アンジェと孤児院
「あったまいてぇ……」
頭がガンガンする。酒をしこたま飲んで死ぬほど後悔したときを思い出す。いや、これは少し違うな。あれだ、思いっきりぶん殴られたときのアレだ。ああクソ、頭がもやもやする。
体を起こして頭を掻く。こぶはないみたいだ。体を動かす。酷い怪我もなさそうだ。
そこでようやくまぶたを開けると、目を刺すような光りが飛び込んできた。思わず目がくらみ、手で光を遮った。薄目で辺りをうかがう。
煤けた壁に囲まれ、薄暗い室内。小さな窓の戸が開け放たれ、日光が降り注いでいる。俺はベッドに寝せられていた。と、すぐ近くで人影が動いた。
「お、あんちゃん起きた。体は大丈夫?」
少女が寝起きに聞くには元気すぎる声でそう言って、顔をすぐ目の前まで近づけてきた。近い近い。
「なんか少しだるいけど……ええと、誰だっけ」
ベッドから体を起こし、頭を押さえながらそう言うと、別の方向から声が飛んできた。
「こりゃだめそうですね」
離れたところで椅子に座っているペトラが目に入った。床に届かない足をブラブラさせ、やれやれと肩をすくめて頭を振った。
「――お前がペトラってのは覚えてるな。そっちはええと、そうだ、アンジェだアンジェ。ペトラに比べて俺をちゃあんと心配してくれる優しいアンジェだ」
「ワタシの優しさはタダではありませんので」
ペトラはプイとそっぽを向いた。
「ペトラ、もうちょっと人に優しくしなさいっていってるだろ」
妹を叱る姉みたいに、アンジェはペトラをとがめる。
「ワタシはあなたの指図なんてうけませーん」
頭の後ろで手を組んで口笛を吹いた。いや、吹けてはいないんだが。仲良くしろよお前ら……。しかしペトラは客以外が相手となると、対応が優しくないというか雑というか。
「そういえばあのデーモンはどうなった?」
大事なことを忘れていた。最初に聞かなきゃいけないことだろうに。
「ああ、もう片付けは衛兵さんに任せちゃいましたよ。後で話を聞きたいとは言ってましたけど」
なら大丈夫だな、と安心したそのとき、部屋の扉がかすかに音を立てて開いた。
「おや、お目覚めになりましたか」
聖職者特有の服を着た男が部屋に入ってきた。背丈は俺と同じくらいで、亜麻色の髪を短く切っている。働き盛りを過ぎていて、落ち着いた雰囲気だ。ゆったりとした低い声は、安心感さえある。
「院長!」
アンジェがそう言うやいなや走り出した。院長の目の前まで来たところで大きく踏み切ろうとして、
「アンジェ」
院長が左手を突き出し、優しく制止した。するとアンジェはビタッとその場にとまった。
「お客様も来ているのですよ」
「う、うう……」
肩を落としてがっかりするアンジェ。その年で異性に飛びついちゃいかんぞ。いくら父親以上の歳の差とはいえ。
「失礼しました。この子は昔からどうも落ち着きがなくて。それで、お体の調子はどうですか」
「ええ、おかげさまで」
「そうですか。それは良かった。私は院長のローランです。ああ、院長と言っても分かりませんね。ここは――」
「ここはサン=シャリテ孤児院だぞ。私もここで育ったんだ」
アンジェが間に割り込んで元気に言った。まるで自慢するみたいに。
「気を失ったあなたを――」院長は目の前に立つアンジェの肩を持って除け、「アンジェとペトラ殿が運んできたのです」
「それは――本当にありがとうございました」
「ほんと、うちの人がご迷惑を」
ペトラが一緒に深々と頭を下げた。お前は謝らんでいい。
「ハハハ、まだ体もお辛いでしょうからゆっくり休んでいってください。――アンジェ」
院長が目配せすると、
「二人とも腹減ってるだろ? すぐ用意するからな」
言い終わる前に部屋を出るアンジェ。
「それではごゆっくりしていってください」
「そんな申し訳――」
俺が断りを入れる前に院長は部屋を出てしまった。
「ま、タダ飯ですからありがたくいただきましょう。補佐官さんもお金無いんですからうれしいでしょう」「現金なやつだな」
それからすぐにアンジェが三人分の料理を運んできた。
「さ、食べな食べな。二人とも大盛りにしたからな!」
そう言いながら、いの一番にスプーンを手に取った。そしてはたと気づいたように動きを止め、
「おっと、その前にお祈りしないとな!」
てへへ……と頭を掻いた。
「あなた神官でしょう……」
ペトラが目を細めて渋い顔をする。
「こういうこともあるさ!」
アンジェはそう言い放つと、祈りの言葉を唱えた。俺とペトラもそれに続く。
「さ、召し上がれ。ここのスープは旨いんだぞ」
そう言うとアンジェは意外にも、とても上品に料理を口に運び始めた。本当に意外だ。そう思って眺めていると、アンジェがこちらを向いて得意げに顎を上げ、ムフーと鼻息を漏らした。
一方のペトラはというと、ツンと澄ました態度で黙々と食っている。その様子を見ていると、不機嫌そうに小さな鼻をフンと鳴らした。
