綱渡りの一歩 4
―ドイツ
「どうやら、予想に反してフランス軍は動きそうにありませんな、フリッチュ陸軍総司令官殿」
ドイツ国防軍および政府首脳陣集まる席のなかで、国防軍によるラインラント進駐の進捗状況が説明されていた。フランス軍動かずという報告がされると、政府首脳陣は内心ほっとしながらも、この進駐に反対の声を上げていた国防軍首脳陣を暗に批判した。
「まだ終わっておりませぬ。まだフランス軍が反攻してくる可能性は捨てきれません。そのような場合に備え、Bプランに関してはまだ放棄はしませぬぞ」
この席にいたフリッチュは、この軍事行動に反対を唱え続けながらも作戦を立て、やるからには成功を収めるように努力を惜しんでいなかった。もっとも、フランス軍が動けば、作戦を速やかにあきらめ撤退戦を行う準備も同時にこなしている。
「フランス軍は動かんよ」
フリッチュの回答に言葉で反発したのは、リッべントロップであった。この軍事作戦は成功を収めると固く信じていた。それにはいくつか理由があった。1つは、彼はイギリスが動かないことをすでに確約を得ていたことである。次に、ベルギーにもこう警告していた。
「ベルギーはドイツから見てもフランスから見ても、国境の小さな国である。戦争になれば、一方の同盟関係であるベルギーは焦土と化すだろう。それは先の世界大戦でも体験したはずである。ところで我らは、ただ自らの国に軍を置くという正当な理由を行うのみだ。もしこれに対してフランスが反攻し、戦争を起こすような愚かな行為を起こせば先の大戦は再び繰り返すであろう」
そして、ベルギーに対しフランスとの同盟関係の破棄と永世中立国への転換を内密に脅迫したのである。これは効果がてき面であった。まもなくベルギーから現在の外交政策の方針を変更し、年内にも永世中立国になることが伝えられていた。その結果として、フランスのドイツに対する行動は静かにしかし確実に制限された。
さらにリッベントロップは、ハイドリヒ親衛隊情報部長官の援助を得てスパイを送り込むことに成功していた。そのスパイから、フランス政府首脳陣に対してフランス軍が動かないよう工作が成功したとの会議直前に報告を受けていた。この入念な外交と情報工作の結果を顧みて、ヒトラーへ進駐は成功すると改めて断言していたのである。
ところでハイドリヒは顧客であるリッベントロップには一言も言わなかったが、彼はこの工作活動について国防軍情報部に情報が入るように仕組んでいた。おそろしいことにこの男は、このような状況下でも国防軍のナチスに対する忠誠を測っていたのである。カナリス提督は、この情報を手にしたときに頭を抱えたという。ハイドリヒの恐ろしさを知り尽くしている提督は、忠告をつけてフリッチュへ報告していた。報告を受けたフリッチュはこう感想を述べていた。
「リッベントロップは自信家だが滑稽な役回りをされているのか。てっきり、そのようなことをされるのはノイラートや我々だと思っていたが。うん、まぁよい、軍が動くのが決まっている以上、成功はしなければならないから善処すれば問題はなかろう。それよりもそのさきのことだ」
その滑稽役のリッベントロップの言葉を聞き流した彼のもとに、急を知らせる情報が入り込んできた。早足で入室してきた参謀から耳打ちを受けると、彼は特に慌てた様子を見せずにその情報をその場に居合わせた政府・群首脳陣に知らせたのである。
「フランス軍に動きあり」
「ば、馬鹿な!そんなことが、そんなことがあってたまるか!…フランス軍が動くはずがない!それは誤報だ、そうだ、誤報に違いない!」
声を荒げたのは、リッベントロップである。
「リッベントロップ殿、誤報かどうかはまだ分かっておりませぬ。現在、調査を行っております」
「そ、そんなはずが…軍が、国防軍が過剰になってるだけだ!」
「過剰に反応してるわけではありません。ただ、フランス軍に動きがあれば、我が軍は直ちに撤退をする予定ですが」
リッベントロップの慌てようとは対称的に、フリッチュは落ち着き払って撤退を進言していた。しかし、その声にリッベントロップの悲痛ともいえる叫び声がかき消した。
「ならぬ!誤報に反応するとは我がドイツの末代の恥だ!」
「落ち着かれよ、リッベントロップ殿」
その大声を止めたのは、フリッチュではなかった。政府首脳陣側で同席していたハイドリヒであった。
「これが、これが落ち着いていられるか!国防軍は自らの過ちを認めず、いたずらに撤退しようとしているのだ」
「だから、フリッチュ陸軍総司令官が調査するといっているであろう。それともなんだね、軍に全滅しろと言うのかね、『外務大臣』殿」
「貴様ぁ!だいたいこうなったのは貴様のところの…」
「私がどうかしたのか」
「なっ…」
リッベントロップはここで顔を赤くしながら黙り込んでしまった。彼は、ここでヒトラーに点数を稼ごうとしていた。だからこそ、ハイドリヒの情報部員を借りてまで工作活動を単独で行っていたのである。もし、このことがバレれば越権行為を非難されるであっただろうし(すでに越権行為として、『外務大臣』を越えて外務を行っていたのだが)、さらに功績はハイドリヒと半々となってしまう。とても口に出せることではなかった。
「では、撤退の準備を」
「ならぬ。撤退はまだ早い、フランス軍が本当に動くかどうかそれからだ」
「それでは手遅れになる可能性もありますぞ」
「フランス軍が単独で動けるとは思えん、今頃はイギリスの反応を探っているころだろう。この動きは、部隊の単独行動の可能性が高い。であれば、もう少し様子を探るべきだ。よろしいですかな、総統閣下」
ハイドリヒの意見に頷いたヒトラーであったが、落ち着き払っていた彼とは異なり青ざめた顔をしていた。とある参加者の日記に、この2人の主従関係を間違えてしまいそうなぐらいであったと、記されていたほどであった。




