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散った桜のゆく果てに  作者: 水野 精
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一度失った愛を復活させることはできるのか

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プロローグ


「┅┅警視庁っていう馬鹿でかい組織の奥には┅┅ぐふっ┅┅深い深い闇があって┅┅その闇の奥には┅┅〝鬼〟が住んでいると┅┅誰かが言っていたな┅┅ふっ┅┅」

 

二〇四三年十二月、横浜、某所。

燃えさかる炎が、ビルの上部を包んでいた。消防車やパトカーのけたたましいサイレンが、下の方から聞こえてくる。

そのビルの一室で、今、二人の男が相対していた。一方の男は右足と左の肩から血を流し、窓際の壁にもたれて座っている。もう一方の男は、サイレンサーを付けたライフルを小脇に抱えて、座った男をじっと見つめたまま立っていた。

「┅┅だから┅┅その闇の奥を〝オニガシマ〟と言うんだと┅┅」


 窓際に座った男は、荒い息を吐きながらそう言って、にやりと笑った。長身で、長髪をオールバックにしたその男は、まだ四十にはなっていないように見えた。ぞっとするほどの美形で、妖しいオーラが全身を包んでいるようだった。

「言いたいのはそれだけか┅┅」

 そう言ってライフルを構え直したもう一方の若い男も、すらりとした長身で、この場所にはとうてい似つかわしくない、一見アイドルかと思わせるような爽やかで端正な顔立ちだった。


「ふふ┅┅まあまあ、そうせかせるなよ┅┅死ぬ前に、もうしばらく積もる話に付き合ってくれないかね、鹿島優士郎君、いや┅┅オニガシマ君の方がいいかな?」

「ふん┅┅時間稼ぎをしたって無駄だ。お前の打てる手はもう何も残っちゃいない┅┅あきらめな、パク・リュウシン、いや、〝紫龍〟さんよ」

 

紫龍と呼ばれた男は、切れ長の目の奧から冷たく光る薄茶色の瞳で鹿島を見上げた。

「ふっ┅┅勝ったつもりでいるようだね。でも、君は絶対に私には勝てない┅┅勝てない理由があるからさ┅┅それは、君が一番良く知っているんじゃないか┅┅ん?┅┅ふふふ┅┅」


 鹿島優士郎は無表情だったが、目には紫龍への激しい憎悪が溢れていた。

「そう、私の妻のことだよ┅┅一度ゆっくりと君と話したかったんだ┅┅妻と君は五年前まで恋人同士だったらしいね┅┅」

「動揺させようっていうなら、無駄だ┅┅」

「ふっ┅┅そうかな?┅┅いやあ、あれはいい女だからねえ┅┅五年前は十六か┅┅可愛かっただろうねえ┅┅ところが、なんと┅┅あれを女にしたのは、君じゃなく、僕だったんだからねえ┅┅あはは┅┅なんとも君にとっては悔しい話だろうねえ┅┅そう、僕なんだよ、鹿島君┅┅あの女の処女をぶち破って、子宮に精液をたっぷり流し込んで、孕ませたのは┅┅ひひひ┅┅僕なんだ┅┅ふひひひ┅┅」

 紫龍は狂ったような目で、下卑た笑い声を上げ続けた。


 鹿島はいよいよトドメを刺すべく、ライフルを紫龍に向けた。

「┅┅でもねえ┅┅」

 紫龍は突然笑うのをやめて、うなだれるように窓の方に顔を向けた。

「あいつは一度も┅┅一度も、僕に、笑った顔を見せなかった┅┅何でだろうねえ┅┅」


 そうつぶやいた直後、紫龍は右手を大きく横に振った、するとまるで大きな紙吹雪のように、無数のトランプの札が辺り一面に舞い上がった。

 そのトランプの紙吹雪の奧から、正確に鹿島の左胸に向かってナイフが飛んでくる。 

 サイレンサーの低い発射音が響く。

 金属が壁に当たる高い音と人の骨肉が砕ける鈍い音が同時に聞こえてくる。

 パラパラとトランプが床に散らばり落ちてゆく┅┅。

「┅┅くだらねえご託を並べてないで┅┅さっさと地獄に行きやがれ┅┅」

 額の真ん中を撃ち抜かれて、無残な屍をさらしている紫龍を見下ろしながら、鹿島優士郎は吐き捨てるように言った。



 鬼が生まれたいきさつ

    

    1


 桜吹雪の中、風になびく美しい黒髪、通った鼻筋と長いまつげが印象的な横顔。その横顔がふいにこちらに向いて、圧倒的な美の光を放ちつつ、無邪気な微笑みを浮かべた小さな顔を見せる。ただ、それは自分にだけ向けられたものではなく、時には友人に、時には花や小さな生き物たちに、そして、多くの場合、良からぬ下心を持って近づく男たちにも、皆等しく向けられた。形容するなら(陳腐そのものだが)〝清らかな天使〟だ。彼、鹿島優士郎が二十七年間生きてきた中で、未だに脳裏に浮かんでくる初恋の女の子だった。


〝おい、鹿島┅┅おいっ、なにぼけっとしてる〟

 鹿島優士郎は、はっと我に返ってツールバングルに目を向けた。

「これは隊長┅┅いや、その、ランチの後の優雅なお茶を楽しんでいたところです。何か、ありましたか?」

〝用が無いなら、お前なんぞに連絡するか、ばか者っ〟

「ひゃあ、そいつはどうもです┅┅で、何事ですか?」

〝紫龍だ〟

 その名を聞いて、優士郎の表情は一変した。

「どこです?」

〝横浜、ハーバーホテルだ〟


 聞くが早いか、優士郎は喫茶店を出て車に飛び乗っていた。

〝おい、あせって、台無しにするなよ〟

「わかってますよ。今日こそ逃がさない、あのクソ野郎┅┅」

〝飯田と酒井が見張っている〟

「了解、一旦切ります」

 どんなに特殊な電波を使っても、傍聴されると考えてよい。面倒さえいとわなければ、全ての使用可能電波帯をレーダーとパソコンを使って拾い上げていけば、必ず見つかるのだ。


 鹿島優士郎は、警視庁組織犯罪対策課特別捜査隊、いわゆる特捜隊に所属する警察官だ。特捜隊もいろいろな班に分かれているが、彼は特殊捜査班で特殊処理係という仕事に就いていた。これは八年前、外事第二課からの要請を受けて臨時に設置された係で、正式には庶務の補佐係として届けられている。優士郎で二代目だった。

 

 どんな係か、簡単に言うと、普通に解決するのが難しい犯罪、例えば人質を取って立てこもるとか、外国籍で治外法権地に逃げ込む可能性がある犯人とかを処理するというものだ。もっと簡単に言うと、普通のやり方では処罰できない犯罪者を内密に始末する殺し屋、スナイパーである。


 SWATのようなスナイパー集団はもちろん他の部署にもいる。しかし、彼らはあくまで犯人を逮捕・捕縛するというのが目的で、殺すのはやむを得ない最終手段だ。しかし、鹿島の場合は、最初から殺すことが目的だった。だから、彼が現場へ出て行くのは、どうにもならない時だけだ。

 

 もちろん、どの部署も自分たちの仕事は自分たちの手で何とか解決したいと必死に頑張っている。だから、鹿島に仕事を依頼するということは耐えがたいほどの恥を忍んだ結果なのだ。それゆえ、依頼の対象がこの世から消えるまでの経緯は表には出ない。適当に創作されたシナリオと結果だけが公表される。だから、鹿島の存在は世の中には全く知らされていない。


 鹿島優士郎は、警視庁の奧の深い闇の中にいる。だが、普段の彼は、勤務時間中もほとんど外で遊び回り、署内の女の子たちからはしょっちゅう絡まれて逃げ回っている。彼の正体を知る者は、ごく一部の者たちだけだ。彼らは、鹿島のことを密かに鬼鹿島オニカシマと呼んで恐れ、尊敬していた。それがいつしか裏社会の連中に伝わって、オニガシマに変わったのだろう。鬼ヶ島の鬼は、まだ二十七になったばかりの若者だった。

 

 黒の特注ハイラックスエースが、夕暮れの道を走ってゆく。暗く重い冬の空が行く手に垂れ込めている。やがて、雨に混じって湿った雪がフロントガラスに落ち始めた。

 海岸通りに入ったところで、渋滞に捕まった。焦っても仕方がないと分かってはいるが、思わずハンドルを何度も叩いてしまう。三年前のあの時と同じだ。あの時も雪が時折舞い落ちる寒い夜だった┅┅。

   

   2

 

 優士郎は、幼い頃から容姿端麗、頭脳明晰、運動神経も抜群で、何をやらせてもそつなくこなす一種の天才少年だった。中学、高校、そして大学に入った頃には、いつも大勢の女の子に囲まれて、それなりの経験も重ね、傍目から見るとうらやましい青春時代を過ごしているように見えた。しかし、彼の心はいつも満たされない乾きに苦しんでいた。


 彼から見ると、女は常に愛されることを求めるだけの存在だった。もちろん彼の周囲の女たちのことである。彼は優しかったので、出来るだけ周囲の女たちを悲しませないよう努力した。その結果、大学の三年生になる頃には、彼は疲れ果ててしまっていた。そんなときだった、小野真由香に出会ったのは┅┅。


 当時、真由香は、優士郎より五つ下の高校一年生。母子家庭で、裕福でない家計を支えるため、バイトを二件掛け持ちでやっていた。それは春の終わりのある日、真由香がドーナツ店のバイトを終えて、次のバイト先の居酒屋に向かっていたときのことだった。


 バイト先に近い夜の公園で、六歳くらいの女の子が一人ブランコに揺られていた。人通りが割と多い公園だが、こんな時間に一人はさすがに危険である。

「こんばんは┅┅ねえ、君一人?あっ、待って┅┅お姉ちゃんは悪い人じゃないよ」

 真由香は逃げようとする女の子のそばにかがみ込んだ。

「誰かを待ってるの?」

「┅┅お母ちゃん┅┅」

「そっか┅┅お母ちゃん待ってるんだ┅┅お母ちゃんどこ行ったの?」

 女の子は黙って公園の脇にある建物を指さした。そこは、パチンコ店だった。

「(ああ、よくあるやつだ┅┅)もう、困ったお母ちゃんだねえ。でも、ここは危ないから、中に入って待ってようよ。」

「やだ、やだあ┅┅だって、タバコ臭いんだもん┅┅」

「ああ、そっかあ┅┅確かにあれはきついよねえ。ううん┅┅どうしたらいいんだ┅┅」


 真由香は、携帯に目をやる。もうバイトに遅刻しそうな時間だった。しかし、少女をこのまま置いていく訳にはいかない。

「よし、じゃあ、お姉ちゃんも一緒に、お母ちゃんが出てくるまで待ってやるよ」

 少女はとまどったような表情でじっと真由香を見つめた。しかし、彼女を見つめる優しい微笑みに、今度はうれしさでいっぱいになって大きく頷いた。

「おおきなクリの木の下で、あなたとわたし、仲良く遊びましょう┅┅」

 真由香と少女は、夜の公園の外灯の下でいろいろな遊びをし、歌を歌った。自分も幼い頃、母の帰りを一人待つ寂しさは知っていたので、真由香にとって、目の前の少女はその頃の自分のように思えた。

 バイト先には、急用で休むと連絡し、パチンコ店が閉まる二十二時まで少女につきあうことに決めた。そして、運命の糸車は二つの糸をより合わせながらゆっくりと回り始めた。


 二十一時を少し回った頃、真由香は背後から近づいてくる足音に気づいて、少女をかばうようにしながら後ろを振り返った。白いジャケットを羽織った大柄な男と、派手なプリント柄のシャツにサングラスの痩せて背の高い男が、口元に下卑た笑みを浮かべながら近づいてきた。

「こんな所に、家出の姉妹か?一晩の宿に困っているなら、世話してやるぜ、どうだ?」


 真由香はとっさに逃げようとしたが、サングラスの男に素早く行く手を遮られた。

「どいて下さい、大声を上げますよ」

「おお、なかなか肝がすわった姉ちゃんだな┅┅ふひひ┅┅やってみるがいいさ。今どき、他人を助けようなんて奴がいると思うか?関わり合いにならないように、見て見ぬ振りしかできねえんだよ、小市民って奴はな┅┅」

 白いジャケット男はそう言うと、ちらりとジャケットの内側にある白鞘のドスを手に取る仕草を見せた。

「姉ちゃんがおとなしく言うことを聞いてくれたら、何もしねえよ」


 少女はすっかりおびえて、ひくひくと胸を震わせている。

(この子に危険を及ぼすことは絶対に出来ない┅┅)真由香は覚悟を決めて男に向き合った。

「分かったわ┅┅まず、この子をそこのパチンコ屋に連れて行かせて。この子は妹じゃないの。パチンコをやっている母親を待っているのよ」

「よおし、安心しな。俺が連れて行ってやる、さあ、来な、ガキ┅┅」

「いやぁだあ、いやああ┅┅お姉ちゃん、お姉ちゃん┅┅」

 泣き出した少女を無理矢理連れて行こうとするサングラスの男に、真由香はその腕をつかんで引き止めた。

「やめて、わたしが行くから┅┅。あなたたちだって、目立たない方がいいでしょう?」

「へっ、そんな手に乗るかよ。パチンコ屋でへたに大声出されたら困るんだよ。こうなったら、そのガキも一緒に来てもらうぜ」


 真由香は絶体絶命のピンチに、どうすればいいか、頭の中でめまぐるしく考えた。下手に騒いで少女にケガをさせるわけにはいかない。かといって、このまま男たちにどこか分からない所に連れて行かれるわけにもいかない。やはり、ここは自分が犠牲になって、少女を逃がすしかない。

「わたしが何をすれば、この子を逃がしてくれるの?」

「そいつは後のお楽しみだ┅┅へへ┅┅まあ、お前ぇがおとなしく言うこと聞くってんなら、そのガキは放してやるさ」

「いいわ┅┅」

 真由香はそう言うと、かがみ込んで少女を見つめた。

「さあ、お母さんの所に行っていいよ。怖い思いさせてごめんね」

「┅┅でも┅┅お姉ちゃん、悪い人達にひどいことされない?」

「ふふ┅┅心配してくれてありがとう。お姉ちゃん、大丈夫だから┅┅さあ、行きなさい」

 少女は手で涙を拭うと、なおも心配そうに振り返りながら、パチンコ店の方へ歩いて行った。

「よおし、じゃあ、姉ちゃん、行こうぜ」


 男たちが真由香を両側から挟むようにして、反対側の出口へ数歩歩き出したときだった。

傍らの木陰から、黒いジャケットに白のTシャツ、ダメージジーンズのストレートパンツを穿いた背の高い若い男が現れた。

「何だ、てめえは┅┅」

「ああ、いや、通りがかりの学生です。ちょっと前から、様子を見ていたんですが┅┅その子はかなり危険な状況のようですね」

「┅┅ケガしたくなかったら、失せろや┅┅」

「うーん、まあ、これも何かの縁でしょうから、その子を助けようと思います」

「ああん?ふざけるなよ、なめやがって┅┅」


 サングラスの男が前に出て、白ジャケットの男は左手を真由香の首に背後から手を回し、いつでもドスを使えるように右手はジャケットの内側に突っ込んでいた。

 真由香は突然の成り行きにあっけにとられていた。これが、幸運なのか不運なのか、神様にゆだねる他はなかった。


 鹿島優士郎はその日、大学の講義が終わると、約束していた杉原怜奈とのデートの場所に向かった。怜奈は私立の名門大学の四年生で、都内有数の不動産会社の社長令嬢である。優士郎と同じ学部の同級生に怜奈の弟がいた。その弟と親しくなって、杉原家にもちょくちょく出入りするようになり、自然に怜奈とも親しくなったのである。

 怜奈は年上ということもあって、常に優士郎より上の立場であろうとした。だが、その実、心の内はいつも戦々恐々で、優士郎というめったに出会えない〝いい男〟を何とか自分の下に引き留めようと必死だった。

 その日も、さんざんわがままを言って優士郎を振り回したあげく、夜は一緒にホテルに泊まってもよい、と誘いをかけてきた。優士郎は、怜奈と将来の契約を交わす気はさらさら無かった。彼がきっぱりと断ると、怜奈はプライドを傷つけられてヒステリックに怒り出し、二度と杉原家に顔を出すな、と捨て台詞を吐いて帰っていったのである。

