよ、優君┅┅)
バスの窓越しに手を振りながら、真由香は停留所に立つ優士郎に心の中で誓うのだった。
二月の終わり、、奥多摩の一角の木々に囲まれた丘陵地には、一週間ほど前に降った雪が、まだ所々に消えずに残っていた。しかし、その日、この丘の上に続く道は、何台ものトラックが行き来し、丘の上に立つ石造りの大きな館の内も外も、人々の賑やかな声と熱気に溢れ、周囲に残った雪を溶かしてしまうかのようだった。
ここに元々あった洋館のリフォームが終わり、新しい家具や引越の荷物を運び入れる運送業者にてきぱき指示しているのは、この館の新しい女主人であった。まだ、少女と言っていいほど若く、彼女が三歳になる娘がいる母親だとは誰も思わないだろう。
その女主人である紫門真由香は、すでに赤坂にあった屋敷をはじめ、夫の紫龍が残した遺産をすべて処分し、使用人たちにも、退職金代わりに相応の金を渡して解雇していた。そして、残った金の半分ほどを、いくつかの福祉団体と「女性が生き生きと働ける社会を作る会」に寄付した。それでも、まだ十数億の金が手元に残ったが、それは、彼女がこれまで払った犠牲に対する正当な代償であり、これからの新しい生活に向けての大切な資金だった。
新しい生活の手始めに、彼女はこの古い洋館を買い取り、いろいろな人の意見を聴きながら一ヶ月を費やして、有名な建築家に内外のリフォームを委託した。
「どお?お母さん┅┅気に入った?」
荷物の搬入が一段落した。真由香は、二階の窓から外を眺めている母親のそばへ行って声をかけた。
この半月ほどで随分病状が回復した母親は、微笑んで頷いた。
「ええ、とても気に入ったわ。空気も良いし、静かだし、何よりこの眺めが素晴らしいわね┅┅こんな素敵なお家に住めるなんて、夢みたいよ┅┅ありがとう、真由ちゃん┅┅」
「うん┅┅お母さんの病気はストレスが大敵なんだから、何も心配しないでここでゆっくり暮らしていれば、きっと治るから┅┅」
「ええ┅┅ありがたくそうさせてもらうわ┅┅優衣ちゃんや新しく生まれてくる赤ちゃんのお世話は、任せておいて」
「ま、まだ気が早すぎるわよ、もう┅┅」
真由香は母親の笑い声に背を向けて、包装紙やテープ類などのゴミを拾い集めながら、一階へ降りていった。
「ママー、誰かきたよー」
庭で木の葉を集めて遊んでいた優衣が、門の方を指さしながら叫んだ。
真由香が玄関に出て、緩やかな坂になっている門の方に目をやると、引き締まった体つきのスーツ姿の女が、軽やかな足取りで坂を登ってきながら真由香に手を振った。
「真由香さん、お久しぶり」
「飯田さん、お久しぶりです。あの、その節はお世話になりました」
飯田礼奈はにこやかな笑顔で真由香の前まで来ると、片目をつぶってウインクし、Vサインをした。
「にひひィ┅┅あの時に比べると、また一段と輝いてきれいに見えるわよ」
「か、からかわないで下さい┅┅あ、あの、どうぞ、中へ┅┅」
「ママ、赤くなってるゥ」
木の葉を手にした優衣が、母親を見上げながら言った。
「ゆ、優衣、変なこと言ってないで、ほら、中に入って手を洗ってきなさい。手を洗ったら、おばあちゃんを呼んできて」
「はーい」
娘を家の中に入れると、真由香は一つ小さなため息を吐いて、まだ赤い顔のまま礼奈の方を見た。
「すみません、引っ越しの荷物がまだ整理できてなくて、散らかったままですけど、どうぞ中へ┅┅」
「はい、おじゃまします」
一階は玄関を入ると、大きなホールになっていて、右側にカウンター付きのバーとソファ、テーブルが並んだ応接スペース。左側は家族のティータイム用のリビング。その横に階段があり、緩やかにカーブして二階へとつながっている。奧の右手にオープンキッチン、左手に食堂、その途中にトイレと地下への階段があった。
