準備
-1936年2月
第3集団司令部司令官という偉そうな肩書きを昨年に拝命したボック中将は、先日フリッチュ陸軍総司令官から緊急の指令を受けていた。その内容は
「万が一に備え、すぐに出動できるよう準備しておくこと」
というものであった。この指令を受けた時、彼はベルリンで何が起きているかは分からなかったが、良い事が起きてるとはとても思えなかった。だからこそフリッチュからのこの指令には、文句を飲み込んでただ一言こう反応しただけであった。
「分かった」
だが、もう1つの指令に対してはそう簡単に従う事ができなかった。矢継ぎ早に呪文のような文句を並べて、連絡してきた通信兵を困惑させたのである。
「3月31日をもって、副官クルト中佐の職を解く。4月1日にはベルリンに帰還されたし」
ボックにとって、この副官は欠かせない人材といえた。事務処理能力は国防軍のなかでも有数な存在と言えたし、彼に助けられたことは何度もあった。別の言い方をすれば、あちらこちらで喧嘩しても彼がなんとかしてくれたのだ。
さらにクルト中佐にはベルリンとの連絡も一任していた。彼は時折ベルリンに赴いた時に、簡単に現場を離れることが出来ない司令官に重要な情報のみを抽出して連絡するという困難な仕事もこなしていた。そんな有能な人物を、はいそうですか、と手渡す気にはなれなかったのだ。
この情報を受け取ったボックはもちろんのこと、クルト中佐も困惑した。この時期に人事異動をしようとするには何か理由があるのは明白だ。これが陸軍総司令官の総意によるものなのか、あるいはナチス政権による嫌がらせなのか判断がつかなかったのだ。
クルトはしばらく考え込み、司令官にベルリンへ向かう許可を求めた。実際にフリッチュらに会って確かめる必要があると判断したからである。ボックもまた、この人事の理由を把握したいという思いもあり、すぐに副官の要求を許可した。
そして、今日がクルトがベルリンから帰ってくる予定の日であった。
クルトがいない間、彼の代理を務めていたのは参謀のヘルツァー少佐であった。クルトより2つ年下で、
「事務処理能力はそれなりだが、頭がやや固くてつまらん男」
とは上司の評価である。
そのヘルツァー少佐から補給に関する情報を受け取っていたさなか、副官がベルリンから戻ってきた。クルトの表情からでは、吉報なのか凶報なのか彼は判断がつけられなかった。
「ただいま帰還しました。…今はよろしいので?」
「構わん。それよりもベルリンから何か聞き出せたか?」
「えぇ…。できれば、内密な話にしていただけませんか」
「うむ、ヘルツァー少佐、いったん退室してくれ」
この司令官の命令に反論したのは報告途中の少佐である。
「閣下!これは補給に関する大事な情報ですぞ。軽視しないでください!」
「分かった、分かった。それぐらいは心得てる。だが、今はこっちが大事なんだ」
「しかし閣下!」
「しかしも何もない!後で聞く!退室しろ!」
「…」
明らかに文句を言いたそうに退室したヘルツァー少佐を見て、副官はこう感想を述べた。
「また怒られてたんですか?」
「あいつは、頭が固すぎて声が大きくて耳が痛くなる」
「…私の後任は彼ですよ?」
「ったく、今から思いやられるわ。で、何か分かったか?」
「凶報だらけですよ」
あっけらかんと伝える副官の回答に、ボックはため息交じりにぼやいた。
「やっぱりな」




