第一話
「必要なのは、拳とブーツだけ」
モルタル打ちっぱなしの、薄暗い正方形の空間。夏は茹でられるように暑いが、今は凍えるほどに寒い。
ここが男の仕事場であった。
「必要なのは、拳とブーツだけ」
前任者が残した標語が赤いペンキで大きく壁に書きつけられている。
何故?
という質問に応えるため、標語はこう続く。
「痛めつけるに、手の込んだものはいらないから」
椅子が二つ、机が一つ。すべて銀の鋲が打たれている。そして拘束用の鎖が数本ある以外、何もない殺風景な部屋。豚に餌をやり、今しがた自由になった者の跡をモップで消している。
これが男の仕事であった。
◇◆◇
何もない高台に、大量の鉄とコンクリートが積み上げられてはや三十年。男が兵隊になったのも同じころ。三年ほど前線で銃をとったが、腹を撃たれて以来、流れ流れて、最終的にこの部屋に五年ほど通い続けている。
夜明け前、彼は兵舎を出て、ここに一人やってくる。前日の夕食の残り、そして夜の間に自分で絞っておいたオレンジジュースを持ち込んで静かに食べる。昼頃になると、袋まきにされた捕虜が二三人、「聴取リスト」を添えられて送られてくる。
聴取リスト。
つまり、男が聞き出すべきことの一覧である。
男は送られてきた者たちを殴り、蹴り、そして「聞き出すべきことリスト」に従って、質問を繰り返す。丁重に扱う必要がないのならば、その一連をさらに何度か繰り返す。しばらくすると、捕虜は「隠された真実」を吐くか、そのまま死んでしまう。
それはシンプルな話だった。男の心は常に宙ぶらりんなまま。翌朝、部屋の戸を開けると、結果が判明しているか、していないか、いずれかの結果に落ち着く。
ある日、西方の戦線で、散発的な奇襲があった。新聞代わりの官報によれば、結局、こちら側の被害は軽微、敵は潰走という結果に終わったらしい。至極当然。既に戦いの趨勢は誰の目にも明らかである。敵の反攻は戦略も何もない場当たり的な攻撃であった。
その翌朝、いつもの通り男がオレンジジュースを飲んでいると、この時間には珍しい、仕事場の戸をノックする音が聞こえた。
まだ、太陽が昇りきっていないのに。
戸を慎重に明けて入ってきたのは、見たこともない若い下士官であった。彼は踵を鳴らし、きれいな敬礼を捧げると、封書を男に差し出して去っていった。
封書にはこのような内容が書かれていた。
―――
夜明け前までに三人の捕虜を送る。至急、以下内容を聞き出して報告せよ。
反攻の目的
以上。
―――
発送番号も押印もない。この文書の正統性を証明するのが司令の乱雑なサインだけ。状況から、男は今回の相手は無下に死なせてよい捕虜でないと判断した。その理由を検討するのは彼の仕事ではない。知りたいという好奇心もない。
男は大麦に牛乳を混ぜて、ゆっくりと口に運び、味わいながら噛んだ。夜明けまでというはずだったが、時間になっても誰も来ない。脱いだ上着を椅子に掛けて座り、目をつむる。冬ではあるが、日が差せばそれなりに温かい。時間はゆっくりと、穏やかに流れ、陽は沈み、再び夜が完全に明けきった。男は色とりどりの夢を見た。ようやく捕虜が到着したのはその次の夜だった。
男は眉をひそめた。
連れてこられたのは一人だけ。
若い女だった。
兵の年少化の次は女か。いよいよ敵も末期を迎えている。
そう思いながら、書類挟の受領書にサインを書き入れ、添付の文書をめくる。資料はやはり三人分ある。捕虜を連れてきた伍長に、男は尋ねた。
「残りの二人は?」
「一人はもともと瀕死でしたので、つい先ほど死にました」
女がいきり立って大声を上げた。
「違う。お前らが殺したんだ!」
椅子に縛り付けられた女は苦しそうにもがいている。威勢が良い。女の髪、そして服からは、水滴が滴っているのは、ここにくるに何度も水に沈められたからだろう。
「幾度となく反抗的な態度を取るものですから」
「体が冷えたのか。男のほうが寒さに耐性がないというからな。もう一人は?」
伍長は身体を小さくしていたが、しばらくして意を決して語り始めた。
「もう一人はこちらの隙を突いて逃走をはかりまして、その対応で少々時間がかかってしまったところです。大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。まだ、見つかってはおりませんが、しかし追跡隊を出しております。今頃捕まっているか、射殺されていることでしょう」
そのとき、だ。
女が笑った。
というより、噴き出した、に近い。
「お前らなんぞが捕まえられるものか。彼は賢いし、足が速い。雲のようにどこにでも消えてしまう。だからこの仕事をしている。それにな。言っておくが、彼は逃げてなどいない。お前らを滅ぼすための戦略的な撤退をしたのだ」