「素敵なお屋敷ね┅┅中世のヨーロッパ貴族の館って感じ?」
応接スペースのソファに座りながら、礼奈は目を輝かせていた。
「ありがとうございます。ここ、優君、あ、いや優士郎が、ずっと前から目を付けていた物件だったらしくて┅┅彼、自然が好きだから┅┅」
「ふうん、普段は優君って呼んでるんだ┅┅ふふ┅┅いいなあ、高校生っぽくて┅┅」
「もう、そうやってすぐからかうんだから┅┅」
カウンターの奧でコーヒーを淹れていた真由香が、赤くなりながら答える。
「ふふ┅┅うれしいのよ、わたしも┅┅真由香さんは幸せにならないといけないって、わたしだけじゃなく皆そう思っているから┅┅」
「み、皆って┅┅」
「わたし、鹿島さん、ロゼのマスター、ルミ子さん、和田さん、それから神様も┅┅ふふ┅┅」
真由香は熱いものがこみ上げてきて、思わず泣きそうになりながらコーヒーをカップに注いだ。
「それで、どんな?デートはちゃんとしてるんでしょう?」
「え、ええ、まあ┅┅」
「ここのところ鹿島さんも、また忙しそうだからねえ┅┅何回ぐらいしたの?」
「さ、三回かな┅┅」
「ええっ、三回?たった?一ヶ月で三回って、週に一回弱ってこと?」
コーヒーとクッキーを運んできた真由香は、どうしようもなさそうにうつむいて、おずおずとカップやクッキーの容器をテーブルに並べる。
「んん┅┅そりゃあ、鹿島さん忙しいし、仕方ないかもしれないけど┅┅家やホテルに泊まったりとかは?」
真由香は悲しげに首を振る。
「あら、いらっしゃいませ┅┅真由香の母です」
優衣を腕に抱いて真由香の母が挨拶に現れた。
「初めまして、鹿島さんの友人で、飯田礼奈といいます」
「紫門優衣です。三歳です」
「あら、良い子ねえ。それに、お母さんそっくりで┅┅きっと美人になるわよお」
礼奈の言葉にうれしそうに笑う娘を見ながら、真由香は立ち上がって、バーのカウンターに置いたクッキーとミルク、紅茶のトレイを取りに行った。
「優衣、降りて┅┅向こうでおばあちゃんと食べなさい」
「えー、やだ、ここで食べたい」
真由香は、礼奈の言葉とは裏腹に、優衣が紫龍にそっくりな気がしてならなかった。
「ママはお客様と大事なお話をしているの。わかるわね?」
「はーい┅┅」
優衣はしょんぼりしながらも、頷いて祖母の腕から降りると、反対側のリビングへ歩いて行く。
「ごゆっくりなさってくださいね」
真由香の母親は、トレイを受け取るとそう言って去って行った。
「お母さん、まだお若いわね」
「ええ、まだ四十半ばですから┅┅でも、腸に潰瘍ができる持病があって、ずっと、入退院を繰り返してきたんです」
「そう┅┅苦労してあなたを育ててこられたのね┅┅」
礼奈はそう言って、コーヒーをブラックのまま一口飲んだ。
「あら、これって、もしかしてモカマタリ?」
「あ、はい、香りが好きで、注文して取り寄せてます┅┅」
「んん┅┅美味しい┅┅」
「あ、あの、飯田さん┅┅」
礼奈は真由香の悲しげな表情に驚いて、カップを置いた。
「どうしたの?」
「は、はい、あの、さっきのお話のことなんですが┅┅」
「さっきの?ええっと、確かデートのことだったわよね?」
真由香はこくりと頷くと、切羽詰まったような顔で礼奈に言った。
「あの┅┅わたしたち、まだキ、キスもしていないんです┅┅こ、これって、おかしいですよね?」
礼奈はあっけにとられて、口を開けたまま真由香を見つめていた。
「そうなの?なんで?」
「な、なんでって言われても┅┅」
「おかしいでしょう┅┅あなた、まだ怖がってるの?子供まで産んでるのに?」
真由香は身も蓋もなくて、身を縮めながら首を振った。
「┅┅怖くはないです┅┅あ、あの┅┅ゆ、優士郎は、全然求めてこないんです┅┅や、やっぱり、わたしの方から求めたほうがいいんでしょうか┅┅」
