心読⑥
「久遠。久遠起きてるか」
「……あ、はい」
「なんだ。最近元気無いな。ほら。ここを解け」
「えーっと」
日常は不気味なくらい普通に進んだ。クラスメイトどころか学校中で話すことが無くなったが、特に困りはしなかった。
谺が来ない分、昼の時間が空いていつもよりも早く行動もできる。
大きな事件が起こることもなく、静かに日常は過ぎていく。
ただ、一つだけ。
俺はなににも興味を持たなくなった。
風景は灰色のように色彩が薄まり、音や声はどこか遠くに聞こえる。さっきみたいに先生に呼ばれても、すぐに反応もできなくなった。家族との会話もどこかギクシャクしていた。
心にぽっかり穴が空いたみたいだった。
あの時、谺は俺がクラスで孤立したことを知っていた。それは自分のせいだと言っていた。
俺が谺の青髪を見逃すはずも無い。だから昼には来ていない。
じゃあなぜ知っていたのか。それは、俺の心から俺の記憶などを読み取ったのだろう。
そんなことを読み取らせてしまった。そのせいで谺は傷ついた。
そうだ。男にも酷いことを言った。
俺の心は、人を傷つけることしかできないのだろうか。
ただ今は、流されるままに流される今の状態がとても楽で、俺は思考するのをやめた。
人が人であるための方法を、捨てた。
じゃあ俺は、いったいなんなのだろう?
帰り道。
いつもと同じ道を同じペースで歩く。なにも変わらない。
このままではいけない、とは思う。
俺は自殺志願者では無い。なにか目標を持って生きているわけでは無いが、死ぬのは怖い。それはきっと、脳の奥底、最も重要な部分に刻み込まれた命令なのだろう。でなければ、俺はとっくにあの世だ。
それ以外の機能は、停止したかのように機能していないのだが。
ふと思いつけば、自分はどうやって歩いているのかを忘れ、生じた疑問より転倒という回答をちょうだいすることもある。あの日から、なにも無い場所で転ぶ頻度が増えたと思う。
谺とはあの日以来会っていない。見かけることすら無い。
避けられているというより、徹底的にマークされていると言い換えてもいい。俺の見えない所で俺を見て先読みして逃げている。背後にだって目が届く谺なら余裕だ。
今谺はなにを……ああ、ダメだ。
気付けば谺のことを考えている。
こんな事を考えても、どうにもならない。ただ俺自身が苦しくなるだけだというのに。
頭を振りながら意識を切り替える……と、誰かにぶつかってしまった。
「あ、すいません」
「んあ? てめえ誰にぶつかって」
そこで言葉は途切れる。
なんだろうこの切れ方は。怒り? 驚き? 疑問?
相手は俺を知っているのか?
「お前……この前谺と一緒にいた奴か」
「え、なに言って」
気付いた。
この聞き方。俺を知っているが名前までは知らず、谺の関係者として扱うセリフ。そしてこの前。昔過ぎず最近過ぎず。
あの時だ。俺が谺と友達になった日。明らかに谺の様子がおかしくなった時に会った、谺の知人。谺の言葉を信じるなら、中学生の同期。
その時、一瞬だけ垣間見えた谺の泣きそうな顔がフラッシュバックする。
同時に、心にぽっかりと空いた穴を埋めるように、怒りの感情が溢れ出した。
「お前ッッ!」
「うわっ! なにすんだよ!」
俺は反射的に手を動かし、目の前の人間の胸ぐらを掴んでいた。
理性のところではアラームが鳴っていた。しかし、怒りに支配された本能はそれを無視する。
「お前のせいで!」
「ああ!? なにがだよ!」
「とぼけんな!」
「はぁ? ……ああ、そうか。そういうことね」
「てめえ……やっぱなにかしやがったのか!」
声は動揺から状況を理解したのか一気に楽しげなものへと変わる。
そして俺も、こいつが犯人だと確信する。
「いやー? オレはなーんもしてねーぜ。少ーし、そちらさんの高校に通ってる知り合いにそれっぽいことを二つ三つ流してやっただけだ。その様子だと、随分尾ひれがついたようだな」
「ざっけんな! 谺がなにやったってんだ! あいつは、あいつは普通の女の子だぞ!?」
「それこそ笑わせんな」
「なにっ!?」
「心を読める人間が普通なわけねえだろ」
俺は心臓が凍らされたのかと錯覚する。
言われた。言ってはいけないことをこいつは言ってしまった。
怒りと同時に納得もしてしまう。俺も理解していた。本来、心を読める谺が普通のコミュニケーションを取れるはずもない。コミュニケーションできる、俺がどこか壊れている。
谺心読は普通の人間ではない。
それを理解した途端、俺の怒りも、感情も、思考も、全てがお門違いのように思えてしまって、動けなくなってしまう。
「お前もわかってんじゃねえか」
俺の手からはとっくに力が抜け、人間はなんの抵抗もなく逃れる。
俺の腕も支えが無くなったかのように、だらんと下がる。
「ま、あいつと仲良くなったのが運の尽き。お前が谺になんでそこまで執着するのかはわからんが、さっさと見切りつけるんだな」
さっき俺が掴んだことで乱れた服装を正しながら人間は喋る。
今の俺にそれを否定するだけの気力は無かった。
ただ、無言で俯くしなない。否定も肯定もしない。
「……あのさ」
そんな俺の様子になにか思うところがあるのか、人間は声をかけてくる。
こんなことで「こいつ、根は良いやつなんじゃ?」と思ってしまう俺は存外ちょろいと思う。
