第三話
女の肢体はしなやかで、張りがあった。
女の精気溢れる身体を見ると、男は不安になった。毎日公布される官報上において、補給を失い追い詰められた敵は、食うや飲まずで、埋葬されない餓死者が街道に放置されているような惨憺たる状況であると描写されていた。前線に久しく出ていない男にとって、これだけが世界を知る目と耳。しかしそこで謳われる困窮の影を、女の美しい肉体から見出すことはできないのだ。これは一体どう解釈すべきことなのだろうか。
ええ、そうです。
お願いします。4Bの鉛筆です。
柔らかい硬度の鉛筆は軍の備品にはなかった。それどころか昨年度から単価契約を結んでさえいないので、発注すらできないとのこと。しぶしぶ男は普段は足を向けない酒保に向かい、机の上に雑多な小物を広げていた太めの女に声をかけ、笑顔を作って慇懃に鉛筆の購入を頼んだ。
四日後、鉛筆は届いた。一本の鉛筆が手間賃を含め、たばこ一箱分の値段になった。
さっそく男は、女の姿をキャンバスに写すことにした。幸運なことだが、モデルは微塵も動かない。絵は手なぐさで始めて十年になるが、いまだ人に見せることができる段階だとは思っていない。いつもいつも素描で終わり。
女の精悍さにため息が漏れた。
男は目を瞑り、女の幸せそうな微笑みを想像した。
男なりの完成品ができあがるまで、一時間がかかった。絵の具で彩を添えたい気持ちもあるが、これでおしまい。男は画材の一切をしまう。
男は女を床に転がし、女が結びつけられている鎖や椅子を点検した。そして、女の手首を固定するナットを締め直し、椅子から抜けかけていた釘をとる。
男は設備の点検を怠らない。これらの不備、破損は昨日男が眠ってから今に至るまでで人為的に発生したものである。
「こいつで何をするつもりだったんだ」
男は錆び釘の先端で、女の頬をチクチクと軽く刺す。
女は目を合わせようともしない。
女の脚に力が入った。男は身体の角度を変え、女の動きに集中する。前回の失態の二の舞を演じるわけにはいかない。何か奇妙な動きをするのならば、女の片目をつぶしてもかまわない。
「子はいるのか?」
女は瞬きするだけで、答えない。
動かない女の目の一点に、ゆっくりと釘の先を近づけていく。
「破傷風になるかも」
女は、
「いない」
と言い捨て、全身に張っていた緊張を解いた。
これをうけて、男は釘をポケットにしまう。
「旦那は」
「いない」
まあ、そう答えるだろう。年齢を考えれば、嘘をついているわけでもなさそうだ。
――それにしても、
なんという嫌そうな顔をする。自分と話すことがよほど苦痛なのだろう。
「言え」
「何を」
「昨日伝えたはずだ」
男は椅子を持って女の傍に座り直し、服をめくり女の股に手をかけた。女の身体は死体のように冷え切っている。ただし、川から引き上げられた溺死体とは違い、肌に弾力はあるが。
親指と人差し指を使って肉をつまむ。ゆっくり、静かに、力を入れていく。男の握力は平均的だが、それでも全力で摘めば50kg程度の力を一点に集中できる。
女がうめいたので、男は指を離す。腿の内側に、紅いシミができている。薔薇を氷で閉じ込めたように見える。
「子はいるのか?」
男の問いに、女は顔をしかめた。
「いない」
「旦那は」
「今、いないと言った」
男は立ち上がり、明り取りを閉めた。窓枠の隙間から漏れ入る一条の白い線を除いて空間から光が消えた。男は持参した手拭いで後ろから女の眼を覆い、耳元でこう尋ねた。
「子はいるのか?」
口を噤む女を後ろから蹴る。
「子はいるのか?」
背骨をあえてそらして、肉を狙って、男は再び鉄のつま先で蹴る。
女は身をよじらせ、せき込む。
「いない」
「旦那は」
「いない!」
今度は二の腕をつねる。視界を奪われ心理的な準備のできない女は、肌に触れられるたび身体をびくりと震わせる。
「子はいるのか?」
挟んだ肉を渾身の力でねじられ、女は小さな悲鳴を漏らした。その声を、男は聞き逃さなかった。男は女の正面で腕を組み、上から、二三つまらない冗談を浴びせた。
男はただ、ひたすらに女の精神の退行を待っている。
男は女を殴った。
殴った。
◇◆◇
それからの数日の間に粛々と実行されたのは、「精神の退行は自己同一連続体の解体によって可能である。そして精神の退行した者は容易く奴隷に堕ちる」という信念のもとに男が標準化した一連の手続きであった。常人の想像を越えた痛みがあるわけではない。特殊な器具を使うわけでもない。女子供であろうとも、その手続きをなすのだけならば容易い。囚人を常に混乱させ、不連続に、ある程度の痛みを与えるだけである。
彼の仕事部屋は完全に外部から遮断されており、一切の刺激は排除されていた。乱数サイコロを使って決められた時間に女を起こし、同じ内容を執拗に問い、そして暴力を加える。不規則な行動をとることに、男は何の苦労も感じなかった。男は機械のように正確に不規則さを生成し続けることができた。
いくら強靭な精神といえど、いずれ限界はくる。男はそのほつれが見つけるのが得意だった。たとえば、詰問や暴力が終わり、しばらく時間をあけると、女の眼にうっすらと朝露のような涙がたまることがあった。女がこうなると、男は髪の毛を撫でてやったり、食事をとらせた。また、お湯でしぼった布で身体を拭いてやることもあった。このようにすると、ほつれは広がるものだ。女は自分が涙を流していることに気づいていないようだった。
陽光届かぬこの部屋では、時間の感覚が徐々に狂ってくる。女はときおり日付を尋ねた。男は無視する。女は尋ねた。男は殴る。女の涙がこぼれるたび、男は小さな幻滅を繰り返した。そしてその度ごと、我に返ったかのように職務に邁進するのだった。
手の皮が破け、ずきずき痛んだ。
身体の節々も痛い。久しぶりに体を動かしたからだ。
対象が耐えれば耐えるほど、男は苦しくなる。
男は優しい男なので、“ブツ”が苦しめば苦しむほど、澱が溜まってくる。そして、その悲しみがある閾に達し、男は悶え始めた。
そう、男は優しい。
男は優しい。
冬はいよいよ厳しくなりつつあった。
語るべきことは少ない。同じことが何度も何度も繰り返されただけ。
いたずらに時間だけが過ぎる。
女の反応は徐々に徐々に弱まりつつあった。