礼奈はため息を吐いて、頭を抱えた。
「はああ┅┅ということは、なに?五年前、もう六年前か、付き合って以来、一度もキスをしてない、ましてや、セックスも、ペッティングも┅┅あなたたちって、何?プラトニックラブ教の信者?馬鹿でしょ┅┅」
さんざんな言われように、真由香はしょげ返り、離れたところで聞いていた母親は思わず苦笑した。
「ああ、でも┅┅事態は思ったより深刻かもしれない┅┅」
礼奈のつぶやきに、真由香は優士郎が言った「いくつもの高い壁」という言葉を思い出した。
「や、やっぱり┅┅わたしになんか、触りたくないんでしょうか?」
「ううん、そんなことはないと思う┅┅でも、やっぱりためらいがあるのね┅┅これは、あなたのせいじゃなく、鹿島さんの心の問題よ┅┅」
真由香は、事態が深刻だと言った礼奈の言葉の意味を理解した。
(飯田さんは、わたしのせいじゃないって言ったけど、これはわたしが原因なんだわ┅┅出会ってから、あの人にはキス一つ許さなかった┅┅しかも、他の男には体を与えて、子供まで産まされて┅┅これって、彼からすれば、ひどい裏切りだわ┅┅ううん、ひどいどころじゃすまない虐待行為┅┅一生治らない心の傷を負わせたんだ┅┅)
いつしか、真由香の目からは涙が溢れ、ポトポトと床にこぼれ落ちていた。
「真由香さん┅┅心配しないで。今こそ、あなたの〝与える愛〟を惜しみなく彼に注ぐ時よ」
真由香は涙に濡れた顔を上げて礼奈を見つめた。
「今、鹿島さんがあなたに触れようとしない理由は、推測すると三つある┅┅まず一つは、
あなたが愛してもいない男に抱かれて、望まない妊娠を┅┅」
礼奈はそこで言葉を切り、リビングスペースにいる優衣と真由香の母親の方を見た。優衣は無邪気にクッキーを食べながら、覚えたアニメの主題歌を、身振り手振りしながら歌っていた。母親は小さく頷いて、礼奈に心配せず話すように無言で背中を押した。
礼奈は、母親に感謝を込めて小さく頭を下げると、話を続けた。
「┅┅つまり、あなたがセックスに対して嫌悪感を持っているのではないか、と疑っていること。二つ目は、正式に結婚するまでは、節度を守ろうと考えていること。三つ目だけど┅┅これは、あなたには理解できないことかもしれないけど┅┅男には変なプライドがあってね┅┅他の男と比べられるのをとても嫌がるのよ┅┅」
真由香は、眉をひそめて小首を傾げた。
礼奈はちょっと言いにくそうに、視線をあちこちにさまよわせながら続けた。
「┅┅ええっと、つまりね┅┅将来あなたが鹿島さんに抱かれたとき、前のご主人の時と比べて物足りないって感じたとしたら、それは、鹿島さんにとって決定的な致命傷になるってこと┅┅もちろん、あなたはそう思っても、絶対口には出さないでしょう┅┅でも、男からは女に直接聞けないことだけに、ずっと心の中に疑念として残っていくのよ┅┅」
真由香は聞き終わると、何度も頷きながらテーブルを見つめていたが、やがて涙をハンカチで拭い、何か吹っ切れたような表情で顔を上げた。
「よくわかりました┅┅飯田さんはすごいですね。心理カウンセラーのドクターみたい┅┅」
「あ、あはは┅┅まあ、近いものではあるけどね┅┅それで、どうなのです?三つとも、鹿島さんの心から消し去る自信はありますか?」
真由香はようやく少し笑顔を見せて頷いた。
「はい。三つの理由は全部必要のないものですから┅┅一つ一つ、心を込めて誤解を解いていけば、きっと解決できると思います┅┅本当言うと、もっと、彼の心の奥の深い傷、わたしが彼に与えた傷が原因だと思っていたんです┅┅」
礼奈も微笑みを浮かべて言った。
