第四話
飯を食いながら、男は官報に目を通していた。
面白い話はない。我々は敵を圧倒している。連戦連勝。撃滅、壊滅、殲滅……云々。
朝か夜か。なんともわからぬ暗く寒い部屋。
女は再び全身濡れそぼっていた。眠っている女に、男が水をかけたのだ。
服は体にぴっちりとくっついて、吐く息は白い。
「腹が減っただろう」
男は手についたパンかすを払いながら言った。
女は俯いたまま何も言わないので、男はうわごとのように繰り返す。
「腹が減っただろう」
男は官報の粗悪な紙をくるくると丸め、女の頭を、すかん、と打った。軽く、抜けるような音が響いた。女はうめき声一つ上げない。半開きの口からは、涎か、あるいは散々に飲ませた水がしたたり落ちている。
そのとき、銅製の錆びて重い戸がぎしぎし鳴った。誰かがノックしているのだ。
男はなるべく外的な刺激を与えたくなかったので、扉に「周辺で音を立てることを禁ず」と張り紙をしていた。それにもかかわらず、である。
どのような教育を施してやるべきか思案しながらカギを開けると、間髪入れずつかつかと中佐が入ってきた。帽子を脱ぎ、意味を含ませているつもりなのだろうか、朗らかな笑みを男に向けてきた。
「どうだ、調子は?」
「順調であります」
「その報告は一週間前にも聞いた」
直立不動の男に中佐は詰め寄る。胸についた勲章がジャラジャラ鳴る。上ずった声が響く。秩序が乱れつつあることに、男は苛立つ。
「早く吐かせろ」
「もう少しです」
男の態度に怖気づいたか、咳払いとともに中佐は顔を背けた。中佐はそのままばつの悪そうに俯いていたが、突然官報を男の手からひったくると、女の傍に寄って言葉を投げつけるように言った。
「お前たちは死に体だ」
女は両手首は背中で鎖がはめられおり、ちょうど額をついて祈るような態勢になっていた。中佐は髪をつかんで、女を無理やりに引き起こすと、官報を眼前につきだした。
「お前らの敗北は確定している。見ろ、こいつを。読めないのか、字が読めないのなら、読んでやろう」
武人としての矜持が隠していた、それでも、一瞬だけ漏れでてしまった笑みを、男は見逃さなかった。
中佐はいかにも士官学校出らしく訛りのない揚々とした発音で、官報が伝える「敵の壊滅」を読み上げていった。
曰く、――
冬色にくすんだ平原に整列した一個師団が、百に満たない騎兵の突撃を、文字通り粉砕したとか。
あるいは、残党をかくまっていた山間部の集落を焼き払い、住民ともども一人残さず谷の下に突き落としたとか。
それとも、すでに首都を逃れていた政治家が一人一人見つけ出されて処刑され、代わりに平和かつ民主的な政権が抑圧されていた自由民により打ち立てられたとか。
彼らは無条件降伏し、戦争にともなう責任と賠償を認め、白紙協定を結びつつあるとか。
――するとどうだろう。
「痛い」
と、女が言った。
今度こそ正当な微笑む権利を得て、中佐は頬をほころばせた。
「ほら、お前のやり方が温いのだ」
男は目を大きく見開いて女の全身を見た。女の身体で汚れていないところはなかった。至る所に生傷があった。口からは涎が糸を引いてタイルに落ちていた。男は首を傾げた。
「痛い?」
女は俯いたまま言う。
「痛い」
女はうめき身体を仰け反らす。
男は咄嗟に女に飛び掛かり、女の口に縄を詰め入れた。
「痛いか?」
女は口を不自由に動かし、そして二度かすかに頷いた。
「どうした?」
「舌を噛む可能性がありましたので」
狼狽する中佐を無視し、男は女の頬を両手で固定して顔を正面に据える。覗き込んだ薄い緑の目の奥に、何かしら意味のあるものを見出せるのならば……。いや、まったくの無駄だった。女の目は死んでいた。男は深く、深く、落胆した。
男は自分用の椅子と机を引き摺って運び、女の前に置いた。そして痩せた身体を抱え上げて座らせると、机を先の丸まった鉛筆を握らせた。
「知っていることを全部書け」
女は手をけいれんさせながら、みみずの這ったような字を書いていく。
「あとは私一人で十分です」
中佐は少年の澄んだ目で答えた。
「いや、私にも見物させろ」
女は何度も字を間違えた。語彙は少なく、助詞の使い方が滅茶苦茶だった。