 優士郎が、たまたまその公園のそばを通りかかったのは、そんな気分が落ち込むデートの帰りだったのだ。


 サングラスの男がつかつかと優士郎に近づいてくる。おそらく、胸ぐらをつかんで少し脅せば、逃げ出すはずだと考えているのだろう。案の定、男は優士郎のTシャツをつかんで顔を近づけてきた。

「┅┅っ、ぐわああっ┅┅」

 一瞬のうちに体制が入れ替わるのと同時に、苦痛の声が上がる。優士郎はTシャツをつかんだ男の腕を後ろにねじ上げて、背後から男の両膝の裏を足刀で蹴り、ひざまずかせていた。もがこうとすればするほど、腕が極まって痛みが増した。

「┅┅てめえ」

「さあ、その子を放せよ。こいつの肩、折れちまうよ」


 優士郎は高校生の頃から、ある古武術を学んでいた。東軍流柔術を現代の護身術として進化させようという一派の道場に通ったのである。すでに、彼の腕前は師範をしのぐほどで、総合格闘技のプロの試合に出る資格も持っていた。

「はあ、てめえ馬鹿か?この女の首にこいつが食い込まないうちに、とっとと失せやがれ」

「うーん、小物の常とう手段ですねえ。そんなもの脅しにもなりませんよ」

「な、なんだと┅┅」

 白ジャケットの男が驚いて瞬きした瞬間だった。優士郎の姿が一瞬にして消え、次の瞬間、背後からこんなささやきが聞こえてきた。

「さあ、おとなしくこの手を上に上げなさい。さもないと┅┅大事な物がつぶれてしまいますよ」

 優士郎は男の背後から、右手で男のドスを持つ右手をつかみ、左手は男の股間を下からつかんでいた。少しでも抵抗すれば、睾丸どころか、右腕の骨も折られそうなほどの握力だった。

「ジョ、ジョージさん┅┅」

「や、やめろ、キム┅┅何もするな┅┅わ、わかった┅┅言うとおりにする」

 男は両手を挙げて真由香を解放した。

「君、早く行きたまえ。おっと、キムさんとやら、動くと、この人のキンタマつぶれちゃうよ」

「ぐわあああ┅┅やめろおお、た、たのむうう┅┅」

 真由香は生きた心地も無く、がくがく震える足をひきずりながら、なんとかその場から離れていった。


 少女が公園の外に出るのを見て、優士郎は白ジャケットの男を解放した。

「くそう┅┅何者だ、てめえ┅┅」

「いや、だから、さっきも言ったじゃないですか、ただの通りがかりの学生です」

 男たちは、真由香が出ていった方向と優士郎を交互ににらみながら、しばらく歯を食いしばっていた。

「┅┅いいか、てめえの顔は覚えたからな┅┅首を洗って待ってろ。おい、行くぞ┅┅」

 ジョージと呼ばれた男はそう言い残すと、キムという男とともに去って行った。


優士郎は男たちが通りに出るのを見届けてから、反対方向に歩き出す。

「やれやれ、もうしばらく用心棒をしてやりますか┅┅」

 公園を出た優士郎は、辺りを用心深く見回した後、商店街の方へ歩き出した。


「あ、あの┅┅」

 ビルの角を曲がったところで、横合いから飛び出してきた人物に驚いて立ち止まった。

「ええっ┅┅な、なんで、君はまだこんな所に┅┅」

 それは真由香だった。公園を出た後、ビルの陰から優士郎と男たちの様子を見ていたのである。

「あの、御礼を言わなくちゃ、と思って┅┅」

 優士郎はため息をついて頭を抱えたが、次の瞬間、真由香の手をつかむと商店街に向かって歩き出した。


「ちょ、ちょっと、どこへ┅┅」

「あのね、あの手の奴らはしつこいんだよ。メンツとかいう安っぽいプライドを大事にしているからさ。うろうろしてたら、また捕まるだろ?わかるかい?」

「わ、わかったから、放して┅┅」

 優士郎は立ち止まって少女の手を放すと、辺りを見回してから少女に目を向けた。

「あそこに〝ティサロン・ロゼ〟って店があるだろう?そこに入って待っててくれ。僕はしばらく奴らの動向を確かめた後で行くから。絶対、店から出たらダメだよ」

 真由香はただうなづくしかなかった。優士郎は真由香が店に入るのを見届けると、商店街の方へ歩き出した。


 真由香はそのこざっぱりした喫茶店に入ると、一番奥の二人用のテーブルに着いた。静かなシャンソンが流れ、客もカウンターに三人座っているだけだ。ようやく、体の震えも収まり、真由香は小さくため息をついた。


「いらっしゃい、何かご注文は?」

 びくっとして顔を上げると、この店のマスターだろうか、初老の男が優しい笑みを浮かべてお冷やとおしぼりをテーブルに置くところだった。

「あ、あの┅┅ミルクティを┅┅」

「かしこまりました、すぐにお持ちします」


 マスターが頭を下げて去って行くと、カウンターに座っていた客の男の一人が、興味深そうに真由香の方に目を向けた。

「こんな時間に一人で珍しいね。君、高校生くらいだろう?」

「えっ┅┅あ、はい┅┅」

「なにも珍しくなんてないわよ┅┅今どきの女子高生は夜中までわいわい遊び回ってるんだから┅┅ねっ」

 男の隣に座っていた四十過ぎくらいの女が、真由香の方を向いて言った。

「あ、いえ、わたしは、その┅┅」

 本来なら、自分も遊びではないが、今頃居酒屋でバイトをしているところだったので、女の言葉を肯定も否定もできず、真由香は言葉に詰まってうつむく。

「ふむ┅┅何かわけ有りって感じ?┅┅にしても、美少女だねえ、いやあ、興味を引かれるねえ、なんとも┅┅」

「なに、馬鹿なこと言ってんのよ。こんな美女が隣にいるっていうのに┅┅ごめんね、こいつ、自称天才小説家の変人だから、気にしないでね」

「あ┅┅あはは┅┅いえ、大丈夫です┅┅」

真由香がそう言って小さくため息をつき、自分の手に目を落とした直後だった。


 ドアベルの音が小さく響いて、背の高い若者が店の中に入ってきた。

「おんや、まあ、優ちゃんじゃないかい、久しぶりだねえ」

「きゃあ、優士郎くーん、お、ひ、さー┅┅」

 優士郎はなじみの客たちに挨拶しながら、真っ直ぐに奥のテーブルへ歩いてきた。

「もう、大丈夫だ。遅くなると、親御さんが心配される。タクシーで送るよ」

「あ、いいえ、大丈夫です。一人で帰れます」

「どうやって?」

「どう┅┅やってって┅┅えっと、家は割と近くなんです。それに、いつもはバイトで、その、まだ遅い時間に帰ってるから┅┅」

「いや、それ、答えになってないし┅┅自分がいかにこれまで幸運だったか、自慢にしか聞こえないんだけど」

「な┅┅わ、わたしが、なんでそんなこと自慢しなくちゃいけないんですか?馬鹿みたい┅┅」

「とにかく、そんなリボンを付けたおいしそうな七面鳥を飢えたオオカミどもの中に放り出すような真似はできない。送っていく」


 真由香は、女だからとか、女のくせにとかいう男中心の価値観にはがまんがならなかった。今、目の前にいる若者は、確かに危機を救ってくれた恩人であり、テレビで見るアイドルを何倍にも格好良くしたようなイケメンだったが、女だからと特別扱いされるのは嫌だった。

「いいえ、結構です。自分で帰ります」

 優士郎は、驚きとちょっとした感動を覚えながら、目の前の少女を見つめた。先ほど、公園で小さな女の子に見せた彼女の春風のように暖かで、優しい笑顔に、優士郎は心ときめかせたものだ。そして、今、彼女は凛として、どんな男も簡単には寄せ付けない気高さを見せて、優士郎を驚かせたのである。今まで、優士郎の周りにはついぞ見なかったタイプの女の子だった。

「な、何ですか?┅┅急に黙り込んで┅┅」


 真由香は自分を見つめる若者の目に思わず見とれそうになって、あわてて目をそらした。

 優士郎はにっこり微笑むと、真由香の向かいに座った。

「わかった┅┅じゃあ、君は一人で帰るといい。僕は勝手に後をついて行く」

「ええっ、それって、送りオオカミ?それともストーカーってやつじゃ┅┅」

「君、失礼だな」

 さっきから、カウンターの方からはこらえきれない笑い声が漏れていたが、ついにそれが爆発した。いつも冷静なマスターまでが口を押さえて笑っていた。


「はい、お待ちどおさま。優君も何か飲むかい?」

 マスターが大きめのカップにミルクティとチョコレートケーキを持ってきて、真由香の前に置いた。

「あ、あの、ケーキは頼んでませんが┅┅」

「ああ、それ、マスターのサービス。初めてのお客さんには、お見知りおきをということでケーキを付けてくれるんだよ」

 カウンター席から、自称天才小説家が答えた。

「そういうことです。優君は、いつものでいいかい?」

「うん、お願いします」


 マスターが去って行くと、優士郎はあらためて目の前の少女を見た。緩やかなウェーブがかかったロングヘヤー、化粧っ気は全く無かったが、健康的な肌のつやと神が丹精込めて造った一つ一つのパーツが、小さな顔に見事な配置で並んでいたので、今、誰かに彼女が有名な女優、またはアイドルだと言われても、疑わないだろう。


 その優士郎の感想と全く同じ思いを、真由香は優士郎に対して抱いていた。まず、登場のしかたがカッコ良すぎだろう。テレビドラマや映画でしかお目にかかれないようなシーンで、絵に描いたようなイケメンヒーローが悪人をやっつけるベタな設定(い、いや、あれは現実で、自分はまさに地獄に入る一歩手前だったけれど)。


 真由香はあらためて恐怖に背筋が寒くなるのを感じながら、ミルクティを一口飲んだ。

「とりあえず自己紹介ね。僕は鹿島優士郎、大学三年生」

「小野真由香。高校一年生です」

「怖かった?さっきの┅┅」

「あ、当たり前じゃないですか┅┅あんなこと初めてで┅┅死ぬかと思って┅┅」

 真由香がうつむいて涙ぐみそうになるのを見て、優士郎はあわてながら、真由香に出されたケーキを彼女のティスプーンで一口サイズに切り、口に運んだ。

「うん、うまい。ほら、君も食べてみな」

 真由香はあっけにとられて、端が削り取られたチョコレートケーキを見た。出そうになっていた涙が引っ込んだ。


「はい、お待ちどお。アールグレイだよ」

 マスターが優士郎の前にティカップとレモンの形の可愛いケーキを並べる。

「やった、マスター、これサービス?」

「どうしようか┅┅今、その子のケーキ勝手に食べちゃっただろう?このレモンケーキは、弁償として、君がその子におごってあげるってのはどうだい?」

「ええっ┅┅た、たった一口なんですけど、食べたの┅┅」

 優士郎の情けない声に、また客たちはどっと笑い声を上げた。

「冗談、冗談┅┅どっちもサービスだよ。仲良く分け合って食べるといいよ」

 真由香は店の中の人たち全員が、それとなく自分に気を使ってくれているのを感じながら、温かい気持ちに包まれた。


 真由香はわが家に向かって歩きながら、何度もため息をついていた。

 思いもかけない危機に遭遇し、思いもかけない人物に助けられ、思いもかけず、喫茶店で楽しい時間を過ごした。それらが、ここ数時間の内に起こった出来事なのだ。なにか現実でないような、不思議な気持ちだった。そのうえ┅┅。

「ねえ、バレバレなんですけど┅┅もう┅┅いいから、ここに来て下さい」

「いいの?並んで歩いてくれるのかい?」

 真由香の二十メートルほど後ろを離れて歩いていた優士郎は、うれしそうに走ってくる。


 さっき、喫茶店の前で普通に別れたが、真由香は必ず優士郎が後を付けてくると思って、それとなく後方に気を配っていた。ところが、優士郎の尾行はあからさまだった。物陰から物陰へというのが、刑事ドラマなどでよく見かける尾行のやり方だが、優士郎はただ離れて歩いてくるだけだった。

 真由香はまた小さなため息をついて、うれしげな若者の顔を見上げる。

「今夜だけですから。約束して下さい」

「うん、分かった、約束」

 優士郎は片手を上げて誓った。


 二人はほの暗い住宅街の道を並んで歩き出す。まだ、外気は肌寒く、吐く息がほんのり白く見えていた。

「あの、一つ訊いていいですか?」

「うん、一つでも、二つでも、十コでもいいよ」

「い、いいえ、そんなには┅┅ええっと、なぜ、あの公園にいたんですか?」

「ああ┅┅うん┅┅正確には、いたんじゃなくて、ほんとに偶然に通りかかっただけなんだ┅┅でも┅┅」

 優士郎は、そこで言いにくそうに言葉に詰まった。

「┅┅こんなこと言うと、君は必ず余計な警戒心を起こす。だから、やめとく」

「ええっ、それ、卑怯ですよね、そこまで言っておいて。それに、勝手にわたしの反応を決めつけるのはやめて下さい┅┅」

「あれれ┅┅怒らせちゃった┅┅」

 優士郎は頭をかきながら、少しだけ後ろに下がって歩き出す。

 真由香が立ち止まって振り向き、優士郎をにらむ。

「怒ってません」

「えっ┅┅いや┅┅それ、怒ってるよね┅┅」

「怒ってなんかいません。怒るわけないじゃないですか┅┅あなたは、わたしを助けてくれた恩人です。ほんとに感謝してるんです┅┅ごめんなさい┅┅あんまり男の人と話したことないから、うまくお話できなくて┅┅」


 優士郎はしばらく新鮮な感動を味わいながら真由香を見つめていた。そして、優しい気持ちで微笑むと、こう言った。

「君を助けて良かった┅┅今、心からそう思っている。さっきの質問に正直に答えると、帰る途中の公園で、小さな子と遊んでいる女の子をたまたま見かけた。しばらく見ていたら、その女の子が笑ったんだ┅┅まるでそこだけ暖かい日差しが照らしているような、そんな笑顔だった。僕は公園に入って、木陰のベンチから女の子を眺めていた┅┅〝一目惚れ〟っていうやつかもしれない。とっても心地いい時間だった。ところが、そこへ例の奴らが現れて┅┅後はご存じの通り、っていうわけ」


 真由香は途中から顔が赤くなるのを感じて、うつむきながら聞いていた。

「あ、ありがとう┅┅その┅┅正直に答えてくれて┅┅でも、やっぱりストーカーの素質はありそうだけど┅┅」

 再びゆっくりと歩き出しながら、真由香は小さな声で言った。

「ああ┅┅それは否定できないかも┅┅でも、安心していい、君が僕を嫌いだとはっきり言ってくれたら、僕は二度と君に近づかない、誓うよ」

 そう言うと、優士郎は真由香の前に回り込み、かがみ込むようにして彼女に顔を近づけた。

「で┅┅」

「で?」

 真由香はのけぞるようにして、まだほんのり赤い顔を上げた。

「僕と付き合ってくれないか?」


 予想できた展開だったが、真由香の心は複雑だった。しばらく下を向いて考えてから、おもむろに顔を上げた。

「ごめんなさい┅┅」

「あちゃああ┅┅即答かあ┅┅やっぱり、もう好きな人がいるんだあ」

 冗談ぽく両手で頭を抱え、夜空を見上げながらも、優士郎は本気で落胆していた。

「あの┅┅そうじゃないです┅┅あなたとわたしなんかじゃ釣り合わない、わかるんです┅┅」

「ああ、それは断るときの常とう文句だね┅┅ううむ┅┅でも、あきらめきれない┅┅」

 優士郎はしばらくの間、真由香に背を向けて考え込んでいたが、やがて顔を上げると振り向いて言った。

「じゃあ、お試し期間てのはどう?ほら、通販とかであるだろう?ひと月使ってみて、気に入らなければ返品するって、あれ。試しに一ヶ月付き合ってみて、やっぱりダメって言うなら、きっぱりあきらめるよ。いや、あきらめきれないけど、あきらめる。君を心の中だけで想うことにする。心の一番大切な所に置いて、毎日拝むだけにするから┅┅だめか?」

 真由香は思わず吹き出し、しばらく顔を覆って笑い続けた。

「┅┅ふう┅┅ほんとに┅┅変な人┅┅」

「いや、自分ではきわめて健全かつまともな人間だと思ってるんだが┅┅」

「はいはい┅┅ふふ┅┅」


 真由香はしばらくうつむいて考えていたが、やがて顔を上げた。

「わかりました┅┅何の取り得もないわたしですが、よろしくお願いします」

「よしっ┅┅よしっ。こちらこそ、よろしく。ああ、僕は、何か取り得はあると思う、見つけてくれるとうれしい。それに、君は取り得ばかりだ。これから、君がそれを自覚できるように教えていってあげる」