「それを彼が克服できたから、あなたへの愛を復活させたのよ。もちろん、まだ、完全に傷は癒えていないけれど┅┅さっきの三つを解決していく中で、自然に癒えていくと思うわ┅┅それをやり遂げることが、これからあなたが努力すべき一番大切なことよ┅┅」
真由香は本来の笑顔を見せて、しっかりと頷いた。
礼奈のアドバイスを受けて、翌日から真由香はさっそく優士郎の心の余計なバリアーを解くための努力を始めた。とは言うものの、いかんせん、優士郎と一緒にいられる時間が少なすぎた。電話やメールでは限界があるし、あまりしつこいと、逆効果になりかねない。
そこで、切羽詰まった真由香は考えた。
(もう、こうなったら、彼の両親も巻き込んじゃえ)
「まあ、まあ、真由香さん┅┅お久しぶりねえ┅┅」
優士郎の母親恵子は、玄関先に出て真由香を迎えると、思わず涙ぐんだ。
「お母様┅┅」
真由香は、謝罪の思いを込めて深く頭を下げる。
優士郎と付き合っていた頃、何度かこの家を訪れて、その度に温かくもてなされ、可愛がられた記憶がよみがえってくる。特に恵子は真由香を気に入って、将来の嫁と心に決め、皆に公言もしていた。だから、二人の突然の破局で、彼女はかなりショックを受けただろうし、ずいぶん真由香を恨んだはずだ。
約五年ぶりに、優士郎の実家を訪ねるにあたって、真由香は玄関払いを受けることも覚悟していた。
だが、実際はその逆だった。優士郎の両親は、すでに優士郎から真由香と再び付き合い始めたことを聞いていた。もちろん両親は驚いたが、同時に大喜びだったのだ。
恵子は、頭を下げる真由香を抱きしめて、涙ながらにこう言った。
「┅┅やっと、やっと帰ってきてくれた┅┅お帰り、真由ちゃん┅┅」
しばらく抱き合って泣いた二人は、ふいに玄関先であることを思い出して、今度は笑いながら家の中に入っていった。
真由香は、恵子に正直に打ち明けた。自分が正式に優士郎と結婚したいと思っていること、優士郎の考えはまだはっきりとは聞いていないこと、再び付き合い始めて一ヶ月あまりが過ぎたが、優士郎がまったく真由香に触れようともしないので、知人に相談したこと、その結果、優士郎の心の中にある三つの理由が原因と思われること、その原因を解決するため、できるだけ彼と一緒にいる時間を増やしたいこと、等々。
「┅┅そこで、お願いがあります。今日から一週間、ここにわたしを置いて下さい!」
真由香が必死の思いで頭を下げると、恵子は椅子から立って、向かい側の真由香のもとへ行き優しく肩を抱いた。
「お話はよおく分かったわ。真由ちゃん、あなたがここに泊まる必要は無いわ。娘さんもお母様も置いて、ここに来るっていうあなたの覚悟、この私が十分見せてもらいました。
ここは、優士郎に必ず言い聞かせて、あなたの家に行かせます。今後は、あなたの家から警視庁まで通わせることにします。ああ、必要なあの子の荷物は、まとめて送りますから、後で住所を教えてね┅┅それから┅┅」
真由香があっけにとられている間に、恵子はうきうきと話を進めていった。結局、その日は優士郎の父親の帰りを待って、夕食を共にし、大喜びの両親と楽しい時間を過ごした後、タクシーで自宅に帰り着いたのは、午後の十時を過ぎた頃だった。優士郎はあいにく仕事で遅くなるということで会えなかったが、真由香にとって、本当に久しぶりに家族の温かさに包まれた一日だった。
優衣の部屋を覗いて、よく眠っていることを確認した後、真由香は隣の自分の部屋に入ると、灯りも点けずそのままベッドに横になった。大きくため息を吐き、窓から差し込む微かな月の光を見つめる。
今まで三年あまりの間、ずっと張り詰めて、切れる寸前だった神経の糸が、ずいぶん緩んで柔らかくなったように感じた。すべては、真由香が思い描いていた理想の未来へ進んでいた。後は、その未来の主人公である愛しい人が、彼女の愛で幸せになってくれれば完結する。真由香は仰向けになり、もう一度切ないため息を吐いた。
