アクアリウム
秋されの涼やかなお昼ごろのことだ。
大学でコンピュータアーキテクチャIを含む二コマを消化した僕は、のそのそと帰路についていた。
野草には露が置き、道脇に植えられた木々は鮮やかに紅葉している。
僕の家は大学から五分ほど歩いた先にあるのだが、それがまた実に古ぼけたアパートなのだ。いつ倒壊してもおかしくはない。田舎から上京して一人暮らしをしている。
手にポリ袋を提げている。中身は五百ミリリットルのミネラルウォーターと即席麺だ。悲しきかな、これが今日の昼食なんだ。僕の財布には忌むべき氷河期が到来している……。
ポケットに片手を突っ込んで歩いていると、ふいに冷たい感触が僕を襲った。
頭上を仰いでみると、雲が怪しげに黒ずんでいるのが分かる。突っ込んだ手を宙に伸ばしてみると、ポタポタと皮膚が冷たいものを感じ取った。
周囲に目を向けた僕は、道の端に空き家のようなあばら屋を発見した。小走りに軒下に避難する。
雨が降りだしたのはそのすぐ後だった。秋雨。糸のようにしとしとと降りしきっている。
あばら屋の茶透けた柱に背を預けながら、ぼんやりと雨が降りやむのを待つことにする。
まどろむような時が流れて、楓の葉が散っていくのを静かに眺めていた。
弱いが長く、雨が紗幕のように視界を遮っていく。
雨が降りやむ頃には、道のあちこちに小さな水たまりができていた。
再び帰路につこうと一歩踏み出した時、奇妙な音を耳にする。
ピチャピチャ。
僕は思わず眉をひそめた。聴覚が水をもてあそぶようなピチャピチャという音を捉えている。
水たまりで子供が遊んでいるのか? しかし、あたりに人気はない。元より今は真昼なのだ。平日の正午。午前で講義の終わった大学生だからこそ出歩ける時間帯……。
不思議に思っていると、ふいに日差しに反射するものがあった。それはちょうど水たまりの上からで、何やら不気味に跳ねているのが分かった。
とにかく、跳ねている。
跳ねているものが、水たまりの上にある。
僕はたまらなく好奇心を覚えて、そっと近づいてみた。できたばかりの水たまり。地面に穿たれた穴……。微妙に濁っており、太陽の光が水面に溶け込んでいる。
初めに目にしたものは、赤と緑に輝く鱗だった。夜のネオンのようなきれいな色彩だ。後方に生えた尾びれはひらひらとそよいでいて、浮かび上がった眼球はビー玉のようでもある。
そいつは二、三匹の群れをなして泳いでいた。
「……魚?」
僕はおずおずと、水たまりを泳ぐ魚の群れを凝視する。
それは何も、一つの水たまりに限定された現象ではない。周囲を見渡してみれば、ほとんどの水たまりに例の魚が目撃された。
そして僕は、その魚を知っている。
その魚には、魚らしからぬ鋭い牙がある。
「ピラニアだ……。ピラニアが水たまりで泳いでいるぞ。日本にピラニアなんているのか? ピラニアはアマゾン川といった熱帯地方に棲息している……」
先ほど跳ねていたのは間違いない、ピラニアだ。水たまりから顔を出して、飛び魚のように高く跳ねたのだろう。
問題なのはなぜピラニアが、日本の、それもさっき出来たばかりの水たまりにいるのかってことだ。
これは由々しき問題だ。
誰かが放流したのか? ピラニアは目視できる限り三十匹はいる。水たまりの中でしたたかに棲息している。
雨水は平たく言えば淡水である。そしてピラニアもやはり、淡水魚だ。餌とかそういった問題はともかく、棲息できる条件はクリアしている。
そこにベビーカーを押した三十代くらいの夫婦が通りかかった。
僕はとっさに、「危ない!」と声をはりあげたものの、夫は不愉快そうに僕を見つめるだけだった。「はぁ」と気のない返事をしている。表情に僕に対する不審が宿っているのがわかった。
「おい、僕の言葉が聞こえないのか? 僕は危ないといったんだ。ここには危険な生物が棲息している。自ら死期を縮めるほどあんたらはアホなのか?」
二人は狂人を見るような目で僕を眺めている。
そして二人は僕を無視することに決めたようだ。僕からやや距離をおきながら、何気ないふうに道路を横断しようとしている。
その時だ。
その時の光景は……そう、まるでオーロラのようだった。極彩色のオーロラ。魚の尾びれが鮮やかに陽光に反射して、光の帯のようになっている。
それが二人を覆うように織られていた。
「あぁああ……」
女の悲鳴はまたたくまにかき消され、飛び散る鮮血や四散する肉片がぼたぼたと地面に落下した。
大量のピラニアに襲われた女は、全身をかきむしるようにして倒れた。衣服は破れ、肉は裂け、喉笛や指先にはいまだ、ピクピクとピラニアが噛み付いたままだった。
みかんを握りつぶすと果汁が滲み出るように、女性の体は血で赤く染まっている。
夫は慌てて妻を抱き上げるが、すぐさまピラニアの洗礼を受け、全身を喰らわれてしまう。体中にピラニアを生やして、男は物言わぬ死体となった。
このピラニアは人を襲うのか?