 真由香は笑った。

 それは、優士郎が一目で恋に落ちた、あの春の日差しのような笑顔だった。


 優士郎は、この時の幸せな気持ちを今でも時々思い出す。そして、その度になんとも切なく、胸を締め付けられるような絶望感に襲われるのだった。

 ともあれ、二人は一ヶ月という期間限定で付き合い始めた。付き合うといっても、二人とも学生で、しかも真由香はバイトを掛け持ちしている状況だったので、デートをする時間もなかなかとれなかった。しかし、優士郎は、生まれて初めてと言っていいほど努力した。二人の時間を作り出すためには犠牲を払うこともいとわなかった。


 そうして、一ヶ月があっという間に過ぎていった。

 真由香はその日も学校が終わると、すぐにバイト先のドーナツ店に向かった。ちょうど梅雨の始まりを迎え、今にも雨が降り出しそうな空とじっとりとまとわりつくような湿気の多さで、憂鬱な気分になる日だった。

「どうしたの、真由香ちゃん?元気ないわね、学校で何かあったの?」

 真由香が何度目かのため息をついて、レジから離れたとき、バイト仲間で先輩の坂本さんが問いかけた。

「ああ、いいえ、たいしたことじゃないんです┅┅」

「そお?もし話して少しでも気が晴れるなら、聞いてあげるから、遠慮しないでね」

「はい、ありがとうございます。そのときは、愚痴を聞いて下さい」


 真由香が不機嫌なのは昨夜からだった。

バイトから帰って、風呂に入り、部屋で髪を乾かしながら、いつもの日課でスマホをチェックしていた。

「あれ?」

 真由香はドライヤーを一旦止めて、SNSの画面を何度も見直す。いつもなら、しつこいくらいに入っている優士郎からのメッセージが、前日の夜を最後に入っていない。こんなことは初めてだったので、真由香は少し心配になった。まさか病気とか、事故とか┅┅。

〝すぐに返事を下さい〟、真由香は優士郎に短いメッセージを送った。この時になって、彼女はまだ優士郎と電話番号を交換していなかったことをひどく後悔した。付き合い始めてすぐの頃、優士郎から電話番号を交換したいという申し出を受けたが、彼女はなぜかその時、それを拒否した。彼には〝お試し期間が終わったら〟と気を持たせるようなことを言ったが、それは本当の気持ちではなかった。


 彼女は怖かったのだ。もし、お試し期間が終わって、二人が結局別れることになったとしたら、彼女は優士郎の電話番号を消してしまう勇気がなかった。お試し期間など、初めから真由香にとっては無意味だった。あの夜、付き合うことを承諾したときから、真由香は、彼から捨てられることはあっても、自分の方から彼と別れることを言い出すことはない、と心に決めていたからだ。


 しばらくして、優士郎から返事が返ってきた。

〝何かあったのか〟

 当然の反応だろう。〝すぐに返事を下さい〟ということは急用だということだ。

 真由香はほっと安心すると同時に、少しすねて甘えたい気持ちになった。

〝何かないとメッセージくれないの?〟

〝いや、そんなことはない。ごめん〟

〝昨日もおとといも会ってないんだよ。いっぱいお話したいよ〟

〝うん、僕もだよ〟


 その後、二人はSNSを使って他愛もないおしゃべりを二十分ほど続けた。その間、真由香は何度も優士郎に電話番号を送ろうと思った。直接声を聞いて、話しをしたかった。でも、最後の所で勇気がでなかった。そして、優士郎からこんなメッセージが届いた。

〝お試し期間、明日で最後だね〟

 真由香は、どう返事していいか迷った。彼女にとってはあまり意味のない日だったが、もしかすると優士郎はこれで自分との付き合いを終わらせるつもりかもしれない。そう考えると、急に怖くなった。この一ヶ月の間の、優士郎との夢のように楽しい思い出が浮かんでは消えていった。

〝そうだね〟

 結局、真由香は普通の返事を返した。そして、それっきり優士郎からのメッセージは来なくなったのだ。真由香も最悪の展開が怖くて、それっきりメッセージを送らなかった。

 

悶々としてドーナツ店でのバイトを終えた真由香は、次のバイト先に向かって大通りを横切り、商店街に向かう路地に入った。この先を抜けたところに、あの公園があった。

 真由香は、まだ夕暮れの明るさがほのかに残った公園の横を歩きながら、優士郎と出会った日のことを思い出し、自分のふがいなさを悔やんだ。

(しっかりしろ、真由香。ふられたっていいじゃない。あんな格好いい人、もともとあなたには荷が重かったのよ。そうよ、わかってたことじゃない┅┅)

「真由香┅┅」

 不意に名前を呼ばれて、真由香は立ち止まり、声のした方に目を向けた。

 公園の桜の木の陰から、背の高い若者が出てきた。優士郎だった。


 真由香は泣きそうになって、あわてて歯を食いしばり、そばを通り過ぎる二人連れの若者たちをやり過ごしてから公園に入っていく。

「あなたって┅┅いっつも木の陰から出てくるのね┅┅」

「ああ┅┅あはは┅┅そうかな┅┅きはながーい友だち、ってね┅┅」

 ふざけた調子で言った後、真由香の方をちらりと見ると、彼女はうつむいて唇を震わせている。優士郎は女心の複雑さに、なすすべも無かった。

(ああ、もう、わかんねえ┅┅こうなったら、討ち死に覚悟で直球勝負といくか)

「あ、あのさ┅┅君もこれからバイトだろう?時間がないから、い、今訊いていいかな?」

 真由香は今にも泣きそうな顔を上げ、こくりとうなづいた。

「じゃ、じゃあ、どうぞ┅┅」

「えっ?何が?」

「えっ?何がって┅┅何?」

 優士郎も真由香も、相手が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

「いや、だから、今日は、お試し期間最後の日だよ」

「うん、そうだよ」

「だから┅┅はい、どうぞ」

「何が?」

「はあ?」

「はあ?」

 二人は顔を突き合わせて、同時に首をひねる。そして、思わず相手の顔にうっとりと見とれた。


「あ、あの┅┅ロゼに行かない?」

「う、うん、いいけど┅┅バイトは?」

「休む」

 優士郎はガッツポーズをしようとして、やめた。

「ちょっと待ってくれ。まさか、ロゼで、宣告するつもりなのか?」

「えっ、何を?」

 優士郎は両手で頭を押さえながら、すっかり夜の色になった空を見上げた。

「ああ、そうか┅┅皆が見てれば、さすがに心もポッキリ折れるよなあ┅┅」

「ねえ、さっきから、何言ってるの?」

「だから┅┅返品するかどうかの返事を┅┅」

 真由香はやっと優士郎が何を言いたいのか理解して、思わず笑い出しそうになった。

(この人、わたしから振られるって、本気で思ってたのかなあ?逆に、わたしが心配してたなんて考えもしなかったんだよね)

「あのね┅┅」

「う、うん」

 外灯の明かりが、横から照らし、お互いの端正な顔を浮かび上がらせている。

「返品なーし。今後とも末永く使わせていただきますので、どうぞ、よろしくう」

 優士郎はほっと息を吐いて、空を見上げる。

「おおおっしゃああ」

 今度こそ盛大なガッツポーズで、優士郎は雄叫びを上げた。

 

     3

 

 渋滞からようやく抜け出して、優士郎の車は港線に入った。

ターゲットの男は、優士郎がこの仕事を始めた二年前から、ずっと追い続けてきた相手だった。名はパク・リュウシン、韓国籍の在日二世で日本名を紫門龍仁、裏社会では〝紫龍〟の名で通っていた。

表の仕事はマジシャン。その端正な風貌と卓越したテクニックで、世界を股にかけて活躍していた。だが、裏では、麻薬の密売、売春組織の構築、マネーロンダリングなど、ありとあらゆる悪に手を染めていた。やくざやマフィアを裏で操るほどの金と権力を持ち、邪魔者は容赦なく殺した。しかも、証拠は決して残さず、実行した者たちも多くの場合、口封じのため殺された。


 これまで、優士郎は何度も紫龍を狙撃するチャンスに遭遇したが、ことごとく失敗に終わった。紫龍は、自分を狙う刺客も多かったので、徹底した対策をとっていた。しかも、得意のマジックを使ったものも多く、逆に罠にはめられそうになったことも一度や二度ではなかった。

 そして、もう一つ特別な意味で、優士郎にとって紫龍は絶対に倒すべき相手でもあった。


「動きは?」

「あっ、鹿島さん。ええ、まだ動きはありません」

 ハーバーホテルから直線距離で二百メートル離れたビルの一室に、特殊捜査班の二人が張り込んでいた。二人とも情報機器の専門家で、銃の腕も度胸も一流の頼れる仲間だ。

「ほんと、しぶといっすよねえ、紫龍の奴。タイで麻薬密売組織の大規模な摘発があって、いよいよ奴の名前が出て国際指名手配かって思ったら┅┅」

「逆に、下部組織を司法取引で警察に売って逃げ延びた┅┅尻尾切りってやつね」


 若い男女の隊員は、パソコンで複雑な情報機器のチェックをしながら悔しげに言った。

「しかも、いつものごとく、自分の正体を知っている人間は、自殺とか、事故死を装って殺している┅┅いったいこれまでどんだけの数の人間を殺しているんだ、奴は?」

「ほんと┅┅悪魔よね┅┅風貌からして」

「だから、僕たちがいるんでしょう?」

 高解析度の望遠鏡を覗きながら、鹿島がつぶやく。

 若い隊員たちは顔を見合わせ、にやりと微笑んで頷き合った。


「うーん┅┅ここからじゃ、ちょっと確率が下がっちゃうかなあ。無風だとして、着弾までコンマ8弱くらい?」

 鹿島のつぶやきに、女性隊員の飯田が素早くパソコンを操作し始める。

「┅┅はい、コンマ788です。だめですか?」

「いや、だめってわけじゃないんだけど┅┅紫龍だからね┅┅」

 飯田も酒井もその言葉に納得する。これまでに紫龍は鹿島の手の中から三回も逃げ延びている。他のどんな凶悪犯も、一度たりとて逃がしたことのない鹿島の手から。

「どうします?」

 酒井の問いに、鹿島はしばらく下を向いて考え込んだ。

「紫龍は仕事でここへ来たの?」

「ええ、テレビの撮影らしいです」

「撮影はいつ?」

「明日の夜、マジックショーを生中継でやるらしくて┅┅」

「ふむ┅┅二人にちょっとお願いをしていいかな?」

 二人の若い隊員たちは、緊張した顔で見交わし合った。


    4


「奥様、お車の用意ができました」

 執事の老人の声に、まだ年若いこの屋敷の女主人は、二歳の一人娘を抱いて玄関先に出て行く。ほとんど毎日のように、彼女は娘を連れて都内のある病院に出向いていた。そこに入院している母親の見舞いである。


 車の窓から見る街は、あいにくの霙混じりの雨でぼんやりかすんで見える。しかし、店のショーウィンドウやあちこちの飾り付けからは、もうすぐ訪れる冬のイベントへと向かう人々の期待や活気などが感じられた。もう、そうした街の空気や匂いから、ずいぶん長く遠ざかっているように思えて、若い女主人は小さなため息をついた。


「どうしたの、ママ?」

「ううん、なんでもないわ┅┅」

 そう答えて娘の柔らかな髪をなでながらも、彼女の想いは数年前の記憶をたどろうとする。それに必死に抵抗し、今の生活の中にそれと見合うような思い出を探すが、娘の顔や遊ぶ姿にしか、すがりつくものはなかった。やがて、夫の顔が脳裏に浮かんだとき、いつものように、彼女は首を小さく振って強制的に思考をストップさせた。


「ねえ、優衣、おばあちゃんへのお土産、何にしようか?」

「うーん┅┅ケーキ」

「また、ケーキ?」

「だって、ケーキ好きだもん」

「それは、優衣が好きってことでしょう?ふふ┅┅」

 そうなのだ。娘は夫によく似ている。顔立ちは自分にそっくりだが、性格や好みは夫の血を濃く受け継いでいた。無邪気に、気のおもむくままに自分の欲求を追い求める夫に┅┅。

 

    5


「紫龍さん、では、スタッフ会議を始めますのでよろしくお願いします」

 アシスタントディレクターが、ロビーで記者のインタビューに応じていた紫龍を呼びに来た。

「では、失礼するよ」

「ありがとうございました┅┅あっ、そうだ、紫龍さん、撮影は港でやるんですよね?」

 ソファから立ち上がった紫龍は、一瞬の間があって小さく頷いた。

「ああ、そうだ┅┅」

「じゃあ、撮影の後、現場で少しお話をうかがってもいいですか?」

「いや┅┅それは、できない」

「はあ┅┅でも一言、感想とかお聞きしたいのですが┅┅」

 紫龍はその鋭く冷たい目を向けて、若い記者の男を見つめた。

「無理だ┅┅では、失礼」

 にべもなくそう言い放って去って行く紫龍の後ろ姿を見つめながら、若い記者は生き生きとした顔でにやりと笑った。

 

 様々な光がまるで銀河を見るような夜の横浜港。大型客船のデッキに設営された派手なセットで、マジックショーの撮影は始められた。MCのタレントと女性アナウンサーが出てきて、その夜のマジックの概要を説明をした。それが終わると、ドラマチックな音楽やライトアクションの中、いよいよ主役のマジシャンが登場する。


 一方、港から直線距離で約四百メートルほど離れた、市街地の外れのビルの最上階でも、撮影用の照明が明々と点り、数人のスタッフやカメラマンなどが慌ただしく働いていた。

「よし、港の方は順調に始まったぞ。皆、準備はいいかあ?」

 チーフディレクターの声に、スタッフの緊張が高まる。


 その頃、撮影現場である最上階の一つ下の階で、もめ事が起こっていた。

「おい、どういうことだ?打ち合わせ済みで、許可証もこうしてあるんだが」

 黒いスーツを着た人相の悪い八人ほどの男たちが、エレベーターと階段の前に立ちふさがった警官たちに向かって詰め寄っていた。

「ここから先には誰も通すなという上からの命令だ」

「はああ?いいから、テレビ局の責任者を連れてこいっ!ぶっ殺すぞ、てめーらああっ」


 少し離れたところでスマホをいじっていた黒服の一人が、深刻な顔で近くのリーダーらしきサングラスの男に近づいた。

「紫龍さんにつながりません。圏外のマークが┅┅」

「そんな馬鹿なことがあるか┅┅くそっ、なんかおかしいぞ、これ」

 リーダーの男は、ちょっと下を向いて考えた後、近くの二人の男たちを呼んで密かに命じた。

「一人は階段で一つ下の階の様子を見てこい。もう一人はどっかの部屋へ入って┅┅」


 下の階で警護の手下たちが騒ぎ始めた頃、準備のため控え室にいた紫龍も、持ち前の危機回避能力からか、何か違和感を感じ始めていた。

 今頃港では、彼の影武者の男がいくつかのマジックを披露して盛り上げているだろう。彼ももうすぐこちらのビルで、突然空中に現れる特撮シーンの録画を撮る予定だ。

「 サンジン、いるか?」

 紫龍は、ドアの向こうにいるはずのマネージャーを呼んだ。しかし、返事はなかった。

 彼は素早くドアのそばに行くとドアに耳を当てて、外の様子をうかがった。そして、そっとドアを開け、自分は部屋の中にいたまま、思い切り足でドアを蹴り開いた。

 通路には誰の姿もなく、撮影場所である突き当たりの部屋もやけに静かだった。ここにきて、紫龍は何かとてつもない危険が自分に迫っていることを感じた。今までも何回か絶体絶命の危機に陥ったことはあったが、今回は今までに感じたことのない恐怖を感じていた。


 死ぬことは嫌だが、さほど怖くはない。怖いのは相手に自分の醜態をさらすことだ。だから、拷問のように苦しんで死んでいく死に方は一番嫌だし、怖かった。

 その時、かすかに下の階から騒ぎの声や音が聞こえてきた。

「なるほど┅┅ふふ┅┅これは、今まで僕にやられた経験がある相手のようですね┅┅ということは┅┅あの男ですか┅┅」

 紫龍は素早く部屋に戻ると、いくつかの道具をトランクに詰めて外に出た。まずは、屈強な手下たちと合流することが最優先だ。彼はそう判断すると、階下へ向かって廊下を歩き出した。窓から見えないように、窓の下をかがんだ状態で┅┅。