ケヤキと桜の木が混ざった林の中を抜けて、黒のハイラックスが坂道を登ってくる。静寂を破る低い排気音が、やがて洋館の脇に止まると、再び辺りは静寂と鳥の声だけになる。しかし、すぐにその静寂は元気な女の子の声によって破られた。
「ママー、優おじちゃんがきたよー、ママー┅┅」
女の子はおぼつかない足で懸命に走り、両手を広げて車から降りてきた男に飛びつく。
男は女の子を抱き上げて、唇を突き出した女の子に笑いながら軽くキスをする。
「優おじちゃん、もっとちゃんとキスして。久しぶりなんだから┅┅」
「あはは┅┅いつの間にそんなこと覚えたんだ?優衣姫┅┅」
「アニメよ、アニメ┅┅まったく、変なことばっかり覚えるんだから┅┅」
女の子の後から出てきた若い母親が、男の手から娘を受け取りながら、ため息交じりに答えた。
「┅┅お疲れ様。どうぞ、中へ┅┅」
「うん┅┅楽しみにしてたんだ。君からいろいろ話は聞いていたけど┅┅」
三人は並んで館の中へ入っていく。
優士郎は母親から話を聞くと、すぐに快諾し、さっそく二日後のこの日、自分の荷物を車に積み込んで、この奥多摩へ引っ越してきたのである。ここから都心へ通うとなると、かなり時間が掛かって大変だが、真由香の幸せのためなら何の苦労でもない。
「ご感想は?」
館の中を一通り見終わって、最後に三階の屋根裏部屋から外の景色を一緒に眺めながら、真由香が尋ねた。
「ああ、大満足だ┅┅大変だったね。片付けやら手続きやら、任せっきりにして申し訳ない。
これから先は、僕をどんどん使ってくれ、何でもするから」
「ええ、大いに期待しています┅┅ふふ┅┅」
「ここ、誰のお部屋?」
「そうねえ┅┅今はまだ誰のお部屋でもないわ┅┅未来の子供たちの遊び部屋かな」
「優衣も遊ぶゥ」
「うん。弟や妹たちと仲良く遊んでやってね」
「おとや┅┅いも?」
優衣の言葉と首を傾げるしぐさに、二人は笑いながらいつしかその部屋で賑やかな声を上げて遊ぶ子供達の姿を想像していた。
その日の夜、初めて四人で食事を共にしたが、まるでずっと一緒に暮らしてきた家族のように違和感なく、和やかな空気が包んでいた。食事の後も優士郎に甘えて離れようとしない優衣を見ながら、真由香はまた一つ壁を乗り越えられたような気がした。
「優衣、おばあちゃんとお風呂に入って、お休みする時間よ」
「ええ?やだあ、もっと優おじちゃんと遊びたい」
「おじちゃんは、これからずっと一緒に暮らすんだから、遊ぶ時間はいっぱいあるよ」
「う、ん┅┅じゃあ、おじちゃんとお風呂に入る」
「えっ┅┅そ、それは、ダメっ┅┅」
「ええ?なんでぇ?」
「あはは┅┅いいよ、じゃあ、一緒に入ろうか┅┅」
優士郎はそう言うと、喜ぶ優衣を抱いて浴室へ向かおうとした。
「あ、じゃ、じゃあ、ママも一緒に入ろっかなぁ┅┅」
真由香の発言に、今度は優士郎が固まってしまった。
「わーい、ママも一緒だぁ┅┅おばあちゃんも一緒に入ろう?」
「うふふふ┅┅おばあちゃんは、入れないわ┅┅お風呂がパンクしちゃうもの。三人で一緒に楽しんでおいで┅┅」
言ってしまった手前、真由香は己の心を奮い立たせて、赤くなった顔を隠すようにしながら浴室へ向かった。しかし、優士郎は優衣を抱いたまま動けずにいた。
「おじちゃん、早く行こうよ」
「う、うん┅┅やっぱり┅┅」
「優士郎さん┅┅」
優士郎が優衣に一人で浴室に向かうように言おうとしたとき、背後から、真由香の母親が両手を胸の前で合わせて、優士郎に声をかけた。
「┅┅お願いします┅┅」
(ええっ┅┅普通止める方だろう?いいのか?┅┅)
