4.遥か遠く、海の向こうから。
会いたい。
会いたい。
その気持ちはもう我慢できないくらいに膨れ上がっていた。
無線の向こうの女性はミナ=サクマ、英語はひどく苦手そうだったので僕は彼女の使う言葉を少しずつ覚えていった。ひどく発音しづらく難しい文法の言葉だった。
僕より3つ年上のミナはいつも優しい声で僕に答えてくれる。
それは僕の生きている全てになった。
ミナがいるのは日本。何の皮肉か、あのウィルスを作り出した大学がある場所にいるらしい。
「会いたいヨ、ミナ」
そう言うとミナは無理だよ、と笑った。とても悲しそうに。
悲痛な声を聞いて僕の中である決心が芽生えた。
そう、ヒロインを助けるのはいつだってヒーローの役目だろ?
会いに行くから。
きっと、会いに行くから。
たとえどれだけかかったとしても――
春が来た。
2回目の冬を乗り越えたあたしはその幸せをいっぱいに感じるため少し遠出する事にした。
乗りなれた車に乗り、途中で元ガソリンスタンドに寄る。レギュラー満タン。
今のあたしはガソリンスタンドにもラジオ局でもテレビ局でも、それこそ生物学者にだってなれるくらいにたくさんの事ができるようになっていた。寒い冬の間に読んだ本は、こんな世界に放り込まれる前からは考えられない量だった。
どうして人間がいなくなってしまうまで、人間の築いてきた知識の量とその素晴らしさに気づけなかったんだろう。
もう後悔しても遅いけれど。
あたしの持つ知識を誰かに伝えたいと思っても、もう伝える相手もいないのに。
目覚めたあの日からずっと暮らしている街を離れて少し走ると、大きな湖にぶつかる。
人間の活動に関係なく四季を表すこの場所が好きだ。
湖に流れ込む川沿いにはサクラの木が目渡す限りに並んでいる。手入れする者がいなくても美しく咲き誇る姿にがんばれ、と背を押される気分だった。
今年もまたサクラが見られた。それだけで泣きそうになるくらい満足だった。
まるであたしとケリーの間に広がる海のように広い湖は、あたしがこれまで流した涙を全部飲み込んで湛えているかのように静かだった。
その時突然無線から声がした。
『ミナ? 今ドコ?』
ケリーだ。
こんな時間に珍しい。
冬の間もあたしがくじけないよう支えてくれたテノールの響きは、何故だか少し興奮しているようだった。
「今日はね、広い湖を見に来たよ。春になって嬉しかったから」
『広い湖……』
そこでケリーの声が一旦途切れた。
まだかすかに冬を残した風が冷たく吹き抜ける。
『そこにいて!』
「ケリー?」
何故?アメリカにいるケリーが、ここにいるあたしに命令する。
そんな事ありえないはずだった。
心臓がドキドキする。
まさか。
まさか。
「ミナ!」
遠くから呼ぶ声がした。
無線からじゃない。
空気を伝って届く、本物の声。
思わずはっと振り向いた。
目に映ったのは、土手を転がり落ちるように下りてくる人影――人影。
もう2年近くも見ていない生きた人間の影。
「ああ……」
喉の奥から感嘆の声が漏れた。
どうして。どうして。
膝に手を付いて息を整えているのは、金髪の青年。ふと向けられた蒼い瞳に心臓が跳ね上がる。
「何で……ケリー?」
うろたえるあたしにケリーがにこりと微笑む。
「半年かかっちゃった。遠かったよ、日本は」
「どうして……どうして……」
視界がにじむ。
ケリーが息を整えながらこちらに向かって歩いてきた。
「だって喜ばせたかったんだ。海を越えて行くって言ったらきっとミナは反対するだろう?」
一年近くあたしと話し続けていたケリーの日本語は完璧だ。
冬の間もずっと通信していたのに。あの時すでに日本に向かっていたというのだろうか?
見上げる位置にあるケリーのはにかむ笑顔に釘付けになる。人種も、住む場所もぜんぜん違う。でも、あたしの他にはただ一人生き残った『ヒト』。
ずっとずっと会いたかった。
「やっと、会えたね。ミナ」
涙が溢れる。
胸が詰まってしまって声がでない。
ケリーはあたしを強く抱きしめた――温かい、人のぬくもりだった。
こんなに広い世界で。
出会えたことは奇跡なんだろうか。
それでもきっと、「ヒトは一人じゃ生きられない」なんて冗談めかして言ったヒトは大正解だ。
会いに行くから。
きっと、会いに行くから。
たとえどれだけかかったとしても――