「っ┅┅サンジン┅┅」

 廊下を一つ曲がった所に、血の海が広がり、心臓を一発で打ち抜かれたマネージャーの男が横たわっていた。彼も相当な手練れの暗殺者上がりで、簡単に殺される男ではない。

「ふん、おもしろい┅┅僕が恐怖におびえるとでも?┅┅」

 紫龍は防犯カメラをにらみつけながら、サイレンサー付きの拳銃を取り出して、カメラに銃口を向けた。


「今さらそんなことを言われても……」

「何度も言うようだが、これは官房室からの緊急要請だ。やってもらわないと困る」

 チーフプロデューサーの男は苦悶の表情でテレビ画面を見つめる。そして、あきらめたように周囲のスタッフに向かって叫んだ。

「CMを入れろ。収録を取りやめ、紫龍の過去のマジックショーに切り替える、急げっ」


 非常ベルがけたたましく鳴り響き、スプリンクラーが発動して、通路を豪雨のように濡らし始めた。その階の一室からもうもうと黒煙が噴出し、男たちの怒号と銃声が非常ベルの音をかき消すように響いていた。


 その喧噪から逃れるように、屋上へ向かおうとする男の姿があった。濡れた漆黒の黒髪が肩を覆い、目深にかぶったソフト帽の下から細面の端正な顔立ちがのぞいている。だが、階段の上部を見上げたその人物の目は、野獣のような凶暴さをあらわにしていた。

 彼は屋上への出口の前でしばらく佇み、外の様子をうかがっていたが、やがてゆっくりとドアを開けた。下からは、非常ベルの音や救急車のサイレンの音などが入り混じった騒音が聞こえていたが、屋上は風の音だけが時折聞こえるだけで静かだった。

 彼は辺りをうかがいながら、背を丸めてゆっくりと屋上の端へ向かおうとした。


「手を上げろっ!紫龍っ」

 屋上の出口の建物の陰から、五人の警察官が飛び出し、彼を素早く取り囲んだ。

「┅┅おやおや┅┅なぜ、屋上に避難した一般人を取り囲むのですかな?」

「一般人?ふざけるなっ!貴様の犯した罪はもう上がってるんだよ。さあ、あきらめて手を上げろ」

「ふ┅┅はいはい、わかりましたよ。いったい、どんな罪状で私を捕まえるのか、楽しみにしておきましょう┅┅ふふ┅┅」

 一人の警官が、紫龍と呼ばれた男に近づき、手錠をかけた。

「こちらコードS、コードK応答願います」

〝コードKだ。どうした?〟

「対象者の身柄を拘束しました」

〝┅┅そうか。残念だ┅┅俺は、奴の控え室を調べてから合流する┅┅〟

「了解┅┅コードK┅┅わざと逃がして僕が始末しても┅┅」

〝やめとけ┅┅お前が懲戒処分になるだけだ。どうせ奴は保釈金で外に出るだろう┅┅次のチャンスを待つ、それだけだ〟

 警官に両側から挟まれて去って行く男の背中をにらみながら、まだ若い捜査官の男は悔しげにツールバングルに口を寄せた。

「┅┅了解。じゃあ、ここで待っています。もうすぐ、ヘリが来ると思うんで┅┅」

 通信を切ると、雑誌記者に変装していた特捜隊員酒井はその場に座り込んで、今や黒煙が覆い始めた夜空を見上げてため息をついた。


 鹿島は煙が立ちこめる中を上の階に上がって、紫龍が控え室に使っていた部屋に入った。用心深い紫龍が、その部屋に何らかの犯罪の証拠を残しているとは思えなかったが、今後彼を追い詰めるための何かが、少しでも見つかれば、という思いからだった。


 部屋には、紫龍がマジックに使う道具類と、トランクから出された衣装が散乱していた。鹿島はそれらを細かく点検していった。

 と、ふいにドアが開き、一人の警察官が驚いたように鹿島を見て立ちすくんだ。

「あ┅┅こ、これは、失礼しました┅┅刑事殿でありますか?」

「ああ、いや┅┅特捜班の者だ┅┅この部屋に何か用かな?」

「いえ、自分は逃げ遅れた者がいないか、見て回っているところであります。では、失礼します」

 背の高い警官は、そう言うと敬礼をして去って行こうとした。


「ああ、ちょっと、君┅┅」

 鹿島は肩にかけたアサートライフルを小脇に抱え直しながら、警官を呼び止めた。

 警官の男は立ち止まって、しばらく背を向けたまま立っていたが、やがて、ゆっくりと振り返った。

「何でありますか?」

「ああ、いや、君は何で防弾チョッキを着けていないのか、気になってね」

「あの┅┅自分は、近くの交番勤務でして、緊急に呼び出されてきたもので┅┅」

「ふーん、よっぽどあわてていたんだね┅┅ドレスシューズなんか履いてさ」

 警官の男は終始うつむいて顔を見せないようにしていたが、鹿島の言葉に肩を小さく震わせ初め、やがてこらえきれないように笑い出した。


「┅┅ふふふ┅┅あはは┅┅いやあ、僕としたことが、とんだミスだったねえ」

 警官は帽子を脱いで、顔を上げた。隠していた長髪と女形のような美しい顔が現れる。

「君は、まだ若いね┅┅でも、僕は何度か君に会っている気がするよ┅┅どこでだったかなあ」

 警官に変装していた男は、そう言いながら考えるふりをして右手を上げ、頭へもっていった。直後、二つのサイレンサー銃の音が鈍く響き渡った。

「┅┅っぐう┅┅」


 最初に倒れ込んだのは鹿島の方だったが、うめき声を上げたのは、警官に扮装していた男の方だった。鹿島は銃に撃たれたのではなく、倒れながら相手の利き腕を狙って撃ったのだ。

 にせ警官の男は、左肩を撃ち抜かれてひざまづきながらも、なんとか立ち上がって右手に銃を持ち替えた。

 再びサイレンサーの音が響き、ニセ警官の銃がはじき飛ばされ、右の太ももから血しぶきが上がった。

「ぐわああっ」

 ニセ警官の男は苦痛の声を上げて片膝をついたが、なおもしぶとくよろよろと立ち上がった。そして、身を翻し、片足を引き摺りながら廊下へ逃げ出す。


 鹿島は立ち上がって、ライフルを抱えたまま男の後を追う。

「もう、逃げられないんだ、止まれ。見苦しいぞっ、紫龍っ!」

 鹿島の制止も聞かず、ニセ警官紫龍はすぐ隣の部屋に倒れ込むように入っていった。

 紫龍は、何もない部屋の中で、窓際の壁にもたれかかっていた。


「┅┅思い出したよ、君のこと┅┅」

 鹿島はライフルを小脇に抱えたまま、紫龍を見下ろす。

「私の妻の実家で見たんだ┅┅まだ少し若い頃の君の写真だよ┅┅そうか、君だったんだねえ」

 紫龍は苦痛のために荒い息をしていたが、にやりと微笑みを浮かべる。

「それと┅┅僕はこれまで何度か身代わりの男を殺されてねえ┅┅同じ弾丸だったから、どこかの殺し屋だろうと思って、調べさせたんだ┅┅ずいぶん手間が掛かったよ┅┅ふふ┅┅そうしたら、なんと、その男は┅┅ぐうう┅┅くそっ、痛え┅┅」

 紫龍は体を動かそうとして苦痛に顔をしかめたが、まだしゃべり続けた。

「┅┅犯罪組織の人間じゃなかった┅┅市民を守るべき警察の中にいたんだよ。君はどう思うかね?」

「そいつはとんでもないな┅┅悪い奴だ」

「┅┅そう、悪い奴だ┅┅警視庁は、そういう人殺しを飼ってるんだよ┅┅」

 紫龍と鹿島は、じっとお互いを見つめて向かい合った。


 鹿島優士郎に人の心を捨てて、鬼になろうと決心させた相手が、今目の前にいた。彼から愛する人を奪い、私利私欲のために多くの人の命を奪った悪魔のような男┅┅。

もともと優士郎は、大学を卒業したらIT関係の企業に就職するつもりだった。だが、最愛の恋人小野真由香を紫龍に奪われた後、彼はこの世にはびこる悪を自分の手で、法の裁きの場に引きずり出したいと強く願うようになった。それで、国家公務員試験を受けて合格し、警視庁にキャリア組として就職した。

 最初は警務部に配属され、国賓警備のSPになるべく訓練を受けた。だが、すぐにその飛び抜けた能力が認められ、わずか半年で訓練を終えて実務一班に配置、さらにその半年後、警視総監勅命で組織犯罪対策部特殊捜査隊への転属が決まったのであった。



 与える愛と奪う愛

 

 病室の窓からは、ライトアップされたレインボーブリッジを遠くに見ることが出来た。

その窓の向こうの夕景を眺めながら、ベッドの上のまだ四十の半ばにはなっていない、やつれた顔の女性が独り言のようにつぶやいた。

「もう、母さんのことはいいから、自分と、優衣ちゃんのために時間を使いなさい」

 その女性とよく似た顔立ちの、娘とおぼしきまだ若い女性は、窓と反対側の椅子に座っていた。

「別に、何もすることなんてないから┅┅優衣もお母さんに会うのを楽しみにしてるし、お母さんが気にすることないわ」

 膝の上で眠っている二歳の我が子を見ながら、娘が言う。

 小さなすすり泣きが聞こえ始め、母親が背を向けて体を震わせていた。

「お母さん┅┅」

「┅┅ごめんね┅┅ううっ┅┅ごめんね、真由ちゃん┅┅う、うう┅┅」

 もう何度目だろうか。母親は、会うたびに娘に謝り、娘は謝る必要が無いことを母親に説明する。しかし、母親の後悔の念は晴れることはなかった。娘はその日も小さなため息をついて、病室を後にした。


 帰りの車が渋滞に掛かって、なかなか前に進まない。今の彼女の心のように┅┅。未来に夢を描いていた日は遠く去り、ただ、一人娘のために生きる日々。もちろん、それも一つの人生だとわかっている。だけど、その人生に迷いも無く一歩踏み出すためには、過去を清算する必要があった。


 今でも、彼女は自分の選択が最善だったと信じている。しかし、母親が今でも後悔にさいなまれ、自身も愛した人を裏切った自責の念は深まることはあっても、消える日は一生来ないことも事実だった。あの頃は、自分一人が不幸になっても、母親と愛する人を守れるならいいのだと、無理矢理自分を納得させていた。だが、今になって、少しずつ分かってきたことがある。それは、自分の悲しみは、周囲の愛する人にとっても悲しみなのだということ。だから、真由香は努めて悲しくないように振る舞った。強く生きていこうと頑張った。しかし、真由香は自分が少しも前に進めていないことも知っていた。前に進むためには、やはり、もう一度、過去にけじめをつけなければならなかった、彼に会って┅┅。

 彼女は自分への戒めを破り、過去の思い出の中に沈んでゆく。彼女が紫門真由香ではなく、小野真由香だったころへ┅┅。


 それは、四年前、彼女が鹿島優士郎と付き合い始めて一年半が過ぎた、一月の寒い日だった。家に帰ると、パートに出ているはずの母親がいて、男の来客と話をしていた。客の男は眼鏡をかけ、にこやかな表情で真由香に挨拶したが、彼女はなんとなく嫌な感じを受けた。真由香はその日もいつものようにバイトに出かけたので、その後のことは何も知らなかった。


 その夜、真由香は母親から、都心に近い場所にスナックを開くという話を聞かされた。スナックのオーナーが田舎に引き上げるので、後を引き継いでくれる人を探していたそうだ。とにかく場所が良く、値段も格安で、月々売り上げの十五パーセントを賃貸料として払ってくれればよいという好条件だった。甘い話には罠がある、のは世の常だ。しかし、病弱な自分のために苦労をさせている娘に、何とか楽しい青春時代を過ごさせてやりたいという思いが、その警戒心を踏み越えさせた。


 やがて、一ヶ月も待たず、恐れていた事態が襲いかかってきた。今考えると、それは周到に計画されたものだったのだろう。元のオーナーは実は多額の借金があり、真由香の母親とのオーナー契約が成立したら、借金は後のオーナーが引き継ぐという契約を借金先と交わしていたのだ。後で、母が契約書を詳しく見てみると、実に巧妙な言葉でそのことだと匂わせる文言が確かに入っていた。


 借金先というのが、誰あろう紫龍がオーナーの民間金融会社だった。最初の取り立てにやって来たのは、いかにもその筋の人とわかる黒スーツにサングラスの男だった。その男にさんざん脅されながらも、母親と偶然学校が休みで、デートに出かけようとしていた真由香は、自分たちには金が無いこと、詐欺まがいの手口なので警察に相談しようと思っていることなどを繰り返し訴えて、なんとか追い返した。その三日後、二人の元へ別の男が現れた。それが紫龍との初めての出会いだった。


 紫龍は優しかった。今思えば、最初から真由香が狙いだったのだろう。最初の取り立てに来た男から、真由香の美貌について聞き、興味を持ったに違いない。

 彼は、母親と真由香の訴えを親身になって聞き、同情を示した。そして、条件を一つだけ受け入れてくれたら、借金はすべて帳消しにすると言った。その条件とは、向こう三年間、真由香が紫龍が望むときに、望む方法で慰めるというものだった。

 母親は最初、娘を売ることなどできないと強く拒んだ。しかし、真由香は逆に母親をこう言って説得した。

「大丈夫よ、お母さん。三年間どんな目に合っても、心はあの人以外には渡さない。あの人もきっと分かってくれるから」

 それで、とうとう説得に負けて、母親は泣く泣く娘が紫龍の慰め物になることを承諾したのだった。

 

 以来、一週間に一日の割合で、紫龍は真由香と過ごすようになった。真由香といるときの紫龍は、甘えん坊の子供のようだった。そして、自分が在日韓国人として、いかに差別に苦しみ、つらい子供時代を過ごしたかを語って聞かせた。

 もともと子供好きで、愛情深い性質の真由香は、次第に紫龍に心を許し、惹かれていった。やがて、紫龍は時折、強引に真由香の唇を奪うようになった。その頃、まだ優士郎にキスを許していなかった真由香は、後ろめたい気持ちに悩んだが、一番大切な心は守るという気持ちに支えられていた。

 しかし、真由香はやはり、以前のままの彼女ではなかった。その変化に、実は心が繊細な優士郎が気づかないはずはなかった。それでも、優士郎は変わりなく真由香と接し、たくさんの思い出と優しさと愛情をくれた。あの日までは┅┅。


「ママ┅┅おうちにはまだ着かないの?」

 娘の声が、ふいに真由香を現実に引き戻した。

「目が覚めちゃった?ふふ┅┅もうすぐ着くからね。おしっこは大丈夫?」

「うん、大丈夫┅┅」

 優衣はそう答えると、また母親の膝の上に頭をことりとのせて眠り始める。

 娘の髪をそっと撫でながら、真由香は再び切ない思い出の海に沈んでいく。

 

 あの日は、三月の初め、ひな祭りの次の日だった。

 優士郎から、公園で待っているというメッセージをもらって、居酒屋のバイト先から急ぎ足で公園に向かった。前日は優士郎の用事で一日会えなかったので、会えるのがうれしかった。実は、真由香はまだ気づいていなかったが、もうこのとき、彼女の胎内には紫龍との赤ちゃんが宿っていて、一ヶ月になろうとしていた。


 優士郎は、いつもの桜の木にもたれて待っていた。

「お待たせえ┅┅」

 真由香は少し息を切らせながら、優士郎だけに見せる笑顔を向けた。

(あれ、いつもと雰囲気違う┅┅何だろう?)