そう思いつつ、優士郎は引きつった笑顔で応えながら、おずおずと浴室に向かった。
元の浴室は広く改装され、電化システムでいつでもお湯が使えるようになっていた。
先に浴室に入っていた真由香は、バスタオルを体に巻いて、浴槽にお湯を貯めていた。優士郎は脱衣室で優衣の服を脱がせて、先に中へ行かせた後、服を脱ぎ始めた。優衣の服を入れた脱衣かごに、自分も脱いだ服を入れようとして、ふとその先に置かれたかごが目に入った。そこには、真由香が脱いだ服がきちんとたたまれて入れられていた。思わずどきっとして、あわてて目をそらしたが、心臓は音が聞こえるほど高鳴っていた。
「ほら、優衣、じっとしてて┅┅ちゃんと洗わないとだめなんだからね」
「だってぇ、くすぐったいんだもん┅┅」
浴槽の横で、真由香は娘の体をスポンジでこすっていた。全身泡まみれになった優衣は時々体をよじりながら、泡を手でもてあそんでいた。
「あれ、優おじちゃんもタオルしてる┅┅どうして、ママもおじちゃんもタオルしてるの?」
浴室の中におずおずと入ってきた優士郎を見て、優衣が真由香に問う。
「┅┅だって、ほら┅┅さ、三人だと、交代でお風呂に入らないといけないでしょう?体が冷えて風邪引かないようにだよ┅┅ね?」
真由香は赤い顔のまま、優士郎に同意を求める。
「あ、ああ、そうそう┅┅」
「そっかぁ┅┅でも、お風呂、広いから三人でも入れるよ」
優衣の追求は無視して、真由香は少々乱暴に優衣の体にお湯をかけた。
「ほら、おじちゃんと交代してお湯に入るわよ」
真由香はそう言うと優衣を抱き上げて、湯船の中に入っっていく。
優士郎は、優衣が座っていた小さな椅子にゆっくりと腰を下ろして、シャワーのコックを回した。シャワーが勢いよくお湯を放出し、優士郎の後頭部から背中にかけてを濡らしていく。
「ごめん、スポンジ一つしか無くて┅┅」
「ん?ああ、いいよ┅┅」
優士郎は、シャワーの横のフックに掛かった濡れたスポンジを取って、ボディソープの液を染みこませる。
「優衣がおじちゃん洗ってあげる」
「えっ、ああ、い、いや、大丈夫だよ┅┅」
「洗うのぉ」
「こら、優衣、余計なことしないの!」
母親の腕から抜け出した優衣は、優士郎の手から泡立ったスポンジを強引に奪うと、悪戯っぽく笑いながら、優士郎の手や足をこすり始める。
「はい、次は背中。あっち向いて┅┅」
苦笑しながら、言われるがままに優衣に背中を向ける。
「ああん、とどかないよぉ┅┅おじちゃんの背中大きすぎる┅┅」
「あはは┅┅ありがとう、もういいよ┅┅後は自分で洗うから┅┅」
「だめだよぉ。ちゃんと、おしっこするとこも洗わないと、お風呂には入れません」
日頃、母親に言われているのだろう、優衣は大人のような口ぶりでそう言うと、いきなり優士郎が腰に巻いていたタオルを引っ張った。端を巻き込んで留めていただけのタオルは、するりと外れてしまう。前を向きかけていた優士郎の下半身は、真正面から真由香の視線を受けることになった。
二人の間で時間が止まってしまったかのようだった。真由香は口を開けたまま、大きな目をさらに大きく開いて、優士郎のものを見つめたまま固まり、優士郎はショックのあまり隠すのが遅れて、顔を引きつらせていた。
「わあ、ゾウさんのお鼻だぁ」
静まり返った浴室に、優衣の無邪気な声が響き渡った。
嵐が過ぎ去った後のような、静かな深夜。
ようやく二人きりになった優士郎と真由香は、真由香が使っていた二人用の寝室で、灯りを点けず、並んで月明かりに照らされた窓の外を眺めていた。
二人が出会ってから初めての、二人だけの夜だった。
優士郎はずっと無言のままだ。以前の真由香だったら、優士郎が話し始めたり、動き出したりするのを待つだけだった。今さらながら、何もかも優士郎にリードさせて、それを当然のように考え、甘えていた自分の幼さを思う。