なんでか仲が悪いなこいつら。というかペトラが一方的に嫌っている感じだが。
「あ-、しかしいい院長さんだな」
特に言うこともなく、院長を話題に出したのだが、
「そうだろ! 院長にはいろんな人が感謝してるんだ」
身を乗り出してうれしそうに答えるアンジェ。
ちらりとペトラに目をやると、食卓に肘を突いて興味なさそうにしていた。
「――それに、最近は街にいろんな人が入ってきて物騒だからって、近くの見回りもしてるんだ」
それが分かってるなら街中で一人でいるのはやめような。
「この前もそれで酷い目にあったよ」
「戦争が終わってから、たくさん人が流れ込んできてるからなぁ」
その後もアンジェは院長のことを楽しそうに話し続けた。ペトラはずっとつまらなさそうにしていた。
食事を終えると、アンジェが食器を片付け始めた。ペトラはというと、手に持った帳簿らしき物を、眉間に皺を寄せて見つめていた。
俺も片付けを手伝おうと立ち上がると、
「お、片付けはもう終わりだからもういいぞ。ありがとな」
見るとアンジェが手際よくすべての器を片付けていた。……ん? なんか声がしたような。辺りをさりげなく見渡すと、
「アンジェ、なんか扉の後ろに……」
「あー……みんな、隠れてないで出てきていいぞ」
そう言うと、扉の後ろからワッと子供達があふれ出してきた。ペトラよりも頭一つ小さい。大人の手伝いをするのも難しいくらいの年齢だろう。
「おっさん誰?」「姉ちゃん何読んでんの?」「アンジェ姉、一緒に遊んで!」「院長じゃないおっさんがいるぞー」
ワラワラと子供達に囲まれるアンジェと俺。ペトラは――怖っ、寄ってきた子供を睨み付けて散らしていた。
子供達と楽しそうに話すアンジェ。一方の俺は男の子達に囲まれぽこぽこと足を叩かれていた。何故だ。
「ほらそこ、お客さんの足を叩かない。そろそろ部屋に戻らないと怒られちゃうぞ。あとで一緒に遊ぼうな」
そう言って子供達を部屋から送り出していった。
と、一人の女の子がアンジェの服の裾をつまんで引っ張った。
「アンジェ姉……今日は泊まっていって」
「ん、珍しいな。リュシーがそんなこと言うなんて。何かあったのか?」
アンジェが優しく微笑みながら言った。するとリュシーと呼ばれた女の子は、ちらっと俺とペトラを見ると、俯いてしまった。
「今は知らない人もいるもんな。後でお話聞くからな」
「アンジェ姉――ありがとう」
そう言うと、彼女はテテテ、と小走りで部屋を出て行った。
「ここの子達か」
「そう。みんなとってもいい子なんだ。院長のお手伝いもするんだぞ」
腰に手を当て胸を張るアンジェ。
「あれだけ元気だと毎日相手にしてたら疲れそうだ」
「週に2回くらいは来るけどいっつも大体こうだよ。今日はお客さんもいるから少し元気すぎたけどな!」
そう言うアンジェはうれしそうだ。
「教会でのお勤めの間に来てるのか――あ、今日も奉仕中だったか? 悪いことしちゃったな」
「大丈夫大丈夫。今日は協会のおつとめは休みでこっちの手伝いで来てたから」
「それじゃあ休みがないんじゃないか? 大変だろ」
「大変だし、嫌なこともあるけど、みんながいるから辛くはないよ!」
アンジェがパッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「いろいろとお世話になりました」
孤児院の入口で院長に挨拶をする。
「本当に、本当にうちの人がご迷惑を……」
「ご無事でなによりです。今日は安静にしていた方がいいでしょう」
「ええ、そうですね。今日はやることも――やる……こと……ハッ!」
思い出した。思い出してしまった。街中でデーモンとかが出てくるのが全部悪い。
「ペトラ」
「どうしました?」
「かちょ……ローラさんが呼んでる」
一応部外者もいるので課長呼びはやめておく。
「へ?」
もともとまん丸な目をさらに丸くして驚くペトラ。
「そのそも俺がお前のところに来たのも、それが理由だった」
「な、な、な、なんで早く言わないんですか!」
ペトラが声を荒らげる。
「しょうがないだろ。あんなことがあったんだ」
「ああもういいです。行きましょうすぐ行きましょう今行きましょう。ワタシが担いでいきますから」
そう言うと、俺の首の襟をガシッと掴んで引きずり出した。逃れようともがくが想像以上の力で振り回されてそれどころじゃない。ぐるじぃ……。
ペトラに捕らえられ、ピョンピョンと家々の屋根を飛び跳ねる衝撃に耐える。一瞬、あっけにとられた院長とアンジェの顔が見えた気がした。うう……吐きそう。
3月31日と言いつつぎりぎり間に合わずに4月になってしまいました。
つ、次こそは予定通りの更新をできるように頑張ります……。
次回は4月21日更新予定です。