 真由香は、急に胸がどきどきし始めて、両手で胸を押さえた。

「ごめん、急に呼び出して┅┅」

「そんなの┅┅いつものことだし┅┅」

 毎度のことだが、素直にうれしいとは言わず、意地悪な返しをしてしまう。

「そうだな┅┅」

「な、何よ。変だよ、今夜は┅┅」

 優士郎は何かを言い出すのをためらっているように見えた。

(紫龍のこと?ううん、そんなはずない。紫龍のことは話しているし┅┅やっぱり、別れ話┅┅まさか、紫龍に犯されたこと┅┅ばれたの?┅┅)

 真由香の胸は今にも張り裂けそうだった。

だが、普通の恋人同士だったら、とっくに別れを告げられて当然のことを、自分はやっているのだ。優士郎だから、ここまで自分を許し、変わらぬ愛で包んでくれたのだ。


 真由香はこみ上げてくる涙を必死にこらえながら、優士郎からの言葉を待った。

「きのう、お母さんから電話があって┅┅ロゼで会って話をした┅┅」

「┅┅お母さんと?┅┅」

 優士郎は小さく頷いて、真由香に背を向けるように二三歩歩き出す。真由香はしおれた花のようにうなだれながら、その後ろからついて行く。

「僕はね┅┅前に言ったとおり、今は三千万というお金を持ってない。だから、春に卒業したら働いて、一日でも早く借金を返せるように頑張ろうと思っている┅┅二人で頑張れば、何年かかっても、辛くはない。でも┅┅」


 真由香の目からは、もう涙があふれ出て頬を流れ落ちていた。

「┅┅僕が君を愛しているくらいに、君があの男を愛しているのだったら、僕はもうあの男から、君の心を奪い返すことはできない┅┅」


 自分の母親が、優士郎に何を話したのかは分からない。しかし、真由香が紫龍と肉体関係を持ったことが優士郎の知る所となったのは間違いない。

 〝たとえ体は奪われても、心はあなたのものだ〟とは、女の勝手な言い分なのだろう。真由香にとっては一番大切な真実だが、優士郎からすれば、真由香は自分を裏切った酷い女だ。

 〝三年間、何があっても頑張るから、わたしを捨てないで┅┅〟

 喉まで出かかった言葉を、真由香は結局言い出せなかった。


 優士郎は、三メートルほど離れた先で真由香を振り返り、しばらく彼女を見つめていた。真由香からの言葉、あるいはすがりついてくる行動を待っていたのかもしれない。しかし、その時の真由香は、優士郎のことを最優先に考えなければと思っていた。優士郎の将来にとって最善は┅┅自分と別れて、もっと彼にふさわしい女性と結ばれることだ。

(うそ、うそつき真由香、そんなの耐えられない┅┅そんな女、現れたら、切り刻んで殺してやる┅┅嫌だ┅┅嫌だよ┅┅優君と別れるなんて、嫌だよ┅┅)

 真由香の心は血の涙を流していたが、理性は優士郎にとっての最善を優先した。

 何も答えず、何も行動しない真由香に、優士郎はゆっくり背を向けて歩み去って行った。

 それが、優士郎と会った最後の日になった。

 

 約束の三年は、もう、優士郎を失った真由香にとってはどうでもよかった。紫龍の子を身籠もったと知った日から、真由香の人生は意味を失い、人形のように、ただ言われるがままに、紫龍の妻になった。娘の優衣を出産し、豪邸に住んで、何の不自由もない暮らし。腸に持病を持つ母親も、専門の科がある大きな病院に入院させることができた。他の女性からすれば、羨望の的のシンデレラガールだろう。


時間が悲しみを忘れさせてくれる、そう思っていた。しかし、今でも時々、ふと夜中に目が覚めて、隣のベッドで眠る娘の優衣を発作的に殺したくなる。そして、自分の体もナイフでズタズタに切り裂きたくなる。時とともに、悲しみは消えずに心の奥底に沈殿し、腐って異臭と毒気を放ち始めるかのようだった。


「到着いたしました」

「ご苦労様でした」

 渋滞を抜けてようやく家に帰り着いたのは、夕食の時間をとおに過ぎた頃だった。優衣に軽い食事をさせ、風呂に一緒に入った後、娘が眠くなるまでアニメの映画を一緒に観る。

いつもより遅い時間に眠りについた娘をベッドに運んだ後、真由香は珍しくワインを開けた。たまに外食のとき口にするくらいで、普段は飲まないアルコールだが、その夜は飲まずにはいられなかった。


(明日こそ、彼に電話しよう。SNSの方がいいかな?いや、やっぱり、直接伝えないと┅┅一回だけ会ってくれるようにお願いするんだ┅┅彼ならきっと会ってくれる┅┅)

そして、何を話したらいいんだろう?自分が前に進むために、自分が選んだ選択を理解して、許して欲しい?自分がいかに辛く、苦しかったか、知って欲しい?

 どれも正解で、たぶんどれも正解じゃない。

 真由香は自分が一番何を望んでいるか、分かっていた。でも、それは絶対に優士郎は許してくれないこともまた、分かっていたのだ。それをあえて彼にぶつけ、どんな答えでもいい、彼から受け取ったときに、初めて自分は一歩前に踏み出すことができると思う。

 決意を胸にした真由香は、ベッドに横になってもなかなか寝付けなかったが、ワインの酔いが、やがて彼女を深い眠りに引き込んでいった。


 次の日の朝、一歩を踏み出す決意をした真由香のもとへ、思いがけない知らせが届けられた。夫の紫龍が、昨夜、不慮の事故で死んだというのだ。

 にわかには信じられない知らせに、真由香は取る物も取りあえず娘を連れて、夫の死体が安置されているという病院へ向かった。

 大がかりなショーマジックをする者は、ときにミスや不運な事故で命を落とすことは珍しいことではない。しかし、紫龍に限れば、それほど危険なマジックはしていないし、何より用意周到で、執念深いあの男が簡単に死ぬとは思えなかった。

 真由香は驚きといいしれない不安は感じていたが、悲しみは感じなかった。むしろ、心のどこかで、何かに解放された安堵と、運命の神の非情さを思うのだった。


トントンとドアを軽くノックする音の後に、間の抜けた声が聞こえてくる。

「鹿島優士郎、参りました┅┅入りまぁす」

「やっと来たか、入れ」

 隊長室のドアが開き、寝ぼけ顔の若者が入ってくる。

「また遅刻だそうだな?そろそろ減給訓告が来るかもな」

「ええっ、そんなぁ┅┅夕べは大変だったんすから┅┅」

 優士郎が情けない声を上げると、横合いからくすくすと笑い声が聞こえてきた。

「おんやあ、君たちも呼び出しくらったのかい?」

「違いますよ。僕は入署以来、無遅刻無欠勤記録を続けているんですから」

「なに当たり前のことを自慢してるのよ。まあ十年それを続けられたら、少しはほめてあげるけど」


 酒井と飯田の若い二人の隊員が、ソファから立ち上がって鹿島のそばへ歩み寄る。

「ふむ┅┅となると┅┅何の用すか?また、事件かなにか┅┅」

「いや、今日は君たちに大事な用があって来てもらった」

 隊長の黒田はそう言うと、デスクの引き出しから数枚の文書を取り出した。

「こっちは、内閣官房長官から直々送られて来た感謝状だ┅┅そしてこっちは、警視総監からの通達文┅┅」

 机に置かれた数枚の文書を、酒井と飯田は興味深げにのぞき込んだ。

「へえ、官房長官直々とは┅┅なんか偉くなった気分ですね」

「┅┅ん?なになに┅┅外事特捜合同処理班┅┅?」

 飯田は片方の文書を取り上げて詳しく読み始める。


「うむ┅┅実はな、だいぶ前から話はあったんだが┅┅鹿島の特別処理係を班に格上げして、外事二課との合同チームにすることになった┅┅といっても、知っての通り、あまりおおっぴらにはできない。そこで、鹿島の他に、外事二課から一人、うちの班から一人出して、三人のチームで始めようということだ。というわけで、酒井、飯田、お前たちの内どちらか一人にチームに入ってもらいたい」


 黒田の話が終わるやいなや、若い二人の隊員は同時にさっと手を上げた。

「自分がやります」

「わたしにやらせて下さい」

「おお、積極的でなかなかよろしい。ふむ┅┅どうするか┅┅鹿島、どっちと組たい?」

 優士郎は困ったように苦笑して頭をかきながら、のんびりした口調で答えた。

「ああ、そうですねえ┅┅僕はどっちでもいいですよ┅┅二人とも優秀だし┅┅ううん、ただ、女性は一人いてくれると助かりますね┅┅ああ、じゃあこうしたらどうでしょうか┅┅外事から来るのが男だったら、飯田君、女だったら酒井君、ということで┅┅」

「うむ、いいだろう。二人とも、それでいいか?」

「はいっ。もし、だめでも、いざというときは無理矢理でもチームに入れてもらいますからね、鹿島さん」

「わたしも、右に同じです。よし、今から外事に行って、男を選ぶように掛け合ってくる」

「ええっ、そ、それって反則でしょ?」

「冗談でもやめとけ」

「はい、冗談なので、やめときます」

 鹿島が笑い出し、他の者たちもそれにつられるように笑い始める。(結局、後日外事からは男性捜査官が来ることになった)


「さて、話は変わるが、紫龍の遺産の件なんだが┅┅」

 隊長は鹿島に向かってそう言い出してから、鹿島の表情を見て、いったん言葉を切った。

「ああ、お前たちはもう帰っていいぞ」

 微妙な空気を読んで、二人の隊員は敬礼をして部屋を出て行く。

「鹿島さん、昼飯一緒に食べに行きませんか?」

「おお、行く行く」

「じゃあ、また後で。失礼します」


 二人が出て行くと、黒田は椅子から立って、窓の方へ歩いて行く。

「奴が、マジシャン紫龍として死んだからには、ちょっとした脱税や申告漏れ以外は、全部遺族が引き継ぐだろうな┅┅これから、何か、新しい証拠や証人が出てくれば、差し押さえって事態になるかもしれんがな」

「そうですか┅┅すみません、余計なことで手を煩わせて」

「いや、自分のこれまでの経験から言っているだけだ。もっと詳しく知りたければ、マルサの友人を紹介するが┅┅」

「いえ、それにはおよびません┅┅」

 優士郎は安堵の表情でそう言った。


夫を失って、真由香がどんなにショックを受け、悲しんでいるか。そのうえ、金銭で彼女がまた辛い思いをすることは、優士郎には耐えられないことだった。しかも、夫を殺したのが優士郎だと知ったら、真由香はどんなに苦しむだろう。

「鹿島┅┅お前には辛い仕事をさせている。だが、これはお前にしか出来ない仕事だ┅┅つらいときには、俺にぶつけに来い。やけ酒くらいおごってやる」

「あ┅┅はは┅┅ありがとうございます、その節はよろしくお願いします。では、失礼します」

 

 新聞やテレビは、連日、世界的マジシャンの不慮の事故死を大きく取り上げて報じた。

中には、その死に疑問を投げかける新聞やテレビ番組もあったが、興味本位以上の情報は何も出てこなかった。そうした騒ぎがようやく収まったのは、もうあと数日で新しい年を迎えるという年の瀬も押し詰まった頃だった。


 葬儀にお別れの会、その合間の遺産相続の手続きやマスコミへの応対など、目が回る忙しさだった真由香も、ようやく落ち着いた生活に戻っていた。

 最初は信じられなかった夫の死も、紛れもない本物の夫の遺体を見て、ようやくそれが現実のことだと理解した。ただ、遺体を見て、報道されたような不慮の事故死などではなく、誰かに殺されたのは間違いないと確信したが、あえて警察にそれをただすことはしなかった。死に方はどうでもよかった。もう、この世にあの男がいなくなった、という事実が何より大事だったからだ。


忙しい間、ずっと娘の世話のために病院から一時退院していた母も、その日の昼近く、迎えの看護師と共に病院へ帰っていった。優衣が父親の死を実感できず、祖母と何日も一緒に楽しく遊んでいてくれたのは救いだった。優衣はほとんど父親の顔を知らなかったし、父親の愛情も受けたことは無かったので、父親の死を悲しむことはなかった。娘が思春期を迎え、大人へと成長するとき、それがどんな影響を与えるか、今はまだ分からない。真由香にはその危機を乗り越えるための一つの儚い希望があったが、まだ、そのことは彼女の心の中にしまい込まれた秘密だった。


 師走の街の喧騒は久しぶりだった。バイトをしていた頃は、この時期が一番のかき込み時で、忙しく騒がしかったことを覚えている。

 真由香はこの日、三年ぶりに喫茶店『ロゼ』を訪れた。

「いらっしゃ┅┅」

 変わらないドアベルの音、シャンソンのメロディ、マスターの┅┅声は途中で消えた。

「ま、真由ちゃん┅┅」

「お久しぶりです、マスター┅┅」

 まだ昼前で、客は誰もいなかった。

「ああ、本当にお久しぶり┅┅娘さんかい?」

「はい、優衣といいます。優衣、ごあいさつは?」

「こんにちは、紫門優衣です」

「そう、いい子だね┅┅さあ、座って┅┅カウンターでいいかな?」

 真由香は優衣を膝に抱いて、カウンター席に座る。

「真由ちゃん、少しも変わらないね┅┅ちょっと大人っぽくなったけど┅┅」

「そうですか?本当にそうなら、どれだけうれしいか┅┅」

「┅┅遅くなったけど┅┅この度はご愁傷様でした┅┅」

 真由香は小さく頭を下げると、微笑みながら顔を上げた。

「悲しい顔しなくちゃいけないんでしょうけど┅┅わたし、演技なんかできないので┅┅」


 マスターは何も言わず小さく頷くと、優衣のための小さなケーキを三つ載せた皿をカウンターに置いた。

「わあ、ケーキだあ」

「ふふ、よかったね。じゃあ、こっちに座って、お行儀良く食べるのよ」

「あれえ、ママ、届かないよ?」

「あら、そうだね。じゃあ、テーブルに行こうか」

 真由香は笑いながら優衣を抱き上げて、どのテーブルにしようかと周りを見たが、マスターは当然のように、ケーキの皿を持って一番奥の席に向かった。そして、優衣のために子供用の椅子を持ってきた。


 真由香は少しためらった後、その席に向かった。いつも、この店で優士郎と会うときに使っていた席は、ほの暗い中、ランプの光にぼんやり照らされていた。

「ミルクティでよかったかな?」

「はい┅┅この子にはホットミルクをお願いします」

「少々お待ちを┅┅」


 真由香は、楽しげにケーキを頬張る娘を見ながら、切なく、甘酸っぱいような思い出の小雨に優しく打たれていた。もう二度と戻っては来ない輝く日々┅┅自分でその輝きを消していった悲しみ┅┅寄せては返す波のように、静かにこみ上げてくる愛しい人への慕情┅┅。


「お待ちどおさま┅┅」

 マスターは注文の品をテーブルに置いた後、その場に立ったまま真由香を優しく見つめた。

「あ┅┅あの、ごめんなさい┅┅涙が勝手に出てきちゃって┅┅あの┅┅か、彼は、まだこの店に来てるんですか?」

「うん、来ているよ。といっても月に一度か、二度くらいかな。忙しそう┅┅でもないけど┅┅来たときは、いつもこの席に座るよ。もちろん空いてるときだけどね」

「そう┅┅ですか┅┅できれば、会いたいなって、思って┅┅あの、マスター、お願いしていいですか┅┅」


 真由香は涙を急いで拭くと、バッグから一通の手紙を取り出した。

「┅┅彼が来たときでいいので、これを渡していただきたいんです」

 マスターは、差し出された手紙をしばらく見つめていたが、あえて受け取らずにこう言った。

「今日はゆっくりしていくといいよ┅┅もしかすると彼が来るかもしれない。その時はちゃんと自分の手で渡しなさい。彼が来なかったら、後で僕に預けなさい。ちゃんと彼に渡すと約束するよ」