だがその内容は、男を震撼せしめた。
残存勢力を集中させて、一気に城を叩く。
城とはおそらく、西部戦線と南西部戦線の間に位置する交通の要所であり、三年前より、西の都として整備が進められている街を指しているのだろう。
城は三方を急峻な山に囲まれた、守り易く攻め難い盆地にあった。幾重もある戦線を突破しない限り到達できない土地であることに加え、宣撫活動が上々であったことから反乱はなく、よもや戦火が及ぶなどとは、ここ三年で帰化した市民たちでさえ思わないだろう。
守りは決して厚いとは言えない。
男は動揺する。
一方、中佐の顔は微動だにしなかった。まるで知っていたかのようである。
「しかし、どうやって到達する。お前らの軍隊はここを突破することもできないではないか」
聞こえているのかいないのか。中佐の問いかけを女は無視したが、男が頭を叩いてもう一度同じ問いかけをすると、壊れかけのブリキの玩具のごとく動き始めた。
山を越える。
「まさか」
「ありえない」
女は強く頷いた。
男と中佐は部屋を出て、誰もいない廊下の、油の切れそうなランプが照らす明りの陰に隠れた。
「信じるか」
「俄かにはできませんが、しかし意図は理解できます」
「だが、手段がめちゃくちゃだ。あの山は峻険な常雪山だぞ。最新装備で、踏破のみを目的とした測量隊でさえ登頂が精一杯だったと聞く」
「ですが、我々が占領するまでの三百年、彼らはあの地に住み続けてきました。抜け道を知っているかもしれません」
「今は冬だぞ」
「連中は百人で一個師団に突入してくる気狂いばかりです」
中佐は考え込む。
「意図は理解できると言ったな。もし連中の思惑通り、事が運べばどうなる」
「二つの戦線が完全に分断し、孤立します」
――それどころか、だ。
「ここは本土から航海に四日をかけてのち、鉄道で二日の距離にあります。あの城がもし陥落すれば、もし“今このままの状態”で陥落すれば、一番近くで一番重要な銃後を守る行政官や政治家たちが根こそぎ失われてしまうでしょう」
中佐は馬鹿ではない。男の言わんとするところを十分理解できる。
戦争は軍のみで行うものではない。兵や弾を生産し鉄道を敷いて補給し続けているのも、国を定期的に揺さぶる革命を抑制するのも、前線の背後に広がる広大な占領地の鎮撫を行うのも、全て彼らである。彼らを失い軍が機能不全を一時的にでも起こしてしまえば、――もしもその空隙を突かれてしまえば、致命的な影響を被る可能性だってあるのだ。
「今は恭順しているとはいえ、もし彼らの王が帰還すれば、民衆の中に呼応する動きが出る可能性があります。占領地の一部が敵地に戻る恐れも」
「武器も持たない市民に何ができる」
「希望が生まれれば、いずれにしても侵攻は十年後退します」
「ああ、希望とは厄介なものだな。そしてその責任は私が負わされるのだな」
中佐は顎をさすりながら、二度三度うなる。
「お前から見て、あの女は真実を述べていると思うか」
「分かりません。五分五分といったところです。しかし」
「リスクの重大性と蓋然性は分離して考えなければならない。それに何故、お前が急かされたと思っているのだ。掴んでいるところでは、何かを掴んでいるはずだ」
粗悪な鯨油を使っているのか、明りの下には嫌な臭いがこもっている。
肺のすべてを蝕むような。
「お前の考えは分かった。軍議で検討する。尽力ありががとう。この話はくれぐれも外部に漏らすな」
◇◆◇
早朝、どたばたと軍議が行われ、多くの兵に「休息」を与えられることが決定された。敵のせん滅を祝い、司令たる少将が自ら彼らを率い城に凱旋するという。
冷え込みが一段と厳しい早朝だった。霜が線路脇の草に降っていた。
朝食が配されるより早く流れていた噂が、通知により正式なものであると判明したとき、兵士たちは喜びのあまり、突如降ってわいたその内容の意味を咀嚼することができなかった。背嚢も何もかも新規に給付されるとのことで、男たちは着のみで、だが笑みを一杯に抱えながら列車に乗り込んだ。運悪く守備隊として居残ることを命じられた男たちが見送りに出てきて、列車の中の男たちを野卑た言葉でからかった。