「どうしてそこまで谺に執着するんだ?」
「なんでって」
そんなの、
「いや普通に考えればあいつはこっちの心を読むんだぜ? 長く一緒にいればいるほど、こっちのばれたくない秘密がどんどん漏れていくんだ」
「谺は、それを他のところに流したりしない」
「そうかもな。でも、普通嫌だろ。人間は誰しもどんなに身近な相手にもばらしたくない秘密があるってもんだ。それが簡単にばれるんだぜ? 怖いだろ」
「知らねえよ」
そんなこと、知ったことか。
「お前の言うことは最もだよその通りだよ。正論過ぎて欠伸が出る。そんなこと、とっくの昔にわかってる」
「なら」
「俺が望んだからだ」
理屈なんていらない。
いつか神様に願った。
全てを一変させるような出会いがあるなら、その出会いを俺にください、と。
谺は俺の生活を一変させた。
「周りがどう思うかなんて知るか。俺が興味を持てるのは世界でただ一人、谺心読だけだ。他ならぬ俺が谺と一緒にいたいと望んだんだ」
そこまで言い切った瞬間、無くなっていた気力が、ほんの少しだが戻っていた。
「それを、お前がくだんねえことしたせいでこうなったんだろうが!」
「……ぶはっ。はははははははは! お前、変な奴だ! 正真正銘変な奴だ! 自分から心読まれるとこにいたいって、とんだドM、いや、頭のネジが外れてやがる!」
「なんだと!?」
「ひぃー、ひぃー、わ、悪い。悪かったよ。謝る謝りますよ。ひぃー、ダメだ、笑いが止まんねえ」
ふつふつと別の意味で怒りが溢れてくる俺を尻目にこいつはまだ笑う。
そろそろ殴ってしまおうか。
最終手段暴力を使うべきかどうか、とても悩んでいる時だ。
「わかったわかった。そんな睨むなって」
なにがそんな面白いのか。
言葉とは裏腹に声のトーンは高い。絶対この状況を楽しんでいる。それがまた俺の癪に障る。
「合わせてやろうか?」
……え?
「いやぁ、お前面白えから特別にオレがお膳立てしてやっても良いんだぜ? オレ、谺の電話番号知ってるし。それに、この状況はオレが作ったんだ。オレが呼べば谺はビビって絶対来る」
それは悪魔の契約__と言うには規模が小さいが__のようなものだった。
心の奥で「会いたい!」と叫びながらも、「怪しい」と考える頭もある。
「心読めなくてもなに考えてるかわかるぜ」
くくく、と喉の奥で人間は笑う。
こいつは谺とは違う。心が読めない、人間だ。
だけど……。
俺はこいつに、全てを見透かされてるような、そんな気がした。
「なんでこんな状況を作ったオレがそんなことすんのか、だろ?」
その通りだった。
「そんなの、面白いからだよ」
「面白い?」
「俺はまああれだ。谺に告白したけどふられた男だ」
ざくり、という音が体の中からした__気がした。
「そのあと心が読めること聞いたんだけど、これがまあ気味が悪い。正直、バケモンだと思ったね。しかも知られたくないことを知られたから、どうにかしてこいつの信用を落とすしかない。だから、今回と同じことをした。いや、前と同じことを今回した、というべきか」
「噂を流したのか」
「元々変な奴だからな。面白いほど早く伝わったぜ」
我慢だ。こいつを殴るのは後だ。
俺が拳を固く握ってることに気付いたのか、面白そうにこいつがまた笑いを漏らす。
……殴りてぇ。
「まあそれ以来、噂を流してはその噂がどんな風な変化を見るのが面白くてな。だから今回も、昔のふられた時のことを持ち出したりはしたが、まあちょうど良いって思ったからだよ」
「清々しいほどに最低な趣味だなクソ野郎」
「あっはっは! そりゃあいい! ……ま、なにが言いたいかってっと、俺は面白いのが好きなんだ」
噂を流すのも昔のことを持ち出すのも俺にこんなことを持ちかけるのも、全部は面白そうだから。
だが、一つ腑に落ちないことがある。
「……谺がそんなことに気づかないとでも思ってんのか」
あいつなら、谺ならきっとなにか対策するはずだ。
きっと谺なら。
「気付いただろうな。で?」
「……え」
「気付いただろう。そりゃそうだ。だけどあいつになにができる。谺は別に特別な家系の娘じゃねえんだぜ? 強いて言うなら突然変異。一般家庭に生まれた特別なコネクションは無いただの普通の娘程度の力しか持たない。心が読める? そんなもん誤差の範囲だろう」
俺の中でなにかが崩れていく気がした。
そうだ。谺はただ心が読めるだけなのだ。それだけで、俺は谺ならなんでも出来ると思ってしまった。
「だからあいつはなんにも出来ない。ただ流されるのを待つしかない。だからこの状況になってんだろう?」
その通りだった。
その通り過ぎて、欠伸が出る。
「さーてと。話はこっからだぜ」
「っ」
「で? お前はどうすんだ。呼んでもらいたいのか、そうでないのか」
俺はというと、こいつとの会話で完全に自信消失だ。
俺は舞い上がってただけだった。知ってるふりして、知ろうとしなかった。
俺は、谺心読に対しても興味を持てなかったのだろうか。
……それでも。
あいつに伝えるべき言葉は思いついていない。
俺の気持ちもまとまっていない。
そもそも俺は谺のことをなにも知らない。
……それでも、俺は。
「会いたい。会わせてくれ……ください」
「せいぜいオレを楽しませてくれよ?」
それでも、俺は谺に会いたい。