男は肩を回し首を回し軽く屈伸をした。どこの個所もぼきぼきと節が鳴る。そして再度伍長の方を見て、
「こちらの隙を突いて、なんて言葉は二度と吐かないほうがいい。責任を取りたいわけではあるまい?」
「いえ……ですが」
「ちゃんと見張っていたのか」
「はい。しかし腹を下して、まあ目も当てられない様子でしたので、便所に入れてやったところ、その隙に」
「古典的だな。これ以上は聞かない。お前を裁く立場におれはいないからな。まあ、気をつけろ」
伍長の顔は青ざめる。
「はい。承知しております」
「減給は覚悟しておけよ。まあでも、それで済むさ。昔だったら、お前もこの部屋にきたかもしれないよ」
歯の根が噛みあわなくなった伍長を帰らせて、男は女をゆっくりと観察した。最前線はともかく、簡易的な病院や補給拠点のあるここの場所で女の存在は決して珍しくはない。それにもかかわらず、男は初めて女という生き物を見たような気分になった。何しろこの捕虜は、今まで男が戦場で見てきた女たちとは全く違っているのだ。
堂々たる戦士。
そう、言わざるを得ない。
よく鍛えられたしなやかな体が、濡れた薄い恥ずかしの下から浮き出ている。粗い布で椅子に両手両足を締め付けられているものの、その涼しげな顔立ちに宿った意気はまったく挫けていない。男は不思議な思いに囚われながら、ゆっくりゆっくりと眺めまわした。
「わたしの活躍は聞いたか」
「いいや」
にんまりと、女は顔を歪ませる。
「教えてやろうか」
「いや。結構」
女は高らかに笑いながら、何度もはだしの足で床を蹴った。ぴちゃぴちゃと湿った音が響いた。
本当のところ、男は彼女の勇猛な戦果を十分知っていた。伍長がもってきた報告書に全て記載されていた。闇に紛れて侵透した女たちの総勢は僅か三十人。騎上から長い槍を振るい、見張りを蹴散らすと、そのまま寝静まる陣へとなだれ込んだ。馬は恐ろしく速く、重く、頭を蹴割られたり、全身を叩きつけられたのは、五十人を下らなかったらしい。
男は言った。
「お前たちは暴れた。そして捕まった。それだけだ」
所詮は多勢に無勢。いくら彼女らが強くとも、戦略的にはまったく無意味な戦い。彼らは皆、まったく無駄に死んだのだ。
男の冷ややかな揶揄にゆるむこともなく、女は言った。
「ああ、この手で六人ばかり殺してやった。そのお礼だよ」
女が口を閉じる寸前、書類挟を捨て、男は力の限り女の腹を蹴った。鉄が入った革靴のつま先が女の腹に突き刺さった。女は涎を散らしながら、椅子ごと後ろに倒れた。男は髪の毛をつかんで引き起こし、歯を力任せに食いしばって睨む鬼のような顔を見た。男は頬をはたく。一度、二度、三度。痛みに喘ぎながらも、女の様子は変わらない。この女は何かを知っている。男の勘はおおよそ当たる。
男は女の耳元で「聞くべきことリスト」にのっとり、早急に情報を提示することを求め、そして吐かない場合どういう目に合うのかを伝えた。紳士的な表情を見せる男に、女は血の混じった唾を男に浴びせた。男は再度頬をはたいた。恥ずかしを剥いて、冷たい地面に押し付ける。筋肉質の体がぴくぴくと痙攣している。だが、屈服する様子はみじんもない。
男は背に足をかけて女を組み伏せると、ぼんやりと物思いにふけった。女が身体を起こそうと身をよじるたび、踵で踏み落とし地面へ這いつくばらせた。そのうち、古びた革靴を伝って冷気が這いあがってきた。だいぶ夜が冷えるようになった。男は足を下ろし、上着を脱いで女に掛けてやった。
◇◆◇
夜、定刻。
男は朝食用のオレンジを絞り、布団の中に入る。昼寝をしたせいか、目が冴える。
「どうすれば女から情報を引き出せるだろうか?」
男は考える。
答えはシンプルである。
「そのためには女の芯を砕かねばならない」
あれは深く自分を信じ切っている。そういう連中はいくら肉体を切り刻んでも吐かない。稀にではあるが存在するこの種の輩は、経験上、厄介であることを知っていた。三人いれば、他者の肉体を人質にすることもできたが、今回はそれも叶わない。
「なら辱めてやろうか」
誇り高い女ならば舌を噛んで死んでしまうかもしれない。いや、あれはそんな女ではないな。最初に太ももに手をかけた男はしたたかに股間を蹴り上げられてしまうだろう。それでいて、しれっと何も答えないのだ。
そもそも、女の力強さがどこからくるのか考えなければならない。
そこまで考えて、男は眠りについた。夢はやはり極彩色で、男はうっとりとした気持ちになった。カエルの鳴き声が響いている。グケー。グケー。




