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綱渡りの一歩 3

 会議が終わり、ともかく急いで部隊への命令通知をしようと早足になるガムランに、大臣が突然声をかえた。先ほど、あの皮肉屋のウェイガンと舌戦を繰り広げた男であったから、軍に対する抗議かと構えたがどうやら違うらしい。


「ガムラン殿、くれぐれも陸軍が勝手に動かないよう対処してもらいたい。ウェイガン殿みたいなのはごく一部だと思うが、私の耳に入った情報では国境の部隊のうち、今にも進撃しようとしている部隊がいると聞いていましてな」


「ほぅ、大臣殿はよく耳を肥えてますな」


「敵軍は情報はなかなか入らないが、味方の情報はよく入ってくるものなんだ」


「そうでしたか」


「デニッシュ大佐はご存知で?」


「…えぇ、知ってます」


 デニッシュ大佐の名前はガムランも知っている。なにせ、フランス軍がラインラントに居残っていたときに、何としても撤退させたかったイギリス政府が、フランス軍に問題ありと抗議したことがあった。そのうちの一つにデニッシュ大佐の悪事があり、他の抗議内容と異なり彼は名指しで批判されたのである。狡猾な彼は証拠を一つも残さなかったが、それでもイギリス政府は彼の悪評を公表したのであった。


 しかし、証拠がなかったため彼を不名誉除隊にすることができず、当時の軍首脳部は大いに悩まされた。ガムランもその1人であった。 


「そのデニッシュ大佐が、自分の部隊だけではなく、他の部隊の士官にも自分の意見に同調するように触れ回っていると聞いている。果たして誰の命令か…いや、彼の場合は単独の可能性も十分にあり得るな」


「彼は1人で戦争を始める気か!…いや、失礼。その情報はまだこちらには入ってなかった。今すぐ対応しよう」


「さすが動きが早いな、ガムラン殿。おかげで戦争は避けることができそうだ」


 この大臣とはあまり親しくしてはいないが、軍がこれまで政治家と協調するように対応した結果、信頼を勝ち取ったのだろうと彼は思っていた。







「…これでよかったですかな」


「えぇ、十分ですよ。では残りの半分もすぐにお支払いしましょう」


「ガムラン殿にも忠告してやった。あの男なら、力尽くでも止めてくれるだろう…まったくデニッシュ大佐は、ウェイガン以上の陸軍の面汚しだ」


「大佐とその一族が潰れれば、次は閣下の時代ですぞ」


「ふっ…それにしても、ドイツ軍は本当に戦争を起こさないのだな」


「当たり前です閣下、あの戦争でどれだけヨーロッパの経済が潰れたかご存知でしょう。我々としても、それは避けなければなりません。しかし、我が政権が維持するためには、少なくともこれは必要なのです。ドイツが共産国になるよりはマシでしょう?であれば、大衆の希望を少しぐらい叶えてやらないとなりませんのでな」


「大衆っていうのは、どこの国も我が儘で困るもんだ」


 大臣の邸宅の一室で、大臣はある男と出会っていた。黒い服を着てまるで目立たないようにしていたこの男は、ドイツの外務を牛耳っているリッベンドロップの代理として、そしてフランスでスパイ活動していた者であった。


 彼は、会議が万が一にもフランス軍が動くことになれば反対してもらうこと、一部の部隊で強硬派がいることをガムランに伝えることを大臣に要望した。もちろん、大金の賄賂を持ち込んでのことである。彼が選ばれたのは2つの理由からによるものであった。


 1つは、元々商売人だったせいかお金によって動く性格の人間であったことである。だいたい、彼は以前保守主義者であったが、地位とお金により左派へ転向した経歴があった。そのような人物であれば、こちらの要望に応えてくれる可能性が十分にあった。


 もう1つは、一部の強硬派として知られているデニッシュ大佐の一族と商売上の敵であったということである。デニッシュ大佐が、ラインラントに再び進駐をするよう働きかけていたことは、すでにスパイ網に引っかかっていた。彼が最前線にいる理由も、ある程度判明していた。逆に言えば、彼が暴走する可能性がある。その彼の動きを抑えるために、敵意を持っていた彼が今回の道化として選ばれたのであった。


「大臣のおかげで、ドイツとフランスの関係は冷めた状態から脱却できるでしょう…そのときには、ご希望通り、閣下が投資している会社に便宜を図らせていただきますので…」


「当たり前だ、でなければ、このようなことはせぬ」


「はっ…」


 どうやらうまくいきそうだ。男は、心の中で笑みをこぼしていた。




 

 大臣の豪華な邸宅から引き上げた彼は、近くに留めていた車に乗り込み、一路ドイツ大使館へ向かおうとしていた。


「おかげで助かりました。大臣は私の願いをかなえてくれるようです」


「私の願いは聞き入れてくれるのかね。そうでなければ、協力はしてやらんぞ」


「平和…でしたな。そうですな、我がドイツはあくまでも自国の対応をしてるまでですよ。それに反発しているのはピエール・ラヴァル殿の国ではないですか?」


「…せめて私が今日まで首相を務めていればこのような綱渡りをさせることはなかったのだ…」


「ほぅ、ドイツに対してイギリス、イタリアと協力してストレーザ戦線を組んだ人とは思えませんな」


 ピエール・ラヴァル。彼は左派主義者から保守主義者へ転向したフランスの政治家である。そして、首相を2回務めた男である。彼は不運であった。1回目の首相時代、まず大恐慌が起きて彼は辞任せざるを得なかった。次の首相時には、ヒトラーの再軍備宣言があり、慌ててイギリス・イタリアとストレーザ戦線という対独関係を結んだ。しかし、二枚舌のイギリスは、すぐに英独海軍協定を結びこの関係を反故した。たった2か月である。さらにコミンテルンの暗躍もあり左派勢力が勢いを持つなかで選挙が行われ、サローらに敗れた彼は間もなく辞任したのである。


 その彼は、実は「平和主義者」であった。ストレーザ戦線ですら、彼は気乗りしていなかったのである。もともとヴェルサイユ条約自体も再び戦争につながると危惧し反対した過去がある。この条約によって、フランスがドイツにいつか復讐されると考えたのである。だが、一方で彼は度の過ぎた「平和主義者」とも批評されている。


 そして、このころになると彼の信頼は保守系政治家からも失っており彼は終わった政治家であった。しかし、彼はそう思っていない。いや、思いたくなかったのである。


 フランスの平和と自身の栄光を求め、彼はドイツのスパイとの接触を許した。そして、フランス軍の動きを抑えようと暗躍していた彼に、ラヴァルは協力したのである。


 それが、ラヴァルの残りの人生の全てであった。

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