 真由香は手紙を引っ込めて胸に抱き、しっかりと頷いた。


 それから二時間近く、真由香は優衣の相手をしながら待ったが、優士郎は現れなかった。それで、手紙をマスターに託すと、寂しげな微笑みを残して店を出て行った。

 その直後、入れ替わるように二人連れの客が入り口のドアを開いた。

「いらっしゃい、今日は定刻より三十分も早いね、負けたのかい?」

「ああ、ひどいもんさ┅┅ああ、神も仏もあったもんじゃないよ」


 自称天才小説家の男は、まだ入り口で外を見ている連れの女の横で、大げさに手を上げて嘆いた。

「ねえ、マスター┅┅さっき店から出て行った子連れの女なんだけど┅┅」

 ようやく店の中に入ってきながら、ルミ子と呼ばれる常連客の女が言った。

「あれって、あの子だよね┅┅」

「だから、よく似た子だって┅┅まさか、もう来ないだろう、ここには┅┅」

「いいえ、見間違いじゃない、確かにあの子だったわ┅┅真由香よ。そうでしょう、マスター?」

「うん┅┅真由ちゃんだよ」

「やっぱり┅┅あんの小娘ぇ┅┅」

 ルミ子はいきなり体の向きを変えて、店から出て行こうとした。

「おい、待ちなよ、どこへ行こうってんだい?」

「放してよ。一言文句言わないと気が済まないのよ」

「そんな、大人げないことするんじゃないよ」

「大人げないもくそもないわよ。あんただって知ってるでしょ?優くんがどんなに┅┅どんなに辛い思いをしたか┅┅」

「ああ、そりゃあ知ってるさ┅┅でも、今さらどうなるもんでもないだろう?」

 ルミ子はようやく体の力を抜いて、泣きながらカウンター席に倒れ込んだ。

「うう┅┅う┅┅今頃何でのこのこと┅┅しかも他の男の子どもなんか連れてさ┅┅マスター、ちゃんと言ってくれたわよね?」

 二人の目が注目する中で、マスターは小さなため息をついてこう言った。

「┅┅あんな傷だらけの小鳥に┅┅何が言えるもんかね┅┅」


 久々に伊豆の温泉に両親を招待し、親子水入らずで正月を過ごしていた優士郎のもとに、隊長から連絡が入ったのは、二日の朝のことだった。両親に事情を話すと、

「仕事なんだろう?だったら気にせず行ってこい。父さんたちは、あと二三日、のんびり過ごさせてもらうよ。なあ、母さん」

「ええ、そうさせてもらうわ。でもね、出来れば来年は可愛いお嫁さんと、家でおせち料理を作ってみたいなあって┅┅よろしくね、優君」

 真由香のことは十分承知の上で、母親は前を向けない息子の背中を押してやる。


 優士郎は曖昧な言葉でごまかすと、逃げるように旅館から出て行った。

「こちら、鹿島です。本部に着くまで、あと四十五分くらいですね」

〝そうか┅┅休みのところをすまなかったな┅┅〟

「まあ、いつものことですし┅┅で、急ぎなんですか?」

〝うむ┅┅それがな、とにかくややっこしい奴なんだ┅┅今、調査させているが、その結果次第では、急がねばならん┅┅〟

「わかりました。では、あとで」


 海岸沿いの道を、低音のエグゾーストノートを響かせながら、黒いハイラックスエースは都心へ向かって速度を上げた。

 紫龍を倒したことで、優士郎の心に幾ばくかの空虚が生まれたことは否定できなかった。

その空虚に入り込もうとする青い鳥を、優士郎は必死になって追い払っていた。

(今、そこに巣を作られたら困るんだよ。もう、仕事ができなくなってしまう┅┅)

〝真由香が本当の幸せをつかむ日まで、自分は幸せになってはいけない〟。それは、あの日から、優士郎が自分に課した十字架だった。


優士郎のことを命をかけてすがる相手に選ばなかったのは真由香であり、その意味では、彼がそこまで責任を感じる必要は無いのかもしれない。結局、真由香は、それほど彼のことを好きだったわけではなかったのだ。本当に好きだったら、何もかも捨てて、彼のもとへ来たはずなのだから。

 優士郎が、未だにもやもやとした割り切れない泥沼の思考に落ち込むのは、その点だった。

(┅┅まあ、少なくとも、僕が愛したほどには、彼女は僕を愛していなかったのは、間違いないことさ。女はたくましいね┅┅とてもかなうもんじゃない)

 都市高速に入って朝日に輝く高層ビル群を見ながら、泥沼に入り込もうとする思考を打ち切って、優士郎は苦笑を浮かべた。


 特殊処理班の小さな部屋で、四人の男女が顔を突き合わせて厳しい表情を浮かべていた。

「┅┅今のところ、テルアビブから飛行機に乗って来た年齢が三十半ばくらいで、日本人らしい男という以外、何も分からん┅┅そいつが、なんですんなりと検問や税関をすり抜けたか┅┅可能性は一つしかない┅┅」

「┅┅まあ、そりゃあ本人だったら、すんなり通れるでしょうね」

「そうだ┅┅」

「ところが、調べたら、三十代の日本人乗客は全員シロ、ただし一人が行方不明で捜索願が出ている人物だった┅┅」

「その人物の実家に問い合わせても、帰っていない┅┅しかも、年齢は現在五十歳になっているはず┅┅」

「客室乗務員の話では、その人物が座っていたはずの席には、老婆が座っていた┅┅」

「┅┅わけがわからん┅┅」

 隊長の黒田と鹿島以下二人の隊員は頭を抱えて天を仰いだ。

「分かっているのは、そいつが中東やヨーロッパ各国で無差別爆弾テロを起こしている組織の中心人物だってことだ┅┅」


 優士郎は自分のデスクに座って、メモ用紙に何か書き始める。

「飯田君、もう一度、乗客一人一人を洗い直してもらえるか?なんでもいい、引っかかったらメモしといてくれ」

「了解っ」

「栗木さん、外事で、一連の爆弾テロに何か共通点はないか、調べてきてくれませんか」

「わかりました」

 二人の隊員が部屋から出て行くと、優士郎はメモを見ながら小さくうなった。

「うーん┅┅これは、確かにやっかいな奴かもしれませんね┅┅」

「後は任せる┅┅何か必要なものがあったら、いつでも言ってくれ」

 黒田はそう言って去って行こうとした。

「ふむ┅┅ねえ、隊長┅┅」

「ん?なんだ」

「行方不明者とか、捜索願いが出されている人って、普通の人でも調べられるんですよね?」

「まあ、公開捜査が基本だからな┅┅各都道府県の警察署のウェブサイトに、多くは写真入りで掲載されているが┅┅それがどうかしたのか?」

「もし、奴がそれを利用して他人になりすましていると仮定して┅┅パスポートやビザの発行は可能なんですか?」

「いや、それは無理だ。身元を照合すればすぐにばれるからな」

「ですよね┅┅でも、奴はそれをできた可能性が高い┅┅とすれば┅┅」

 黒田は、鹿島が言おうとしていることに気づいて顔色を変えた。

「おい、まさかお前┅┅」

「いやあ、まだ憶測ですからね┅┅でも、これができるのは、警察内部の、それも公安関係の人間しかいないと思うんですよ」


 黒田は思いがけない話に気が動転したが、確かに鹿島の推測通りなら、犯人が自由に世界各国を移動している理由も納得できる。

「┅┅内通者か┅┅だが、何のために┅┅」

「さあ、そこまでは分かりませんが┅┅最初、この話が来たとき、妙に違和感を感じたんです。本来なら、これは公安部が全力で取り組むべき案件です。それなのに、初めから特捜に協力要請してくるなんて、普通じゃありません」

「うむ┅┅犯人の危険度を考えてのことだと、疑いもしなかったが、言われてみればその通りだ。となると、内通者はこうした手配ができる、かなり上の立場の人間だな┅┅」

「ええ。そして、我々の動きをとても気にしている┅┅だから、わざと自分たちの側に引き込んで、こちらの情報を筒抜けにしているんです」

 黒田と鹿島は顔を見合わせて、小さく頷き合う。

「こいつはよく作戦を練らないと、こっちが潰されかねないぞ」

「向こうがその気なら、逆に利用してやるだけです」


 『ロゼ』を訪ねた日から一週間が過ぎた。この一週間、真由香は毎日胸をどきどきさせながら、優士郎からの連絡を待ち続けた。しかし、まだ何の音沙汰もなかった。

 もちろん、月に一二度しか店に現れない彼のことだ、一週間で答えが出たわけではない。だが、真由香はもう永遠に連絡は来ないような気がしていた。


 真由香はまたスマホに目を向け、手に取ってみる。一日何度も、そして何年間も繰り返されてきた行動だ。指が震えながら電話帳の画面をめくる。しかし、いつのように指はそこで止まり、口からは小さなうめき声が漏れ出る。優士郎へのSNSも、電話も、あの日以来止まっている。

 真由香は怖くて仕方がなかったのだ。やがて来るはずのメッセージや電話だったら、いつまでも待つことができる。でも、通信拒否や電話番号が変えられていたら、もう、それで永遠に優士郎とのつながりは切れてしまう。それは、彼女にとって死刑宣告にも等しかった。それが現実になるのが怖くて、真由香はスマホを使うことができなかった。


 だから、その日突然、優士郎からのSNSでメッセージが届いた時、真由香はそれが現実と理解できるまで長い時間がかかった。

〝ロゼで手紙受け取りました。返事はしばらく待って下さい〟

 真由香は涙でかすむ画面を見つめながら、ゆっくりとメッセージ文を作っていく。

〝はい、いつまでも待っています〟

 たったそれだけの返事を打つのに何分かかっただろう。今は、それだけのことしか言えなかった。全ては、彼に会えたときに伝えるのだ。

 それっきりメッセージは来なかったが、真由香の胸は幸せに満たされていた。娘が昼寝をしているベッドのそばで、床に横たわりながら、真由香はスマホを胸に抱きしめて温かい涙を流し続けた。


 さっきから何度もため息をついて、仕事に身が入らない様子の上司に、飯田礼奈はコーヒーでも入れてやろうと椅子から立ち上がった。

 特捜隊に配属になって一年、優秀な男たちを差し置いて、二十四歳の若さでここまで駆け上がってきた礼奈にとって、鹿島優士郎はずっとあこがれ続けてきた先輩だった。そのあこがれの存在と、今、こうして同じチームで仕事をしている毎日に、礼奈は充実した幸福感でいっぱいだった。必然的に、彼女の注意力と奉仕精神は優士郎に集中することになり、それが愛情に変わるのは時間の問題ではあった。

「どうぞ┅┅」

「おお、グッ・タイミング┅┅相変わらず、気が利くねえ」

 優士郎はいつもの調子でそう言うと、美味しそうにコーヒーを一口すすった。

「礼奈ちゃん、俺には?」

「はいはい、ちゃんとあるわよ」

 外事二課から出向してきた栗木が、中年太りし始めた腹をこちらに向けて、うれしそうにコーヒーカップを受け取る。


「どうしたんですか?鹿島さん┅┅何か悩みでもあるんじゃないですか?」

 自分の分を専用カップに注ぎながら、礼奈は分かっていてあえて探りを入れてみる。

「ん?そんな風に見えたか?┅┅うむ┅┅たぶん、奴のことを考えていたからだろうな」

 当然、心配をかけまいととぼけるのも計算内のことだ。犯罪心理学のスペシャリストである礼奈には、下手なごまかしは通用しない。

 礼奈はそこでいったん引いて、また次の良いタイミングを狙うことにする。

「しかし、なかなか引っ掛かりませんね、奴は。┅┅公安も協力して探しているんですが┅┅」

 コーヒーカップを持ったまま、パソコンを操作しながら栗木が言った。

「いや、逆ですよ。これは公安部の案件で、僕たちが協力しているんです。最初から、僕たちを頼るなんて、本末転倒ですよ」


 公安部所属の栗木は、そう言われて大きな体を縮めるようにして苦笑する。

「それだけヤバイってことですよね┅┅早く奴を見つけ出さないと┅┅」

「ん┅┅でも、二人のおかげで、ずいぶんと絞り込めましたからね┅┅じきに掛かってきますよ┅┅ふむ┅┅でも、掛からないなら、ちょっと揺さぶりをかけてみますか┅┅」

 鹿島はそう言うと、ホワイトボードに三枚の男の顔写真を貼った。

「今、捜索しているこの三人を全国に指名手配します┅┅」

「ええっ、そんな無茶なこと┅┅」

「はい、無茶は承知です。三人の家族には事情を説明して、むしろこの方が早く見つかるからと説得してもらいます。奴があわてて動き出せば、公安が張っている網に引っ掛かる可能性がある┅┅どうですか?」


 飯田と栗木はそれぞれのデスクで、腕や足を組んで考え込む。

「それくらいしないと、事態は動きませんよね」

「ううむ┅┅上が承知するかな┅┅それにマスコミに気づかれて追求されたら┅┅」

「責任はすべて僕が取ります。上には僕が掛け合いますから、飯田君は三人のご家族への説明に行ってもらえますか?栗木さんは、そのまま公安部とのつなぎをお願いします」

「はい、了解しました」

「┅┅わかりました。やってみましょう」


 その日の夜、特別処理班の部屋に一人残って、優士郎は真由香からの手紙をもう一度読み返していた。

『 前略  鹿島優士郎様

  突然の手紙で、さぞや驚かれたことと思います。私自身、何をどう書けばいいか、わからないままペンを握りました。本当は、電話で直接お話をしたいとずっと思っていましたが、とうとう勇気が出なくて、手紙を書くことにしました。ロゼのマスターにも、ご迷惑をおかけすることになると思いますので、大変申し訳ない気持ちです。


  あなたはもう、私のことを忘れようとなさっていると思いますし、もうただの過ぎ去った思い出になっているかもしれません。今さら、私が会いたいと言っても、無駄な時間を費やすだけだとお考えになるでしょう。

  でも、会いたいのです。会ってお話がしたい。私の心の中をすべてあなたに聞いてもらいたい。そして、あなたの心の中も知りたい。


  時間は戻りません。すべてを壊してしまったのは私です。だから、私は一生この罪を背負って生きていきます。ただ、もう一度だけ、あなたに会って、あの頃あなたにあげられなかったわたしの心を、せめて言葉にしてあげたいと、願っています。

  大変勝手なお願いだとは承知しておりますが、もう一度だけ、あなたの優しさにすがらせていただけないでしょうか。お返事をおまちしています。         早々

                                  小野 真由香』


何度読み返しても、お互いの未来が明るくなるシナリオが見えてこなかった。会うのは別にかまわない。話を聞いてやるのもいい。だが、優士郎は、悲しみや怒りを真由香にぶつけようとは思わない。それは、彼に何の救いももたらしはしないことを、知っているからだ。


 真由香も言っているように、もうあの頃には決して戻らないのだ。真由香は、自分ではない他の男を選び、結婚し、その男の子供を産んだ。その事実は決して変わらない。

 だったら、優士郎の悲しみや怒りは、彼がじっと抱えて生きていくしかないではないか。今さら、へたに真由香から優しい言葉をかけてもらっても、惨めさを感じるだけだ。


 優士郎がそこまで考え、断りの手紙を書こうとボールペンを取ったとき、入り口のドアが静かな音を立てて開いた。

「こんばんは、班長殿┅┅遅くまでご苦労様です」

「なんだ、飯田君か┅┅びっくりしたよ」

 飯田礼奈はコンビニの袋を下げて、部屋の中に入ってくる。

「まだ、家に帰らず遊び回っていたのかい?」

「ひどおい┅┅行方不明者の家族の所を回って、やっと帰ってきたところなのに┅┅」

「あっ┅┅そうか、いや、すまん┅┅ほんとに、ご苦労様でした」

 礼奈は笑いながら、コンビニの袋から、缶ビールを取り出して優士郎に差し出す。

「にひい┅┅勤務時間は終わったし、一本だけ付き合って下さい」

「おう、大歓迎さ┅┅」


 礼奈が椅子を持ってきて、優士郎の横に並んで座る。

「じゃあ、乾杯┅┅」

 二人は小さな声でそう言うと、缶ビールを軽くぶつけ合ってから、お互いに喉をならしながら一気に飲み干していった。

「ああ┅┅うまい┅┅生き返るゥ」

「うーん、最高┅┅ふふ┅┅嫌なことがあったら、飲んで忘れるのが一番ですね、班長┅┅」

「何か、嫌なことでもあったのか?」

「┅┅わたしじゃありませんよ。班長殿のことです」

 礼奈の微笑む顔を見て、優士郎は隠せないと観念した。相手は、犯罪心理学専門のプロだ。

「┅┅ったく┅┅犯罪心理学の対象にされたらたまったもんじゃないぞ┅┅」


 優士郎はそう前置きしてから、部下である女性隊員にこう切り出した。

「なあ、犯罪心理学って、要するに人間の深層心理を解明研究する学問だよな?」

「ええ、その通りです。対象が犯罪者というだけですから」

「じゃあさ┅┅男女の恋愛も犯罪心理学を応用すれば、解明できるのか?」

 それを聞いたとたん、礼奈の目は生き生きと輝き始めた。

「応用どころではありません。恋愛は、犯罪においても大変重要な要素となるものです。中心テーマの一つと言っても過言ではありませんよ」

「わ、わかった、わかったから、そんなにくっつくな┅┅」


今にも抱きつかんばかりだった礼奈を椅子に押し戻してから、優士郎はこう語り出した。

「┅┅これは、昔々、どこかの国の話だ。ある街に、とても仲むつまじい恋人同士がいた┅┅」

 架空の物語を装って、優士郎は自分と真由香が別れることになったいきさつを語った。

「┅┅こうして若者は、恋人を奪った男に復讐した。恋人の娘が、男の残した財産で裕福に暮らしていけることを確認し、罪の意識は少し軽くなった。この後は彼女とその娘の幸せを祈りながら生きていこうと心に決めた。ところが┅┅」


