二十九話
日が沈んだ太平洋の上空を飛ぶ。
辺り一帯は暗海が延々と広がっており、波の音だけが暗黒の世界を支配していた。正希の視界の右上に表示された座標上の二つの点は、静岡から数十キロの地点で点滅していた。自分たちがどこにいるのか、アグリメントのGPS機能がなければ皆目見当もつかない程に海は広い。
隣を飛行する少女に視線を送り、正希は訊く。
「ねえ、どうして西条さんは九州に来たの?」
少年の問いに、少女は顔を赤らめて答える。
「そ、そりゃあ、ほら、アグリメントにはGPSがついてるでしょ?それに、正副隊長の間ではお互いの座標は確認出来るじゃない?ちょっと覗いたら、太平洋上にあなたの座標があって、それでびっくりしちゃって……………その!違うの?別にいつもは確認してないからね!?ただ、パトロールとかしに行くって、らしくもない事言ってたから、心配になって……」
何やらあくせくし出した少女は、動揺を隠すために顔を背ける。
「いや……そうじゃなくて………どうして危険を冒してまで来たのかな……って」
少年の言葉に、千歳の動揺の色はさっと引いた。
「……………………あなた、それ本気で言ってるの?」
「え?………………うん」
「…………………………」
千歳は言葉を返さなかった。
無言の時が流れて行く。何やら反感を買ったらしいと察した正希は、東京にたどり着くまで、それ以上彼女に語りかけることは無かった。
二人を見下ろす夜空の月は、ひっそりと厚い雲にその身を隠していた。
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「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
東京に帰り着いてから一夜明け、医療班による治療を受けた正希は、首相官邸の総理大臣室で執務席に腰掛ける首相に向かって頭を下げていた。隣には、そんな彼を見守る千歳が立っている。
「まあ………その、なんだ。取り敢えずは頭を上げてくれくれたまえ、正希君。確かに君の行動は重大な規律違反だ。我々政府としても、最高戦力を失い欠けたことだし、事態を重く見ている。しかし、君が多大なる成果をあげたこともまた事実。………それに、総理大臣として君を責める義務はあっても、君たちの戦いを強いている立場としては、私に君を咎める権利はない……」
「ですが…………特化班の第一席としては、今回の過失に対し責任を負う義務が有ります」
「それはまさにその通りではあるな。勿論、君には懲戒が下される。今日君を呼んだのは、それを伝える為でもあることだしな…」
「はい………申し訳ございませんでした」
国防の最高戦力である六席の、さらにその首席である正希の今回の行動は、首相の言葉通りに明確で重大な規律違反である。もし仮に、国防のキーマンである彼が死ぬようなことがあれば、それは日本国民の安全保障にに直結すると言っても過言ではない。
個人的感情を優先させ、特化班としての立場を疎かにしたことを自覚している正希は、いかなる処罰であろうと受ける覚悟はしていた。
再び頭を深く下げた正希は、首相から下される処罰の言葉を、ただ無言で待っていた。
「君に処罰を言い渡す。特化班第一席綾本正希、君を重大な規律違反により、降格に処する。席次を五つ落とし、本日付で君は第六席だ。それと、西条院君には、今後暫くの間は君の監視も務めてもらう。君の自由を制限させてもらうよ。そのくらいの罰は受けてくれるな?」
「……………了解しました」
特化班の首席から、第六席への降格。処分を言い渡された正希は、重ねて頭を下げた。
現日本の国家公務員にとって、一般的には降格処分は、実質出世コースから外れたことを意味する。無論、降格を望むものなどいない。
しかしこの時、正希は降格したことにさえも別段負の感情を抱くことはなく、むしろ好意的な感情さえも抱いていた。
空白だった第六席に、渡本子が在籍していた六席に、自分が就くことができた。このことは、決して正希にとっては悪いことではなかった。寧ろ処分が軽すぎるのではないか。そう思うほどに、正希にとって今回の処分は呆気ないものだった。
その上、自分のしたことに反省こそすれど、後悔はしていない。正希の感情は、なんとも言い難い複雑なものだった。
「…………さて、処分を言い渡したところでだな」
突然、首相が立ち上がる。そして徐に引き出しを開け、一枚の紙を取り出すと、それを正希へと向けた。
「………………これは?」
正希は首相が見せた紙に目を凝らした。用紙の中央部分には『辞令』の文字がある。さらに視線を下に降ろすと、そこには『特化班第六席綾本正希を、兼職で特化班第一席に任命する』との記載があった。さらにその下には、内閣総理大臣の捺印がある。
「おめでとう……と言っていいのだろうか?君は今日から特化班の首席兼第六席だ。昇任人事だ。それも特例のな」
「え?どういう……事ですか?」
正希は事態が飲み込めず、ポカンとしてただ紙を見つめていた。
「っ!良かったじゃない、正希。実質的にはお咎めなしって事じゃない?」
「…………え?」
益々頭が混乱する。何故たった今降格した自分が昇格しなければならないのか。先ほどまでの処分は何処へ行ってしまったのか。一体何が起こったのか。正希は首を傾げる。
「……否、お咎めなしとは少し違うな。西条院君。コレは彼の実績に対する評価だよ。九州のほぼ全土を一人で奪還したのだ。当然、その事への評価はあってしかるべきだ」
「いや……でも……しかし____」
これでは皆に示しがつかない。そう言おうとした正希であったが、それを遮るように首相は続けた。
「話はこれまでだ。私はこれから国会で予算質疑が有るからな、もう行かなければならない時間だ」
そう言うと、首相は反論を受け付けないように、退室間際に「二人は今後の六席としての在り方を協議するように」とだけ言い残し、数名の部下を引き連れて総理大臣室を後にしてしまった。
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