「┅┅ねえ、優君┅┅この前、飯田さんが来たけど、優君が行くように頼んだの?」
「いや、あいつが勝手に┅┅でも、ここの住所をつい教えてしまったのは、僕の責任だ┅┅」
「ふふ┅┅彼女、あなたのことが本当に心配なのね┅┅でも、いい人だから、わたしは好きよ。彼女に、いつでも来ていいって伝えといて┅┅」
「そんなこと言ったら、毎日でも来そうだな┅┅うるさいからやめとくよ。でも、君があいつを気に入っているということは伝えておく┅┅たぶん、知っているだろうけど┅┅」
「うん、そうだね┅┅彼女、本当に何でもお見通しって感じ┅┅でも、おかげでずいぶん勇気づけられた┅┅」
真由香は小さなため息を吐きながら、優士郎の胸に顔をうずめ、両腕を彼の体にまわしていく。
「┅┅優君、ごめんね┅┅六年近くも待たせて┅┅今さら、どんな言い訳も通用しないって分かってる┅┅でも、これだけは知っておいて欲しいの┅┅」
真由香はそこでいったん言葉を切ると、優士郎の背中にまわした腕に力を込めた。
「┅┅あなたと出会ったあの日から、わたしはずっとあなたとの未来だけを見つめていた┅┅
初めての恋で┅┅あなたみたいな素敵な人が相手で┅┅子供のわたしは、思っていることと違うことをしたり、言ったり┅┅今考えると、ずっとテンパってたんだと思う┅┅そのくせ臆病で┅┅でも、あなたはずっとそんなわたしに優しかった┅┅わたしはそれがいつまでも続くって思い込んでいた┅┅本当にごめんね、優君┅┅愛をあげられなくて┅┅愛してもらうばっかりで┅┅あなたとキスしたかったの┅┅抱かれたかったの┅┅一番ロマンチックな時にって思っていて┅┅それで┅┅」
真由香は涙に声も震え、それ以上言えなくなった。
優士郎は何も言わず、ゆっくりと真由香の体を抱え上げ、ベッドへ運んだ。そして、彼女の体を優しく横たえると、その上に覆い被さって見つめた。
もう、真由香は夢見心地で優士郎を見つめながら、彼の顔を両手で愛おしげに触った。
「┅┅今夜は、歯止めが効かないかもしれない┅┅」
「┅┅うん┅┅うん┅┅いいよ┅┅わたしの体、めちゃくちゃにしていいから┅┅優君の好きなようにして┅┅」
真由香はそう言うと、両足を開いて優士郎の腰の辺りにしっかりと巻き付けた。
「もう、放さないよ、優君┅┅わたしからは一生逃げられないから┅┅」
二人の荒い息づかいが重なり、二匹の獣はお互いを食べ尽くすかのように、がっぷりと口を咥え合った。
奥多摩の春はまだ遠かったが、鳥たちは春の訪れを待ちわびていたかのように、朝早くから木々の間を飛び回り、恋の歌を囀り続けていた。
天井に近い小さな明かり取りの窓から、柔らかな朝の光が差し込み、ベッドで寄り添い合って眠る二人を優しく照らす。やがて、男の方が先に目を開き、そっと体を起こす。そして、傍らで眠る、まだあどけなさを残した女の寝顔を、微笑みながらしばらく見つめた後、素っ裸のままベッドから降りて窓際へ歩いて行く。
カーテンをわずかに開いて、明るくなっていく森や遠くの町並みを眺めながら、大きく背伸びをする。そこへ、眠りから覚めた女が、やはり生まれたままの姿で男のそばへ歩み寄る。男はカーテンをいっぱいに開き、希望に満ちた空を見上げながら、女の肩を優しく抱き寄せる。
もうすぐ、この辺りは一面桜の花で埋め尽くされるだろう。二人が出会った頃の、あの思い出の公園のように┅┅。
エピローグ
「優君、真由ちゃん、三回目の結婚記念日、おめでとう!」
