3.会いたい
あの最悪の日から半年、あたしはまるで亡者のようにして過ごしていた。
人の腐る匂いがもう当たり前になるような生活の中で、死ぬって言う選択しすら持たずにただ食べて、動いて、生きて、いた。
大切な人もみんな失って、世界も何もかもが崩壊して……あたしは文字通り生ける屍と化していた。何もない世界を徘徊するだけの亡者だった。
そんなあたしを変えたのは、意外にも「寒さ」だった。
何もしないうちに秋になり、かなり肌寒くなってきた頃にようやくあたしは死の恐怖を感じた。
生きるためにあたしは目覚めた。
何もかも残っていた。地球温暖化なんて何のその、ガソリンも灯油も使い放題だった。
そして、車に乗る事を思いついた。
その瞬間あたしの世界はかなり広がった。
自分で言うのもなんだけど、もともと頭はそう悪くないんだ。
そこからあたしはとにかくこうなった原因と生き残りを探して奔走した。通信手段を探し、時には発電所に入り込んだ事だってある。残念ながら一人じゃ発電するのは無理だったけれど。
本は死ぬほどあった。勉強する時間も有り余るくらいにあった。
情報を集めるのも簡単だった。
これほどまで自分の頭脳に感謝したことはない。そして――頭脳を恨んだ事もない。
「最悪だ……」
あの死体の山を築いた原因。
以外にも足元にあった。
あたしが通っていた大学の生物学分野ミクロ部門の研究室で研究していた遺伝子操作ウィルス、それが人類にとってほぼ100パーセントの致死率で作用した。詳しいことは分からないが、あたしにはその抗体があったらしい。それでも、そのウィルスの強さは半端ではない。きっと空白の2週間は仮死状態にあったに違いない。
そこまで知ってから、あたしはひとつの結論に達した。
「きっと他にも生きてる『ヒト』がいる。抗体を持つ人がどのくらいの頻度でいるか分からないけど、世界中探せば一人くらいいるはずだ」
それはたった一つの希望だった。
あたしが選んだ通信手段は無線だった。
電気がほとんどない今、大量にストックのある電池で全世界に呼びかけられる無線は手ごろな手段だと言えた。
ただ、問題もある。
相手が答えてくれなければ意味がない。
それでも。
あたしは、自分が全世界で生き残ったくらいの確率しかない希望にかけた。
毎日毎日朝と、寝る前に呼びかけた。
もう時間の感覚なんてない。いったいどのくらいの時間が過ぎたんだろう。気が遠くなりそうな時間を一人で過ごした。生き残っていた飼い犬と暮らした事もある。が、鎖も繋いでいなかったそいつはいつの間にか山に帰っていってしまった。
いっそのこと気が狂ってしまえればよかったかもしれない。
そうしたらもうこの孤独からも絶望からも開放されるのに、何故か自ら命を絶てないでいた。
もしかすると、世界中のどこかにヒーローが待っていてくれるのかもしれない。いつか助けに来てくれるその人を待っていたためにあたしは死ねなかったのかもしれない。
それにこんな世界じゃ、ヒーローだって信じられないくらいの孤独を抱えているはずだった。
そして、その奇跡は唐突にやってきた。
毎晩の日課になっていた無線のチューナーをくるくると回す。いつも返事の返ってこない無線は、もう何本もの電池を消費していた。毎晩握り締めて眠るものだからあたしの手にすでにしっくりと馴染んでいた。
「誰か……答えて……」
ざざっ、ざざっと雑音のみを伝えるその無線は、今日も沈黙したままだった。
もう寝ようかな。
諦めて電源を切ろうとしたその時、無線から雑音以外の音がした。
「?!」
思わずばっと起き上がって無線を握り締める。
「誰? 答えて!」
少しずつ音が近づいてくる。
甲高い、意味を成さない音。
これは……犬の鳴き声?