 優士郎はそこで小さなため息をつくと、しばらく下を向いて話すのをためらっていた。

「娘の方は、まだ、若者を愛していた┅┅」

 礼奈の言葉に、優士郎は顔を上げて彼女を見つめた。

「やっぱり、分かるか?よくあるパターンなのか?」

「ふふ┅┅ええ、特に小説やアニメなんかではね」

「うむ┅┅いや、実のところは、若者にもよく分からないんだ┅┅娘のそれが愛なのかどうかも┅┅とにかく娘は若者に会いたがった。でも、今さら会ってどうなるんだ、と若者は思った。もし、彼女の夫である男が、そのまま生きていたとしたら、二度と会うことさえかなわなかった二人だ。夫が都合良く死んだから、またよりを戻そうなんて、若者からすれば、ふざけるなって話だ┅┅」

 優士郎は珍しく感情をあらわにしてそう言った。

「なるほど┅┅」

 礼奈は、ビールでほんのり上気した顔をいかにも楽しげに微笑ませて、ゆっくりと立ち

上がった。


「┅┅今のお話で大事な点は、娘が男と交わした約束です┅┅」

「三年間奉仕すれば自由にしてやる、ってことか?そんなのただの口約束だろう?まともに信じる方がどうかしている┅┅それに┅┅その三年の間に、犯され、妊娠した┅┅そうなることくらい予想できたはずだ┅┅」

「はい、その点はご愁傷様と言うほかありません┅┅でも、娘は、こう思っていたんじゃないでしょうか?┅┅たとえ、体は汚されても、心は絶対に男のものにはならない。三年間、がまんすれば、晴れて自由になって、また若者と愛し合える┅┅」


 優士郎は呆れて、しばらく何も言えなかった。彼のその顔を見て、哀れに思ったのか、

礼奈はこう付け足した。

「┅┅女って、そんな風に考える生き物なんですよ┅┅それに娘は、夫であった男を信用できると判断したんじゃないでしょうか。約束は守ってくれると┅┅でも、恋人である若者に別れを告げられたとき、すべては終わってしまったんです┅┅」

「いや、待て、別れを告げてなんかいないぞ」


 優士郎は思わず叫んでしまい、しまったと後悔したが遅かった。

 礼奈はにやりとほくそ笑んで、優士郎のそばに座り、優しく問うた。

「若者も、まだ、娘を愛しているんですか?」

 優士郎は苦汁を飲むような顔でうつむき、ため息をつく。

「愛していない、と言えば嘘になる┅┅生まれて初めて本気で好きになった相手だ┅┅でも、結局、彼女の判断は、すべてを捨てて若者のもとへ行く、ではなく、母親のため、生活のために他の男の妻になる、というものだった。若者はその判断を尊重せざるを得なかった。自分には金も、力も、彼女にすべてを捨てさせるほどの何も持っていなかったからだ┅┅」


「うーん、それはちょっと違うかなあ┅┅」

 礼奈は考え込むように手をあごの下に添えながら、横を向いた。

「娘からも話を聞かないと、何とも言えませんが┅┅すべてを捨てる価値があったからこそ、体を捨てて、三年間耐え続ける道を選んだんじゃないでしょうか?」


 優士郎は頭を抱えて机の上に伏した。

「┅┅いや、待て┅┅そんなこと、一言も彼女は┅┅待てよ、話したいって┅┅そのことか┅┅」

 初めて見るあこがれの上司の悩み苦しむ姿に、礼奈も胸を締め付けられるような気持ちだった。

 優士郎は、目の前の手紙を手にとって、礼奈の方へ差し出した。

「いいんですか?」

「ああ、読んでみてくれ┅┅君の推理通りかどうか、聞かせて欲しい┅┅」


 礼奈は嫉妬で痛む心を悟られないように、立ち上がって背を向けながら手紙を読み始めた。

「もう分かっているだろうが、若者は僕で、娘はその手紙を書いた小野真由香、旧姓で書

いている理由も不明だが、今の名は紫門真由香だ┅┅」

「っ!┅┅紫門?┅┅じゃあ、二人を引き裂いた男って、もしかして┅┅」

「ああ、紫門龍仁┅┅紫龍だ」

 礼奈はあまりのことに、机に伏した優士郎をしばらくの間見つめていた。なんと惨たらしい運命を神は用意したのだろうか。


「┅┅鹿島さん┅┅」

 礼奈は、最近使っていなかった呼び方で優士郎に言った。

「私の推理が当たっているか、彼女に聞いてみていいですか?」

 優士郎は顔を上げて、しばらくじっと前を向いて考えていた。

「┅┅そうだな┅┅返事はその後でもいいだろう┅┅でも、仕事があるのに、いいのか?僕の個人的な問題に、君を巻き込んでしまって┅┅」

 礼奈はにっこり微笑んで、優士郎のそばに戻ってくる。

「ふふ┅┅これも大事な仕事です。上司が悩んで、仕事も手につかない状態では、部下としては困りますから┅┅」

 優士郎は苦笑しながら、礼奈に頭を下げる。

「それに┅┅私の問題でもありますから┅┅」

「えっ?┅┅それは、どういう┅┅」

「ふふふ┅┅さっそく明日にでも彼女に会ってきます。まあ、この心理学のプロに任せておいてください」

 礼奈は笑ってごまかしながら、ビールの空き缶をレジ袋に放り込む。

「ああ、すまないがお願いします。あっ、そうだ、ついでと言っちゃなんだが、これを彼女に渡してくれないか?」


 優士郎はそう言うと、引き出しから一冊のパンフレットのようなものを取り出して、礼奈に手渡した。それは少し古びたパンフレットで、表紙には中年の白人女性の写真が印刷されていた。

「『女性が生き生きと働ける社会を作る会』┅┅ああ、テレビで何度か見たことがありますよ」

「うん┅┅僕がまだ大学の頃、彼女に渡そうと思っていて、つい渡しそびれていたものだ。僕の大学で講義をしていた先生でね。今でも、その会で頑張っておられる」

「どうして、これを?」

「彼女は┅┅真由香は女だからとか、女のくせにとか、そういうことを言われたり、態度で見せられたりするのをとても嫌がっていた。時間があったら、その先生の話を聞いてもらいたいと、ずっと思っていたんだ」

「ふふ┅┅分かりました┅┅私、真由香さんと気が合いそうです」

 飯田礼奈はそう言うと、パンフレットと空き缶の入ったレジ袋を持ってドアへ向かう。

「じゃあ、お休みなさい、班長殿」

「ああ、また明日」


 ドアが閉まって、静寂が戻ってくると、優士郎は大きく一つ息を吐いた。彼は自分のプライベートを、これまで真由香以外の人間に見せたことはなかった。ワラをもつかみたい気持ちだったとはいえ、部下の若い女の子に過去の心の傷を見せてしまったことは、自分でも意外なことだった。

 少々の後悔を感じながら、疲れと心地よい酔いから、優士郎は机に伏したまま睡魔に引き込まれていった。


 飯田礼奈は翌日、あこがれの人の元恋人に会う仕事を楽しみに出勤したが、特捜隊本部は何か慌ただしく、緊張した空気に包まれていた。急いで、特殊処理班の部屋へ向かう。

「おはようございます」

「おお、おはよう┅┅」


 部屋の中には、優士郎と特捜部隊長の黒田がいた。二人はテーブルの上の書類を見ながら緊張した面持ちで話をしていた。

「何かあったんですか?」

「ああ、ついに動き出した┅┅」

 優士郎の言葉に、礼奈は小さく頷いて二人のそばへ歩み寄る。


 動きがあったのは、もちろん指名手配された三人の行方不明者ではない。もう一人の方だ。

「でも、他の班も何か慌ただしかったみたいですけど┅┅」

「うむ┅┅ついさっき、三つの班に出動命令を出したところだ。今回はこの班だけでは人数

が足りんからな」

「では、今日やるんですか?」

 礼奈の問いに、黒田と鹿島は同時に頷いた。礼奈はごくりと息をのむと、改めてテーブルの上の地図のコピーを見た。それは、千葉県の北部にある市のものだった。


 三人はさっそく作戦会議を始める。

「飯田にはまだ言ってなかったが、今朝、栗木から重要な報告が届いた┅┅」

 冒頭、黒田はそう言って、三枚の報告書のコピーを礼奈に渡した。それを受け取って目を通していた彼女の顔が、みるみるうちに驚きの表情に変わっていく。

「こんなことって┅┅でも、まだ状況証拠だけですよね?」

「うむ、今、栗木に証拠集めをしてもらっている。間に合えば、今日中に逮捕状が取れるはずだ。だめでも、重要参考人として事情聴取はできる」

「今日、この人たちも動き出すと?」


 礼奈の問いに、今度は優士郎が頷いて答える。

「うん、たぶんね。僕の考えだけど、犯人たちは向こうで資金が足りなくなったんじゃないかな。口座やマネーロンダリングに足が付いて使えなくなったのかもしれない。そこで、預けておいた品を闇ルートで換金し、中東のどこかへ送金するために日本に来た┅┅こっちが動けば、この二人も自分たちの罪を隠すために、なりふり構わず犯人を助けようとするはずだと考えたわけだ┅┅」

 わずかな状況証拠を組み合わせて構築された推理と作戦は見事なものだった。

 礼奈は、真剣に議論を戦わせる男たちを見ながら、その日の楽しみな仕事がしばらく後回しになったことに、心の中で落胆のため息をつくのだった。


 千葉県の北部に位置するとある市の一角。大きな商業施設や娯楽施設が隣接する一帯。

その近くにある巨大な団地群の中に、優士郎と礼奈、そして応援に駆けつけた酒井が潜ん

でいた。

「やっぱり、このチームだと気合いが入りますね」

「同感だ。だが、空回りするなよ。下手をすると、この団地の住人全員が人質って事態になりかねないからな」

「ええ、慎重にいきましょう」


 国際的な連続爆弾テロの実行犯と思われる人物に目星がついたのは、礼奈のお手柄だった。優士郎から、飛行機の乗客を再度洗い直せと指示された彼女は、地道に一人一人身元調査を続けた。すると、その中に、不審な客が一人紛れ込んでいたのである。


 犯人が、行方不明の日本人の偽造パスポートを利用したのは間違いない。そのパスポートを実際に作ったのは公安部の内通者だろう。当然、そこに疑いの目が向けられることは織り込み済みだったはずだ。だから、犯人たちはそのパスポートを実際には使わなかった。


 礼奈は、その行方不明の日本人が飛行機の予約を取った後、出発直前にキャンセルしたことをつきとめた。そして、その席にはキャンセル待ちだったレバノン人の老女が座った事も分かった。礼奈の直感は、その老女が怪しいと感じた。そこで、本来なら公安部の外事課を通じて、地元の警察に調査を依頼するところだが、公安部に内通者がいるという優士郎の推察を考慮して別ルートから調査してもらったのである。


 レバノンの日本大使館から一等書記官が帰国し、都内のホテルで礼奈と面会した。その中で、貴重な事実が明らかになった。


 まずキャンセル待ちの老女だが、彼女は貧しい一般の市民で、日本に行く金銭的な余裕も、日本に行く特別な理由もなかった。しかも、彼女は、今もレバノンにいて、最近金回りが良くなったと評判になっていた。そこで、彼女に直接事情聴取をしてみたところ、初めはごまかしていたが、粘り強く聞いていくと白状した。それによると、ある日、謎のレバノン人の男に多額の金を渡されて、パスポートとビザを取得してくるように言われた。恐怖と金の力に負けて、言われたとおりにした。パスポートは金と引き替えに、その男に渡したということ。


 二つ目は、乗客の中の三人のレバノン人が、やはり老女と同じやり方で、パスポートを金と交換で男に渡したということだった。

 この事実から、おそらく犯人は変装して、レバノン人として日本に入国したこと、変装のし易さから考えて、おそらく老婆が犯人の変装した姿だったこと、少なくとも犯人以外に三人の組織の人間が、犯人とともに入国したこと、が推察できた。

 彼らは搭乗予定の飛行機が満席になるように予約を入れ、出発直前に一人分をキャンセルして、老婆に変装した犯人をそこに送り込んだのである。キャンセル待ちの客ならば、犯人と疑われる可能性が少ないこと、また行方不明者を使うことで、そちらに注意を向けさせれば、捜査の攪乱ができるとも考えたのだろう。


 公安部には、栗木を通して「行方不明者の捜索」に集中していると思わせて、実はレバノン人たちの動向を探っていた特捜隊は、ついに、千葉の団地の一室に、集団で宿泊している彼らを探し当てた。

「今回は、全員が公文書偽造、出入国管理法違反で逮捕できる。僕たちの仕事は、あくまでも突発的な事態への備えだ。ただし┅┅」

 鹿島優士郎は、険しい表情で続けた。

「主犯の男がいなかった、あるいは逃走した場合、これを速やかに探し出して処理する。また、住人に多大な被害が出ると予測される場合も、これに準ずる」

「了解っ!」

 酒井と礼奈は力強く返事すると、防弾チョッキを着て、サングラス、耐熱ブーツを身につける。そして、打ち合わせ通りにそれぞれの配置場所へと出て行く。

 優士郎も愛用のライフルケースを肩にかけて、目標の団地へ向かった。


 三つの特捜班の隊員たちは黒田の指揮の下、慎重に団地の一棟を包囲した上で、いつでも突入できる準備ができていた。例の老女がこの団地の建物に入っていく姿も確認されて

いた。今なら、確実に主犯以下、テロリストたちを全員逮捕できる。

 黒田は、優士郎が目標団地の屋上に到着するのを待って、突入の合図を出す予定だった。

 ところが、ここで思いがけない事態が起こった。いや、予想の範囲ではあったが、あまりに短絡的だった。


 突然、サイレンが鳴り響き、猛スピードの覆面パトカーが三台、目標の団地の前に突っ込んできて止まると、中から公安部の私服警官たちが降りてきた。

「よし、二階の5号室だ。三人が中、後は二ヶ所の出口を抑えろ」


 黒田は、植え込みの陰から出て行って、リーダーらしき刑事のそばへ近づいていった。

「吉田君、これはどういうことかね?」

 吉田と呼ばれた刑事は予想していたように、直立不動で敬礼し、答えた。

「黒田警部補、ご苦労様であります。われわれ公安部の捜査へのご協力、大変感謝いたします。ですが、ここからはわれわれ公安部の仕事です。どうかお引き取り下さい」

「それは、上からの指令かね?」

「はっ、当然そうであります」

「それは、おかしいね。われわれ特捜隊は、官房長官からの指令で来ているんだが┅┅」

「っ!┅┅そ、それは、何かの行き違いかと┅┅とにかく、これは公安部が解決すべき┅┅」


 吉田がそこまで言ったとき、突然銃声が響き、数人のわめき声や怒号が聞こえてきた。

「馬鹿めが┅┅」

 黒田は舌打ちすると、周囲の部下たちに手を上げて合図を送った。周囲の物陰から、防

護服に身を固めた隊員たちが一斉に飛び出して、それぞれの配置へ移動を始める。


「┅┅悪い予想が当たったようだな┅┅」

 優士郎は屋上から事態の推移を眺めていたが、そうつぶやくと、愛用のアサートライフルを取り出し、裏口が見える側へ走った。そこには異常な光景が繰り広げられていた。


 二人の公安部の刑事が、銃を構えたまま裏口に立っていたが、そこへ雪崩のようにレバノン人たちが走り出てくると、彼らを片手で外へ誘導しながら、空に向かって銃を何発か発射したのである。

「こちらコードK、二人とも今の見ていたか?」

〝こちらコードS、はい、見ましたとも〟

〝コードI、ばっちりです。写真に納めました〟

「よし、じゃあ、連中の捕縛は頼んだ。俺は、主犯を処理する┅┅」

〝了解っ〟

〝了解┅┅あの、コードK┅┅くれぐれも注意して┅┅〟

「┅┅了解」


 優士郎は通信を切ると、公安の刑事たちの動きに目を凝らした。すでに、主犯の仲間たちは、ちりじりになって逃走を始めていたが、待機していた特捜隊が次々に捕縛していった。皆の注意がそちらに集中する中、公安部の吉田刑事が辺りをうかがいながら裏口から出てきた。そして、彼の後ろから、特捜隊員の服を着た男もついてきた。彼らは、騒ぎから逃れるように団地の奥へ向かって、平然とした態度で歩き出した。