自称小説家和田の声と共に、クラッカーの破裂音と祝福の声が『ロゼ』の店内に響き渡る。結婚以来、毎年この日は店を貸し切りにして、少人数の小さなパーティが開かれる。優士郎と真由香の出会いからこの日までを見てきた、数人の知人たちだ。例外は、飯田礼奈で、彼女は、二人が悲劇的な別れをした後に二人と関わった人物だ。しかし、いつの間にか、『ロゼ』の常連客と親しくなり、今では一番の古株のような顔で店に出入りしている。
この日は、ようやく彼女の心を射止めた特捜隊員の酒井も一緒に来ていた。
「真由ちゃん、予定は何月?」
「五月です。予定日は六日ですけど、その前日に産もうと決めてるんです」
「ああ、真由ちゃんなら本当にやりそうだ。二人目の女の子は、確か九月二十一日、秋分の日だったよね」
和田が、真由香のふくらんだお腹をそっと撫でながら何度も頷く。
「でも、ちょっとペースが早すぎない?いくら若いって言ってもさぁ、体壊さないようにしないと┅┅優君、ちゃんと真由ちゃんのこと考えてやんなさいよ」
ルミ子の小言に、優士郎は大げさな仕草で頭を深々と下げた。
「ふふ┅┅いいんですよ、ルミ子さん┅┅わたしが望んでいることですから┅┅まだたくさん優君の赤ちゃん産みたいんです┅┅」
「┅┅んんもう、いじらしいんだから、ほんとにこの子は┅┅」
涙もろいルミ子は、すぐ泣きべそをかいて真由香の頭を抱きしめる。
「でも、それを罪滅ぼしなんて考えちゃダメだよ。真由香さんが病気になんかなったら、元も子もないんだから┅┅健康で、うんと長生きして、鹿島さんを幸せにしてあげないと┅┅」
「はい┅┅」
礼奈の言葉に、真由香はしっかりと頷いて微笑んだ。
「ところで、君たちの方はどうなんだ?式の予定とか、もう決まったのか?」
優士郎の問いに、カウンター席でビールを飲んでいた酒井が、思わずむせてビールをこぼした。礼奈は、年上のように酒井をたしなめながらも、ハンカチで優しく酒井の服を拭いてやる。
「い、いやあ、それが┅┅こんな仕事ですから、式の予定立ててもできるかどうか、分からないって彼女が言うもので┅┅じゃあ、取りあえず入籍だけ済ませちゃおうってことになり、先週の金曜日に┅┅」
皆の驚きの声が店内に響き渡る。そして、その後は祝福の嵐だった。
「ああ、ついに孤高の白百合も手折られる日が来たか、くうう┅┅」
「やめてよ、好きで孤高やってたわけじゃないんだからね┅┅この二人が、もう別れそうにないなって、見切りつけちゃっただけだから┅┅」
礼奈の半分本気の告白に、優士郎は苦笑し、真由香はべそをかいて礼奈を抱きしめに行き、和田とルミ子は感動して泣きながら抱き合い、酒井はマスターに三杯目のビールをジョッキで頼んで、やけ酒気味に飲み干していく。
誰もが幸せで、そして誰もがちょっぴりセンチメンタルな夕暮れだった。
賑やかな会がお開きになった。優士郎と真由香は皆と別れを交わした後、酔い覚ましに少し歩こうということになり、温かい春の夜道を並んで歩いた。
「公園で少し休んでいくか?」
「うん」
二人は思い出の公園に入り、ベンチに座る。足下の地面は、一面ピンクの花びらで覆われ、今も風の動きに合わせて、少しづつあるいは一斉に花吹雪が舞っていた。
「なんか┅┅あの頃に時間が戻ったみたい┅┅」
「うん、そうだな┅┅真由香はあの頃と少しも変わらない┅┅きれいだ┅┅」
「ゆ、優君もだよ┅┅今でもアイドルで通用するから┅┅」
二人は肩を寄せ合って、お互いにもたれかかる。
「┅┅でも、いつかは、二人も年を取るんだな┅┅」
「うん┅┅おじいちゃんとおばあちゃんになる┅┅」
「ずっと、一緒にいような┅┅」
「うん┅┅ずっと、ずっと一緒だよ┅┅」
真由香はそう言った後、優士郎の腕を両腕で抱きしめながらささやいた。
「優君┅┅わたしを見つけてくれて、ありがとう┅┅わたしと出会ってくれて┅┅ありがとう┅┅」
強い風が吹き、二人の姿をかき消すように桜の花びらが舞い落ちてゆく。
(完)