獣鬼子
「これはいったい、どうしたっていうんだ」
「旅館だったところ見てみろよ!
むちゃくちゃデッケー岩がタケノコみたいに生えてるぞ! なんだありゃあ!?」
ようやく口をひらいた慶介と隼馬、町が一変したことに驚きを隠せない。
その横で美沙が茫然と立ち尽くしている。
キツネにつままれた状態の3人の耳に、草を掻き分けて山頂へ登ってくる足音がきこえたのはこのときである。
「ああ、よかった! 無事だったんですね」
息を切らしながらも嬉々とした声が慶介たちにかけられた。
その声に振り返った慶介は思わず、
「シシギ姫……様?」
水干姿の少女に向かっていった。
「えっ? あ、はい。私はシシギ姫様の役を務める菅森千里です。
どうしてシシギ姫様の名を? 秀隆さんからは外からのお客さんだとききましたが」
千里は水干の袖からタオルを取り出して額に浮かぶ汗を拭った。
昨日とはちがい、白粉や口紅など化粧はしていない。
しかし、腰のあたりまで伸びた真っ黒な髪は前髪を上げ、頭のうしろ生え際で水引を用いてまとめられて背中へと垂れている。
間近で見ると千里の凛とした表情に惹き付けられ、目を奪われる。
それに水干を身に纏ったその姿からは毅然として高尚なオーラが感じられた。
年齢も慶介たちと変わらないようである。
「昨晩、湯田の伝説をききました」と美沙。「そんなことより、どうなっているんです? アレを見ました? 意味がわかんない。まるで私たち、伝説のように異界に――」
混乱しながら矢継ぎ早に千里に尋ねるのを遮って、ふたたび草を掻き分けてここへ登ってくる足音がきこえた、その刹那、
「なんだ、こいつは!?」
隼馬が大声をあげながら後ずさり、尻餅をついた。
隣で美沙が悲鳴をあげると、慶介は美沙を守るように体の前に腕を伸ばした。
そして咄嗟に、正面にいる千里へ叫んだ。
「危ないっ! こいつから離れろ!!」
慶介と隼馬に『こいつ』と呼ばれたそれは、人間のように見えるし、人間ではないようにも見える生き物。
人が四つ脚動物のように地面に手をついた体勢で、その格好だけを見れば人間である。
が、頭の額には大人の腕ほどもあろうかというカブトムシのような角が生え、眼窩に嵌まる眼球はカタツムリの触角のようにむにゅむにゅと伸び縮みして、この触角の先にある瞳孔がひらいたり閉じたりしてギョロリと慶介たちを見まわした。
全身をイノシシのような硬い体毛に覆われて、尻には短い尾が生えている。
「獣鬼子ッ!」
千里が短くことばを発し、腰に差した刀へ手を伸ばした、――よりも獣鬼子のほうが早い。
「きゃああっ!」
千里は悲鳴をあげた。
獣鬼子が俊敏な動作で千里へ飛びかかったのだ。千里が刀を抜刀するより先に。
額に生えた角を持ち上げるようにして、刀へ伸ばした千里の手を払い除けるとそのまま千里を押し倒して馬乗りになった。
このとき、一眼レフを装着してた三脚がなぎ倒されて、地面に顔を出していた石にレンズが当たってバギッと嫌な音を発した。
千里が仰向けに倒された拍子に、鞘から飛び出た刀が地面に転がった。
この光景に、慶介はふたたびつよい既視感をおぼえた。
『異念刀 獣鬼子 斬れ』
そのときには考えたというよりも閃きのような感覚を持ってして駆け出していた。
傍らで獣鬼子は、スズメバチのような口をひろげて千里の喉もとに噛みつこうとしている。
刀を拾い上げると慶介、獣鬼子の腕に狙いを定めると、
「うおおぉぉ!!」
渾身の力で刀を振り下ろす。
とたんに、ゴツッという感触が刀の柄を通して手のひらに伝わった。
獣鬼子の耳を劈く雄叫びと共に二の腕から下が斬り撥ねられ、白っぽい骨と鮮やかな赤身をした筋肉が剥き出しとなった切り口断面から、びゅう、と赤黒い液体が噴き出す。
その切り口と地に落ちた己の腕を見た獣鬼子は文字通り、目玉を飛び出させて絶叫している。
慶介はもう一太刀斬り込もうと刃を返した瞬間、
「ええぃ!」
馬乗りにあっていた千里が、獣鬼子の腹部を足の裏で押し上げるようにして蹴り上げた。
獣鬼子が腕から血を噴き出しながらうしろへと吹っ飛び、握りこぶし大の石がごろごろしているところへ背中から落ちた。
そして、獣鬼子は、まるでひっくり返ったゴキブリが悶えて死ぬように、片腕と足をばたつかせたのち、ぐったりとして動かなくなった。
慶介は肩で息をして、両手で刀を握った状態で、
「死んだのか、こいつ……?」
切り口から粘っこい血をぽたりぽたりと滴らせる獣鬼子を見やった。
「……らしいぞ」
隼馬が相づちして立ち上がり、ジーンズの尻についた砂ぼこりを払い落とし、
「これ、生き物か? なんていう生き物なんだ? これ見てみろって!
