綱渡りの一歩 2
「ドイツ軍はどれぐらいの規模で進駐を行っているのか?」
急遽集められたフランス政府の会議の冒頭で、首相のアルベール・サローは陸軍大臣のルイ・モランに状況の説明をするよう促した。ある程度の情報はすでにサローの耳に入っていたが、彼はこの事態を軍が説明するべきだと判断したのである。
状況は以下のとおりであった。ドイツ軍が1万人未満の人数でライン川を越えてきたこと、その他10機程度の航空機が確認されていること、さらにライン川の手前には相当数の軍が控えていることであった。
「相当数とはいったいどれくらいなのか分かってるのかね」
大臣の質問に「今のところ調査中」と答えるモランであったが、大臣はさらに続けた。
「ということは、我が軍が出兵し追い払おうとして逆に返り討ちに合ってしまう可能性があるってことだな」
「…戦はやってみないと分からぬものだ。だが、そうやって始まったのが先の大戦なのだ…」
モランのこの言葉に、閣僚たちは20年前のあの悲劇を思い出していた。この中には、戦場にいた者もいる。結果としてはフランス軍が属した連合国の勝利であったが、勝者も傷は深かった。ここで積極的なアクションをすることで再びあのような戦争が起きてしまう可能性に、ここにいる者たちのほぼ全員が恐怖を覚えていた。
実は、これこそヒトラーをはじめとするナチス政権が予想していた通りに動いているとは、誰も思っていなかったであろう。特に外務大臣ノイラートの代役を務めていたヨアヒム・フォン・リッベントロップは、フランス軍が動くことはできないと強く主張していた。先の大戦を恐れて、手をこまねくであろうと。
大臣は続けて別の軍の責任者に質問した。
「陸軍総司令官、貴殿はどう思う?」
名指しされたのは陸軍総司令官のモーリス・ガムランである。彼は、先の大戦で当時の総司令官ジョゼフ・ジョフル将軍の幕僚を務め、守戦に強く、ドイツの大規模な攻勢ではドイツ軍の進撃を阻止した功績で知られていた。
人望も厚く、有能であった彼は大戦後も功績を立てていた。
植民地で起こった反乱を沈静したのも、彼の指揮によるものである。順調に功績を重ねている彼の信望は軍の中でも厚く、ここにいる者たちの信頼も非常に厚かった。
一方、マキシム・ウェイガン前陸軍総司令官は逆にここにいる閣僚たちとの相性は最悪であった。元々保守主義者であり、左派主義者の閣僚たちとは折り合いが悪かった。さらに「会話をすれば嫌味ではじまり、嫌味を続け、嫌味で終わらせる男」と評価されるほどの皮肉屋であったため、一応重職を務めていたこともありこのような重要な会議に呼ばれるが、ほとんど発言をさせてもらえない。
「進駐している兵力が限定され、かつ大規模な演習や要塞構築などの準備が行われないなら、今回のラインラント進駐は見過ごしても問題あるまい」
こうしてサローらは、止むをえまいという判断をしようとしていた。そのとき、それまで発言の機会を与えられていなかった前陸軍総司令官が突然しゃべり始めた。
「…貴殿たちは奴らがつけあがる可能性は憂慮しないのかね。味をしめた子供が、躾けなしに1度で終わらせるとは普通なら到底思わないがね」
「ウェイガン殿、それは私たちが普通ではないということかね」
元々敵意しかなかった大臣が彼の発言に反発する。だが、そのようなことで臆するような男ではなかった。
「普通なら政治家にならないだろう」
「ふんっ、驚いた。貴様は無政府主義者か」
「私は違う。だが諸君の仲間たちには、昔はそのような者がおったのではないのか?」
「なに!?」
「やめたまえ、ウェイガン。仮にも軍の人間が我々を貶める気か?そのような発言は、シビリアンコントロールを軽視しておる。そのような発言を聞くために呼んだわけではないのだぞ」
間に入ったのは首相のサローである。
「私はあくまでも意見を述べたまでです。私の意見を採用するかどうかは、お任せしているはずですが」
ここ最近、ウェイガン前陸軍総司令官の意見が採用されたことはほぼゼロである。それを含めての嫌味であった。
「まぁ、ガムラン陸軍総司令官が問題ないと言っているのだ。それにだ、先程外務大臣のフランダン君がイギリス政府と会談したが、どうやらイギリス軍も静観するそうだ。であれば、我が軍だけで対応するわけにはいくまい」
「イギリスとフランスはまるで一つの国のようですな」
1つ1つの言葉に、揚げ足を取るように皮肉を述べていくウェイガンに、さすがのサローも怒り出した。
「ウェイガン殿!…退出したまえ」
「分かりました、そうしましょう。実は先程から気分がすぐれないので、そうしようと考えていました。そのほうが皆さんも気分がすぐれるでしょう」
間もなく、ウェイガンは軍を退くのである。
ともかく、反対者1名がいなくなった会議では、ドイツ軍を静観することと決定した。




