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第二話

 男の夢に具体的な事象が現れることはほとんどない。

 しかしその夜、うっとりとした極彩色の夢に一匹のカエルが現れた。グケー。


 カエルは拳ほどの小山の上に据えられている。

 そして、その山は黒色火薬でできていた。


 振り返ると先輩がいた。五つ年上の先輩に対し、男は大人びた印象を持ち続けていたが、今となって見れば息子に当たる程度の年齢でしかない。


 男はこの後何が起こるか分かっている。ほら、見ろ。標準も定めずぶっ放された歪な鉄球が火をまとい武器庫に突っ込んでこようとしている。


 ゆっくり、ゆっくり。

 その軌跡を、男は眺める。


 男は先輩の顔を見る。先輩は喜々としてマッチの頭を擦りつけている。なんといきいきした顔だろう。迫りくる己の運命にまるで気づいていない。


「このマッチが“しけていない”と思うか?」

 男はこの後何が起こるかわかっている。なので、カエルの様子を見ようと首をひねった。


 ◇◆◇


 どこから漏れたのか、一晩のうちに女についての噂は広まっていた。内容は謎めいた女の“容姿”について。敵国の女戦士の姿は空想の中で研磨され、極端な美人か、極端な化け物かいずれかに、個々人の好みによって収束していった。男は近寄りがたい雰囲気を常に漂わせていたので、直接一人たりとも話しかけてくることはなかったが、それがまた皆の想像を強く駆り立てるようだった。


 男はいつものとおり誰もいない食堂へと向かい、いつものとおり昨晩の残りを灰色の器に盛り、そして丸一日ぶりの仕事場へと向かう。早く聞き出したいというこちらの意図を気取られてはいけない。こちらの弱みはあちらの強み。思惑から敢えての放置であったが、女に変わった様子はなかった。女は起きていた。男が与えた上着を尻に敷き、肩をすぼめている。


 男は女の真正面に椅子を置いて座った。


「眠れたか?」

「お前は嫌な奴だな」

 

 男は首を回し、ばきばきと節を鳴らす。

「そうかもしれない」


 ご飯を食べながら、男は二晩寝かせた女の様子を観察した。気を張っているが、疲れは出てきている。女はその場にへたりと座り込んで、男の眼前で白い乳房が露出しているのに崩れた衿を直そうともしない。


「今朝は寒かったな」

「そうかもしれない。いや、ずっと寒かったよ」

「水を被ったからな。なおさらだろう」


 オレンジジュースの次はコーヒー。お湯ががぬるくなっていたため、後から入れた砂糖がよく溶けず、男は不満に思う。


「寒い」

 力が出ないのか、女はか弱い声で言った。女の薄い肌の向こうの薄ピンク色が、男の心を捉えた。


 男は優しい男なので、憐憫を感じた。 

 それで、せめて胸元ぐらいを閉じてやろうと思った。


“女”ということで、油断があったのかもしれない。女の傍にかがんだ瞬間、女の細くしまった脚が男の側面を強襲した。咄嗟に前腕をかかげて頭を防いだが、勢いは殺し切れず、そのまま床に叩きつけられた。女は巨大な波のように立ち上がり、脚を高く持ち上げ、急転直下、踵を男の腹に落とした。


 回避をあきらめ、男は腹筋に力を入れて歯を食いしばる。


「……っ!」


 女は次手を打ち込もうと一歩踏み出す。だが、首枷に繋がっていた鎖が身体を引き戻す。


 男はその瞬間を逃さない。


 助走をつけて体重をぶつけ、女を突き飛ばす。女は器用に鎖をとって堪えたが、すぐさま男が蹴りを入れたので、その場に崩れ落ちた。


 女を見下ろしながら、男は息を抑える。

 昨夜の問いが蘇ってくる。


 ――女の力強さがどこからくるのか。


 男は女のつま先から髪の毛までじっくりと眺めまわした。顎を掻くと血がついていた。鼻が折れていた。すぐ男に痛みが襲いかかった。


 ◇◆◇


 女に蹴り倒された、などと話が広まるのが嫌だった男は、自室に戻り、自分一人で値を拭き、包帯を当てた。が、右腕が痺れて上手く患部を保護できない。そのうちに包帯は床に落ちてくるくると転がり、白く広い壁に行き着いて止まる。


 男は思う。

 

 若い時分ならばともかく、自分はもう歳だ。このままでは治癒は遅いし、放置していると感染症なってしまうかもしれない。それに今更恥も糞もないではないか。


 この期に及んで死が恐ろしいのは、いよいよ終戦が見えてきたからか。それとも宙ぶらりんなこの仕事のためか。


 男は観念し、医務室へと向かった。病床一つ、医者は一人に、看護婦は二人という規模である。軍紀と衛生を守るため、医者には患者の怪我や病気の理由を報告する義務がある。尋ねられる前に、男は鼻が折れた事情を包み隠さず話した。医者は口を結び、神妙な面持ちで男の話を聞いていた。看護婦たちも同じだった。そして次の日には施設中に男の噂が広まっていた。


「どうだ。おみ足に蹴られた気分は」


 中佐に呼び出された男は、直立不動の態勢で答えた。

「屈辱です」

 

 中佐は親指を舐め、書類を一枚一枚めくっている。


「色白で、たいそうな美人だと聞いたが」

「は。客観的にはそのように評価できると思います」

「客観的に、ねえ」


 男の立ち姿には老兵のいじらしさがある。


「お前がそういうのならそうなのだろう。身体の方はどうだ。筋肉のかたまりで、猪のような体つきなどしているとの話もあるが」

「贅肉がなく良くしまった身体を持っておりますが、胸や尻は大きいですし、女に見えないことはありません」

「お前がそういうのならそうなのだろう」


 中佐は笑いをかみ殺しながら言った。

「辱められているのはお前の方だな」

「はあ」


 合点のいかない男の返事に、いよいよ中佐は声を出して笑う。


「しかし」


 中佐は腹を抱えたまま、男の顔を見据えて言った。

「なめられてはいけない。敵にも部下にも。下の連中がお前をふざけ半分に羨ましがるとき、その底には侮りがある。侮りが弛緩を呼ぶ。弛緩が破滅を招く」


 男は腹に力を入れて叫んだ。


「申し訳ありませんでした」


 中佐はもう笑っていない。

「早く聞き出せ。それがお前の仕事だ」

 男は無言のまま敬礼をし、踵を返して、部屋を出ていく。


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