俺は生まれて初めて見るぞ、こんな腕!」
切り落とされた獣鬼子の、剛毛の腕を靴のつま先で突っついた。
5本の指先に鉤爪が伸び、手のひらには猫のような肉球が確認できる。
「うへっ、本物の腕かよ、これ!? 血ぃみたいなのが垂れ流れてるぞ。
うわっ、くっせぇー」
隼馬はしゃがみ込み、その腕をまじまじと観察すると、それを素手で掴めば動かなくなった獣鬼子の腹の上へ投げ捨てた。
「あなた、よく触れるわね。ちょっと! それを触った手で私に触れないでよ!!」
美沙が2歩3歩とうしろへ下がった。
「危ないところでした。ありがとうございます」
千里が起き上がり、慶介に礼をいった。
幸い千里に怪我はなく、着用している水干に獣鬼子の血は付着していない。砂ぼこりで背中が多少汚れたくらいだ。
「獣鬼子って、いったけど……まさか」
慶介は刀の柄を千里に向けて、刀を返す。
これを千里は鞘へ納めながら、
「そうです。この生き物が、おそらく獣鬼子です。私も初めて見ました」
「初めて?」
美沙が眉根を寄せ、少しばかりの怒りを含めて尋ねる。
「初めてって、あなたはシシギ姫様なんでしょ? こんな生き物は慣れっこじゃないの?」
「確かに私はシシギ姫様。けれど私はその役を務めいるに過ぎません……今回の還日祭が最初で最後のシシギ姫様なんです」
「え? どういう意味なの? あなたはシシギ姫様の役をずっと務めているんじゃないの?」
「そういや、旅館の女将さんがいってたっけ」と隼馬。「シシギ姫様の役に抜擢されたとか」
「どうやら湯田の伝説のあらましをすでにご存知のようですね」
千里は、慶介・隼馬・美沙の顔を順に見やり、
「胸騒ぎがしたんです。
桧屋旅館の主人、秀隆さんから電話があって、皆さんが三之神社にいると。
日食の5分程前だったでしょうか。そのあとプッツリと電話が切れてしまって。
いまにしておもえばあのときに怪異が起こり、異界へ取り込まれた瞬間だったのでしょう」
しごく冷静にいった。
千里の落ち着き具合が却って慶介たちへ日常生活の延長線の実感を与えてしまい、いまひとつ現実味に欠ける状況を生み出していた。
慶介にしてみればこの金環日食の観察旅行自体が非日常の香りがしていたし、遥か上空にある太陽は金環をつくりだした状態で停止している。
これだけで充分、非日常の状況である。
そこへ、湯田の伝説通りのことが起きて、
(俺たちは異界の地へ取り込まれた)
信じられない気持ちでいっぱいだし、やはり実感が湧いてこない。
けれども、
「こいつが全てを如実に語ってる。そういうことなんだな?」
慶介は、自分が斬った獣鬼子の死体を見下ろした……。