ああ、そうか。人じゃなかったんだ……。
一瞬でも期待した自分にがっかりする。
が、それは一瞬だった。
『Wa……? Fin,…found……T?』
――人の声。
ひどく聞き取りづらいが、若い男の声だった。
心臓が跳ね上がる。
人の、声だ。
一年以上聞いていないヒトの声だ。
「お願い! 気づいて! あたしはここにいる!!」
必死に無線に向かって呼びかけた。これを逃したら二度と繋がらない気がした。
自分の他にもヒトが生きていた事に、胸が打ち震えた。あたしは、一人じゃない。
天に祈りが通じたのか、それとも神様は最初からあたしたちの間に繋がりを持たせる気だったのかわからないが、無線の向こうからはっきりと声がした。
『Hallo, hallo ? I’m here! I’m here! Who are you?』
その声を聞いた途端、涙が溢れた。
一年間。
誰もいない世界でただ生きてきた。未来も絶望に包まれた中で、ただ……
「ああ!! よかった、ヒトがいたんだ! ありがとう、神様! ありがとう……!」
何を叫んでいるのか自分でもよく分からない。
ただただ嬉しかった。
この広い世界であたしは一人じゃない。
『Hi! This is Kelly! Kelly Winston! Please! Who are you?』
向こうから聞こえてきたのは流暢な英語だ。
そうだ、日本語とは限らない。
ずいぶん前に覚えたたどたどしい英語を利用して頭をフル回転させる。
「H, Hallo. I can’t speak English., so please slowly…」
これであっているだろうか?
大体意味は通じるはずだ。
すると無線の向こうから確認するようにはっきりと区切った言葉が返ってきた。
『M-y N-a-m-e i-s K-e-l-l-y. W-h-a-t Y-o-u-r N-a-m-e ?』
今度ははっきりと理解できた。
ケリー。
無線の向こうにいるのはケリーというヒトらしい。
「I’m MINA」
そういうのが精一杯だった。
無線の向こうから悲鳴のような歓喜の声が上がって、嗚咽が漏れた。
あたしももう限界だった。無線を握り締めて、この通信機の向こうにいるケリーと共に一晩中泣きまくった。
無線の向こうにいるのはケリー=ウィンストン、アメリカのシアトル郊外に住んでいた19歳の青年らしい。あたしより3つ年下だ。彼も抗体を持っていたらしく、あたしと同じように永い眠りから覚めると何もかもがなくなってしまっていたと言った。
最初に無線から入った犬の声は彼の飼い犬のフィン。栗色の小型犬できゃんきゃんといつも吼えてうるさいんだ、とケリーは困ったように言っていた。
一年ぶりのヒトとの会話。苦手だった英語を勉強するのが楽しくて仕方なかった。
無線を持ち歩いていろんなことをケリーと話した。
家族の事。学校の事。今はもういなくなってしまった友達や彼氏のこと。
その中でケリーも少しずつ日本語を覚えていった。
『ミナ、君は今 Where、ドコにいるの?』
「日本だよ」
『Oh… 遠いネ』
ケリーはそう言うとしばらく黙り込んだ。
あたしは最近図書館からはがしてきた地図を見て、距離を確かめる。
彼との間に横たわるのは太平洋。とてもじゃないけれど、あたし一人で渡れる距離じゃない。
それでも、ケリーは無線の向こうでポツリと呟いた。
『I want to see…Mina』
「無理だよ、ケリー」
あたしはこの一年ちょっとですごく強くなった。一人でも生きられる。
特にはるか遠い大地でも生きているヒトがいると分かってからは、毎日に希望が湧いていた。最近では通信系の学位がとれるくらいに勉強し、ラジオを使って全チャンネルで日本中に放送を流していた。
あたしはここにいる。生きているヒトがいたら、ここにきて。
あたしは、ここにいる。
『会いたいヨ、ミナ』
ケリーの声が悲痛に響いた。
あたしはそれに答える言葉を知らなかった。
二度目の夏が終わろうとしていた。
そろそろ冬に向けた準備をしなくちゃいけない。
ケリーは最近やたらとあたしのいる場所について聞きたがった。地名だけじゃなく緯度、経度にいたるまで。何をたくらんでいるのは聞かずとも分かった。
彼はきっとここを目指す気なんだ。
しかしこの広い広い海を渡るなんて無理だ。人間たちがたくさん活動していた頃だったら飛行機でも大きなフェリーでも使って来られただろう。この世界にはそんな手段はない。
「ケリー、何を考えてる?」
『何も』
聞いてもケリーはしらばっくれるばかりだった。
怖い。
怖い。
だってケリーを失ったら、あたしは本当に一人になってしまう。
「無茶、しないで」
『大丈夫だよ、ミナ』
あたしは彼に依存していた。
もう優しい彼のテノールを聞かないと眠る事が出来ないくらいに。