2話
ヒマつぶしどころではなかった。
子育てをなめていた。なめくさっていた。未経験者が一人でできるものでは到底なかった。
月光はよくこういうおっちょこちょいなことをする。
『まあ大丈夫じゃろ』が心の口癖だった。そのあとに来る『しまったぁぁぁ!』までがセットだった。
長い時間を生きたからといって、人格が研磨されて無謬になるわけもない。残念なことに人にはのびしろというやつが生まれつき定まっていて、月光のそれは短かった。
生きる時間が伸びるたび指数関数的に後悔が増えていく。
赤ん坊の世話は多忙を極めた。眠れない。目を離せない。忙しすぎて死ぬかと思った。でも死んでも何も解決しないのはわかっていた。それで解決するなら、月光は迷いなくちょっと首でも吊ってくるタイプだ。
けっきょく、知り合いの商人の手とか知恵とかを借りることになってしまった。
「『銀糸』様は」月光には時代・コミュニティごとに名があり、現代、商人コミュニティで使っているのが銀糸という名だった。「まあ、いろいろ面白いことをなさるが、まさか気まぐれに赤ん坊を拾うとは。なんともはや」
売ればよろしいではありませんか、と知り合いの商人は言った。
奴隷制度だ。しかしそれは冗談だとすぐにわかった。
今の時代、奴隷となるのはたいてい獣人の側だった。月光が拾った赤ん坊は人間族で、これを奴隷として売買すれば厳しい罰則がある。
月光は獣人寄りの生き物だ。また、行商人の多くは獣人だった。
これは獣人が、エルフにおける『森』とか、ドワーフにおける『山』みたいな根拠地をもたず、移動国家と呼ばれる荷車の群れを種族拠点にしているのが理由だった。
様々な領地を許可なく越えることが、獣人のキャラバンと旅芸人、そして冒険者だけは特権的に許されている。
……などと言えば権力があるかのようだが、それは一応許されているだけで、領主のなんくせがついたら途端に拘束される程度の、権力というよりは通例みたいなものでしかなかった。
奴隷商人はいて、同族を売り物にしている獣人もいて、それらも自由に領地間を越境できるが、商品の中に人間族がいたら、見咎められることだろう。
「なににせよね、人間なんざ、育てるモンじゃございませんよ。ええ、ええ、手前どもは、そりゃア商人でございますから、お足さえいただければ、物を売りましょう。手間もかけましょう。でもね、人間はよろしくない。獣人と人間の親子なんぞ、うまくいきっこないのです」
五十を超えた獣人の女性は、なにか思うところがありそうだった。
月光がうながすと、待っていましたとばかりに語り始める。
「金が民を殺す御世でございますから、食い詰めた人間族が一家で首をくくることもございましょうな。そういった時に、しのびないのか、うっかり忘れるのか、生まれて間もない乳飲み子が、ぶらぶらと揺れる両親の足元でほんぎゃあほんぎゃあと泣いていることがございます。手前どもはあっちからこっちへと行き来する商人でございますれば、そういった場面にでくわすことも、まァないではありません。赤ん坊というのは、これ、かわいらしいものでございます。見てると情がわいて、うっかり育ててやろうなんて、そんな魔が差すこともございますな。で、育ててみますな。そしたらね、あいつらはあっけらかんと言うんですわ。『俺は街で成功する。あちこちに頭を下げて、下っ端扱いばっかりされる行商人なんざまっぴらだ』と。その立派な口を利けるようになったのも、下っ端稼業で稼いだ銭のおかげだと、理解もできない恩知らずなんですわ。ええ、ええ、ほんと、あの悪たれ、今ごろどこでなにをしているのやら」
私怨がだいぶありそうだった。
だが、示唆に富んだ話だとも思えた。
ようするに、子供はある程度育てばいずれ巣立つのだ。それは、月光にとってちょうどいいことだった。
「まァ、『銀糸』様の御用命とあらば、代理の母乳でも、子育て経験のある連中でも、なんだって運んでみせましょうとも。けれどね、人間族が偉いこの世界で、獣人のアタシらに育てられた人間族は、知恵がつくと大変に生意気でございますよ」
まったくもう、と言い残して行商人は去っていく。
五十歳といえばもう高齢も高齢のはずだが、その足取りは重い荷物を背負いながらも軽やかで、彼女の行商人としての人生が一歩一歩にうかがえるようだった。