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 ラインラントは、先の世界大戦による敗戦で非武装地帯と定められたドイツ西部の地域である。

 ライン川沿岸の一帯で古くから文明が発達しており、中世の神聖ローマ帝国においても中心都市がいくつも存在した。フランスの彼の英雄・ナポレオンはこの地域の重要性を認識しており、占領してフランス領土となった時代もある。後に返還されたが、ドイツ帝国の工業化における中心都市となり発展を続けていた。


 敗戦によるヴェルサイユ条約において、このラインラントにおけるドイツ軍が駐屯したり要塞を築いたりすることが禁止された。1930年までは連合国が進駐していたが、このラインラントの先にあるのがフランスであり、中立を唱えているベネルクス三国、つまりベルギー・オランダ・ルクセンブルクであった。


 ラインラントに駐屯することは、ヴェルサイユ条約において「どのような形でも…世界の平和を脅かす行為とみなす」と定められていた。


 では、なぜそのようなリスクがありながらヒトラーはこのリスクに挑もうとしているのだろうか。


 それは経済を守るためである。


 ルール占領はヴァイマル共和政に大きなダメージを与えたが、これを可能にしたのがラインラントの非武装化であった。ルール地区に侵攻されることはドイツ経済の崩壊を意味しており、ラインラントに軍隊が駐屯すればフランス軍が突如侵攻したとしても一時的に対応が出来るのだ。時間を稼ぐ間に、外交なり軍の緊急招集なりすることが可能になるだろう。


 さらに経済面でも国防による安全面が多少なりとも確保されれば、活性化にもつながるだろう。だからこそ、ヒトラーはリスクのあるラインラント進駐を行うことを決心したのである。


 もちろんメリットだけではない。連合国、主にフランスの反発を受ける可能性が高かった。現在の両軍を比較すれば、質も量もフランス軍の方が圧倒的に有利と言わざるを得ない。ラインラント進駐はヴェルサイユ条約、そして後に調印されたロカルノ条約に明らかに違反しており、これを名目にフランス軍が侵攻する可能性も十分あり得ることだった。


 ルール占領のように一地域の侵攻にとどまらず、全面的な戦争へと発展するのは最悪のケースと言えよう。再軍備宣言をしたとはいえ未だに劣弱なドイツ軍を、今のうちに叩いてしまえとなるかもしれない。


「もしヒトラーがラインラント進駐を強行したとして、フランス軍が反応する確率はどれぐらいだ?」 


 フリッチュに尋ねられたカナリスはこう答えた。


「3割程度の可能性で最悪のケースになるかと。連合国の盟主、イギリスは黙認しましょう。であれば、フランスは単独で事を構えることになるでしょうから、そうそう簡単に侵攻するわけにはいきません」


「だが3割の確率ではあるのだな?」


「えぇ、彼らは盟主イギリスだけではなく、ソ連とも繋がってますから」


 昨年の5月にフランスとソ連が相互援助条約を結んでいる。イギリスが親独な姿勢を見せるために反発して、この条約の調印につながったと言われている。


「ノイラートも動いているのか?」


「動いているのはリッベントロップです。彼はこの事態を悟ってはいないでしょう」


 ノイラートとは現在の外務大臣、コンスタンティン・フォン・ノイラートのことであり、ヒトラー政権誕生前から外務大臣を務めていた。ヒトラー政権誕生に一役買ったことや、国際的に名の知られていることを配慮した結果、留任していた。


 しかし、ここ最近はヒトラーがノイラートの外交姿勢をあまりよく思っていないようであった。代わって出てきたのが、ヒトラーの私設外交顧問を務めているヨアヒム・フォン・リッベントロップである。


 彼はイギリスとの外交で成果を上げ、ヒトラーが期待する以上の働きを見せていた。そのため、ヒトラーもまたノイラートの意見よりもリッベントロップの意見を採用する機会が多いと聞く。ノイラートに代わってリッベントロップが外務大臣になるのではないかという意見も少なくない。


 その辺の事情も顧みて情報部は動いているようであった。カナリスの指示によるものであろうが、まったく恐ろしい男と評価せざるを得ない。味方であれば頼もしいが、敵であればこれほど恐ろしいことはないだろう。一応味方であるようだが、自信を持って断言することは出来ない。


「進駐するとしていつ頃になりそうだ?」


「ブロンベルクの周囲では動きはありませんし、この冬の季節では進駐も困難を極めるでしょうから春になってからだと思われます。ただしあまりにも遅くなることは無いでしょう。もう1つの火薬が点く前に収めたいでしょうから」


 カナリスは周りを固めるのに1か月、周到な準備に1か月程度かかる事も予想済みであった。


「分かった、内密に対策を考えよう。…で、もう1つは…スペインか?」


「えぇ、2月の選挙で人民戦線政権の誕生がほぼ確実。マヌエル・アサーニャが首相を務めることになるでしょうが、スペイン軍からこれが」


 手渡されたのはある書類であった。そこには軍上層部の次の赴任地が記載されている。


「植民地ばかりだな。どうやら人民戦線側へ入り込んでいる優秀なスパイがいるようだな」


「うちが派遣したスパイです」


「何!?」


 カナリスはすでに手を打っていた。友人のフランシスコ・フランコと秘密裡にやり取りを行っており、すでにアサーニャの近くにスパイを置くことに成功していた。


「反乱はモロッコで起こし、そのままスペイン本土へ。軍の主力は反乱軍につきます」


 政権誕生前から、政権に対する反乱が予定されているのだ。言ってしまえば予定調和なのだろう。


「反乱首謀者はエミリオ・モラが務めます。フランシスコ・フランコは彼にトップを譲るようです」


「ほぅ、意外だな」


「ご覧の通り、フランコ将軍はカナリア諸島に左遷されます。となれば、駆け付けるのに時間が多少かかります。ですから、モラ将軍に譲るようで」


 人民戦線側は、モラ将軍よりもフランコ将軍の方を危険視しているようであった。フランコ将軍の方があきらかにスペイン本土より遠ざけられていたのだから。


「ところで…」


「何かね」


「ヴァルザー特務中尉のことです」


 それまで退室はせずにいた直立不動で立っていた男に、カナリスは話題を振った。


「…」


「彼をスペインに派遣することにしたらどうですか」


「…え?」


 突然の情報部長の提案に、呆気にとられた陸軍総司令官とその居候は異口同音に反応していた。



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