 

 優士郎は、特捜隊員の服を着た男が主犯の男に間違いないと睨んだが、吉田が側にいることは想定外だった。今、狙撃することは簡単だが、そうすれば、警官としての職務を逸脱した行為として罰せられるばかりか、特殊処理班の存在そのものが公の場にさらされて、警察機構そのものを問う大問題に発展しかねないのだ。


(さすがにそこまで考えていたか┅┅さて、どうするかな┅┅)

 優士郎はライフルをケースにしまうと、二人を追うために一階へと階段を降り始めた。

〝コードK、私だ┅┅〟

 ほとんど二回ずつ着地しただけで一つの階段を飛び降りていたとき、ツールバングルの通信機から、黒田隊長の声が聞こえてきた。

「こちらコードKです」

 優士郎は少し荒い息で答えながら、猛スピードで階下に飛び降りていく。

〝吉田と主犯は、今第三棟の横を東に向かっている。おそらくどこかに車を隠していると

思われる。SとIが尾行中だ〟

「了解っ。すぐに二人と合流します。ああ、隊長、すみませんが、またジョーカーにお願いできませんか?」

〝わかっている┅┅すでに、手は打ってある。思った通りにやれ〟

「ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」

 優士郎は通信機を切ると、にやりとほくそ笑み、一段とスピードを上げて階段を降りていった。


 黒田の読み通り、吉田はマンモス団地の中央にある広い貫通道路に面した駐車場に、一台の覆面パトカーを待たせていた。パトカーから一人の男が降りてきて、歩いてくる吉田と主犯の男を待ち受けた。


「おっと、ついにボスのお出ましか?」

「あ、あれは、第三課の西浦課長┅┅まじか?」

「┅┅警視庁の闇も深いわね」

 携帯で写真を撮りながら、礼奈がつぶやく。

「まあ、僕たちも人のことは言えないがね┅┅」

 優士郎はライフルを肩にそう言って、キューブ状のチョコレートを口に放り込む。


「さて、二人は正面に回って、タイヤバーストお願いできるかな?」

「了解、任せて下さい」

「了解です。班長はどうされます?」

「うん┅┅僕は今から突撃してみるよ」

「えっ?と、突撃って┅┅」

「だめですっ、そんな、無茶なこと┅┅」


 戸惑う二人に笑いながら、優士郎は立ち上がった。

「あはは┅┅大丈夫┅┅向こうも必死だから、必ず逃げようとする。君たちがタイヤをバーストさせてくれたら、最後の手段に出るだろう┅┅まあ、その前におとなしく自首してくれれば、助かるんだけどね」

 そんな事態には決してならないことを、酒井も礼奈もわかっていた。だが今は、優士郎のサポートを完璧にやることしかない。

 優士郎が動き出すのと同時に、二人も反対方向へと動き出す。


 吉田と主犯の男を後部座席に乗せ、自分も運転席に乗り込む前に周囲を見回した西浦は、後方から近づいてくる人影に気づき、表情をこわばらせた。その背の高い人物は、短く刈り込んだシャギーカットの髪、女性的とも言える細面の顔を柔和に微笑ませ、広い肩幅の右の肩にサイレンサー付きの外国製ライフルを担いでいた。

「┅┅オニか┅┅」

 西浦はドアを閉めて、近づいてくる人物と相対した。


  優士郎は、車から十五メートルほどの距離を取って立ち止まった。異変に気づいた吉田も後部座席から出てきた。

「西浦さん┅┅国際指名手配の犯人を、どうされるおつもりですか?」

「う、うるさい、どうしようが、貴様には┅┅」

 吉田が食ってかかろうとするのを止めて、西浦は1歩前に出た。優士郎はゆっくりと、1歩後ろに下がる。


「君とは初めて話しをするね、鹿島君┅┅有名人と話ができて光栄だよ┅┅」

「またまたご冗談を┅┅では、ぜひお話を聞かせていただけませんか?┅┅」

「ああ、いいだろう┅┅実は、この車の中の男は、父の命の恩人の息子なんだ┅┅」


 西浦はそう言ってから、自分の父親と犯人の父親との関わりをかいつまんで語った。

それによると、西浦の父親も警官で、最初は地方警察署でやはり公安部に勤務していた。

当時は学生運動の全盛期で、革命思想に憧れた全国の学生たちが、赤軍派や中核派、革マル派など多くの派閥に分かれて活動していた。だが、やがて彼らの間で、思想や活動方針を巡って争いが起き、血で血を洗うような悲惨な抗争事件が多発するようになった。


「┅┅ここにいる、山口洋平の父親は、一番過激な活動で知られた赤軍連合の幹部だった┅┅」

 首都圏で治安部隊に追われ、内部の抗争で分裂状態だった各組織は、首都圏を逃れて活動の拠点を地方へ移そうとしていた。そんな中、公安部隊に追われた赤軍連合のメンバーは、小さなグループに分かれて逃げることになった。山口の父親たちは、長野県の山中へ逃れ、数週間山中をさまよった。やがて、食糧も尽き、切羽詰まった彼らは、八ヶ岳の麓にある登山客用の宿泊施設を襲い、そこを占拠した。世に「八ヶ岳山荘事件」として知られる事件である。


 彼らは、この山荘の管理人夫婦を人質にして立てこもった。地元警察を中心に、首都圏からも応援の警察官が駆けつけ山荘を包囲した。この中に、西浦の父親もいた。

 警察の説得は続けられたが、犯人グループは応じず、膠着状態は一週間にも及んだ。警察内部では少数精鋭による強行突入の意見が強まり、密かに実行するグループのメンバーが選抜されていった。


 一方、山口たち犯人グループの中でも意見が二つに分かれ、連日激論が戦わされていた。一つは、人質を殺し、警察の威信を失墜させてから、自分たちも戦って死のうという意見、もう一つは、あくまで逃げ延びることをあきらめず、警察に要求し続けようという意見だった。山口は後者の中心だったが、大勢は前者の意見に傾きつつあった。


 そして、籠城から九日目の未明、ついに六人の警官隊が木製の勝手口を外して、内部に強行突入を決行した。犯人グループには、山荘の管理人が所持していた狩猟用の散弾銃が一丁あるだけで、他に武器といえば登山用ナイフとその場にある椅子や箒くらいだった。

 しかし、狭い屋内をうまく利用したゲリラ戦術で六人の警官たちを翻弄し、三時間に及ぶ激闘の末、ついに撃退してしまったのである。


 三人の警察官が命を落とし、二人が重傷を負ってそのまま人質となり、一人だけが命からがら脱出して救助された。実は、重傷を負った二人の警察官の内の一人が、西浦の父親だった。

 犯人側も八人のうち二人が射殺され、三人が銃で撃たれて負傷していた。ここに至ってリーダーの山口は死を覚悟し、次の強行突入の前に自分たちらしい幕引きをしようと決めた。

「┅┅彼らは人質を全員解放した後、屋根に登り、ボロボロになった革命の旗を立てた。そして遠くから注目しているマスコミ陣に向かって、メガホンを使って自分たちの主張を叫び始めた┅┅だが、その声は途中で銃声によって途絶えた┅┅」


 西浦はそう語り終えると、優士郎の肩にかけられたライフルを指さして言った。

「そう、その銃によって、人の命は簡単に消されてしまう。その人が持っている夢も可能性も、家族の希望も┅┅だが、山口は、人質を殺そうと主張する仲間に向かって、こう言ったそうだ┅┅『我々の目的は、人の命を奪って革命を成し遂げることではない。むしろ、人の命を一つでも多く救うことによって、革命の意義を未来につなぐことこそ、何よりも大切なのだ。未来への希望を持とう。ただの人殺しで終わってはならない』┅┅私の父は、その後警官をやめて、教職の道に進んだ。父はよく私に言ったものだ┅┅この世には死んでいい人間など一人もいない。お前も、一人でも多くの人の命を救う人間になれ、とね┅┅」


 黙って西浦の話を聞いていた優士郎は、小さく何度も頷いたあと、顔を上げて西浦を見つめた。

「なるほど……あなたがその男を助けたい理由はわかりました。でも、父親と違って、その息子は多くの人の命を奪っている。これからも奪うかもしれない。そんなことくらい、あなたは百も承知のはずだ。それでも、あえてその男を助けなければならない理由が、あなたと吉田さんにはあった┅┅」

「なな、何を言ってるんだ、貴様、そ、そんな┅┅」


 吉田の慌てぶりに、西浦はため息を吐いて、手で吉田を制した。

「もう、証拠は掴んだと言わんばかりだが、聞かせてくれないか?我々が、山口を助けなければならない理由とやらを┅┅」

「その前に、教えてくれませんか。ここから無事に車で逃げられたとして、どこへ行くつもりだったんです?」

「┅┅そんなこと、言うと思うかね?」

「はは┅┅言わないでしょうね┅┅だいたい察しは付いていますが┅┅」


 優士郎はそう言うと、左手を挙げた。

 団地のビルの陰から、二人の男が現れて彼らの元へ近づいてきた。

「栗木┅┅」

 西浦と吉田は、黒田と並んで歩いてくる人物を見て、表情をこわばらせた。


 黒田は、山口が中にいるのを確認して、車のドアの横に立ち止まり、栗木は、反対側の優士郎の横に行って、西浦たちと向かい合った。

「西浦刑事課長、吉田刑事、お二人には、三年前の横須賀麻薬取引事件の行方不明金、四億円を横領した容疑の重要参考人として、捜査令状が出ています」

「な、何を馬鹿な┅┅」

 吉田は青ざめて、ぶるぶると拳を振るわせ始め、西浦は、憎々しげに栗木と優士郎を交互ににらみつけた。


「いやあ、偶然とは恐ろしいですね┅┅」

 優士郎はにこやかな顔で言った。

「栗木さんには、過去のテロ事件について調べてもらっていたんですが、国内のテロ関係事件の共通事項に、あなた方の名前が出てきた。もちろん捜査側の担当者としてです。ほとんどの事件が、爆発物や薬品によるテロまたは予告、未遂、脅迫などのたぐいですが、その中に、毛色の違った事件が一つだけありました。それが、三年前、横須賀港の船上での麻薬取引事件です。この時、情報が事前に漏れていた疑いもあるんですが、それは後にしましょう。この事件で、インドネシアのイスラム系テロ組織の三名が麻薬密輸の現行犯で逮捕、二名行方不明、日本の広域暴力団関係者五名全員逮捕、ヘロイン二十キロ押収。結果としては、公安部のお手柄だったんですが、テロ組織に渡った現金四億円が、行方不明の二人とともに消えた。この後も捜査は続けられたが、結局分からなかった┅┅」


「ああ、確かにその時、我々も捜査に加わっていたが、それだけで四億円横領の犯人扱いとは、ふはは┅┅お笑いぐさだな┅┅」

 西浦はまだ余裕のある表情だったが、吉田の顔は蒼白でしきりに額の汗を拭っていた。


 優士郎は西浦の言葉に頷いて、続けた。

「はい、ここからが肝です。捕まった三名のテロ組織の男たちは、取り調べの中で、逃げた二名の内一人が、日本人だと自供しました。彼らの間ではアブサラムと呼ばれていたようですが┅┅恐らく、そこにいる山口でしょう。では、山口とあなたたちを結びつける物は何か?と考えたときに、行方不明の四億円に違いないと思いました。恐らく逃げるときに、犯人とあなたたちの間で取引があったのでしょう。見逃してくれたら、半分をやるとか、そんな感じです。残りはいずれ取りに来るから預かっておいてくれとも言われたのでしょう。今回、まさに、山口はその残りの二億円を取りに来た、というわけです┅┅」


 パチパチとゆっくり拍手する音に続き、西浦の嘲るような笑い声が聞こえてきた。

「あはは┅┅いやあ、どこかのアニメの名探偵のような推理だったね。すばらしいよ。だが、残念ながら、何一つ証拠が無い。空想で逮捕はできないんだよ、ん?オニ鹿島君┅┅」


 優士郎も笑いながら、頭をかく。

「ははは┅┅そうですね┅┅あなた方が今、理不尽にも、無差別テロ犯を逃がそうとしていることが一番の証拠ですが┅┅足りないなら、もう一つ┅┅さっき、偶然と言ったのは、先の紫龍の事件の時、犯人の遺留物を調査するために銀行の貸金庫を調べたことがあったんですが、偽名を使う犯人だったので、一応その銀行の貸金庫の所有者全員のリストを、見せてもらったんです。実は、その時偶然に、そのリストにあなたと吉田さんの名前を見つけたんですよ。いやあ、お二人はお金持ちなんですねえ。一般庶民は、貸金庫なんてとてもじゃないが借れないし、必要もありませんからね。どうせ、これから、その銀行に行くつもりだったんでしょう?一緒に行って、貸金庫の中身を見せてもらっていいですか?」


 優士郎がここまで言ったとき、突然車の中から笑い声が聞こえてきた。そして、連続爆破テロ事件の主要メンバーで、国際指名手配犯人山口洋平が車から出てきた。


「あははは┅┅もう、いいぜ、西浦さんよ。あんたらが目を付けられた時点で負けなのさ」

 山口はそう言うと、西浦の肩を叩いてから、いきなり特捜隊員服の内側から銃を取り出した。そして西浦を後ろから羽交い締めにしたまま、まず、背後にいた黒田に向けて発砲した。

 西浦を楯にされて、優士郎は銃を撃てなかった。山口は、黒田が車から離れると、急いで運転席のドアを開け、中に乗り込んだ。ここまで、ほんの四五秒ほどの出来事だった。


 エンジンの音と共に、急発進でタイヤがスリップする音と白煙が上がる。西浦と吉田は車に取りすがろうとして振り落とされ、アスファルトの上を転げ回った。

 その時、数発の銃声が響き、車の前輪のタイヤがバーストした。しかし、山口はなおも逃げようと、出口の方へハンドルを切った。その行く手に、黒い影が立ちふさがる。

「死ねえええっ!」

 パンクしたタイヤのまま、山口は思いきりアクセルを踏み込んで、立ちふさがった人影に突っ込んでいく。

 サイレンサーの鈍い音が響き、フロントガラスが砕け、血が飛び散った。車はそのまま出口を通り抜け、道路を横切ってガードレールに激突し、ようやく止まった。


 酒井と飯田が車の中の遺体を確認し、エンジンを切った。駐車場ではすでに、西浦と吉田に手錠がはめられ、パトカーのサイレンの音が近づいてきていた。

優士郎は何かむなしい気持ちで、黒田たちの所へ歩み寄った。手錠をはめられた西浦と吉田が、うなだれて立っていた。


「今回は死人を出さないつもりだったんですが┅┅」

 優士郎が誰に向かってというわけでもなく、そうつぶやくと、西浦が、ぎろりと優士郎を睨んで言った。

「貴様は、人殺しと何ら変わらん┅┅いずれその報いは受けなければならんぞ┅┅」

「┅┅そうですね。でも、その前に死んでいる気がしますよ」

 西浦と吉田、それに五人の公安部の警察官が、背信行為や横領、犯罪幇助などの罪で逮捕され、かつての部下たちに連行されていった。その頃には、もう優士郎たちはその場を離れ、本部への帰路についていた。


 酒井の運転する車の後部座席では、既に優士郎が寝転んで寝息を立てていた。

「鹿島さん、夕べも徹夜だったみたいだな┅┅無理し過ぎじゃないか?」


 助手席の飯田礼奈は、夕べ途中まで一緒だったことは言わず、バックミラーで優士郎の無邪気な寝顔を見て微笑む。

「何を言っても、聞かない人だからね┅┅」

「えっ、そうか?飯田君の言うことは、鹿島さん、けっこう聞いてるイメージだけど┅┅」

「そ、そんなことないよ┅┅うまくはぐらかされるっていうか┅┅」

「ああ、そうそう、はぐらかすのうまいよなあ。それでいて、肝心なところはビシッと決める。男の俺が惚れるんだから、女も惚れるよなあ、ハンサムだし┅┅なあ、飯田君」

「ふふ┅┅わたしに探りを入れようなんて、十年早いわよ」

 酒井は苦笑しながら、車のヘッドライトを点ける。すでに、日は沈み、辺りも夕闇に沈み始めていた。

                                       (前編 完)


 


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