額に冷や汗が一筋垂れ、手が小刻みに震えている。
女性を急襲したピラニアは以後、地面に激しく打ち付けられた。まるで浜に打ち上げられた魚のようでもある。エラ呼吸ができず、今にも死にそうだ。
水たまりのピラニアたちは、己の命を省みることなく人間を襲っているようだった。その強靭な牙を人の皮膚に立てかけようとしている。
「とにかく、ここから離れないと」
ジリジリと後退しようとするが、視界の端にコロコロと転がるベビーカーを目視する。
ベビーカーにはガラガラを持った赤ちゃんがキャッキャとはしゃいでいるようだった。
僕は何か、絶対に成し遂げねばならぬ使命というか、神からの啓示を受けた気分だった。
赤ん坊は祝福されなければならない。
水たまりの合間をきれいに抜けるベビーカーに対し、僕は這うように水たまりと距離をおきながらベビーカーを追跡する。
しかしながら、警戒すべきは水たまりだけではないようだった。
二つの死体が地面に転がっている。溢れ出る血。
血だまりからゴボゴボと煮立ったような音がする。
生成されている。血液中の物質一つ一つが別の物質に変換されようとしている。
それは明らかな形を持とうとしている。
血だまりから浮かび上がったのは、真っ赤な色をしたピラニアだった。口からのぞく牙は鋭利で、表面はぬめぬめとしていた。
血色のピラニアはまっ先に僕に飛びかかってきた。
とっさに着ていたコートをばっと前に広げた。ウール製のしなやかなやつだ。
ピラニアが突き刺さる感触こそあれど、貫通することはない。
水分が。
「水分が、ピラニアを形作るのか?」
水分によって形成されていく。雨水と血液。ピラニアは既存の体系から大きく外れた繁殖方法を模索している。
地面は微妙な傾斜を伴っている。
ベビーカーはゆるやかに滑っている。
僕はコートを捨て去り、ベビーカーを追った。赤ん坊は僕の気も知らず、楽しそうにガラガラを揺らしている。
ベビーカーの先には果たして、河川敷があった。巨大な運河。堤には草木が豊かに生え、すすきが風に揺れるのどかなところだ。
しかしそうした平穏な光景は、すでに過去のものとなっているようだった。
世界はなんの前触れもなく変容する。
水。
生命の源。
全にして一なるもの。
水を支配できる生物が、生態系の頂点に立つことを許される。
人類は地上の覇権を別の種に明け渡すことになるのかもしれない。
大河には水面をうめつくすほどのサメが跋扈していた。首と胴の離れた死体。草木は毒々しい真紅に染まっている。サメは手あたり次第に近くにいる人間を襲っていた。
野放図のようでもあり、地獄絵図のようでもある。
ベビーカーは今にも川に突っ込もうとしている。
逡巡する気持ちが少し湧いてくるものの、やっぱり走った。
もう少しなんだ。距離幾ばくもない。十分手の届く範囲にある。
と。
僕は今になってぶら下げていたポリ袋に異変を覚えた。
ゴソゴソと動いているのを感じる。
「わっ!」
僕は気味が悪くなってポリ袋をほっぽり出した。
落下したポリ袋は地面に投げ出されてしまう。
僕は慄然とした気持ちでポリ袋を凝視した。
ポリ袋からはゴトリと即席麺が顔を出している。そして、五百ミリペットボトルもまた顔を出している。ミネラルウォーター。
その中には、ミニチュアのように小型化したワニが入っていた。
まるでペットボトル船のようだ、と思った。
ガリガリと吻や歯でペットボトルに穴を開けようとしているのが見て取れる。角質化した丈夫な鱗と強大な顎……。
デボン紀、という時代がある。
古生代の中ごろで、今から約四億二千万年前の時代区分だ。
デボン紀は魚類の種類や進化の多様性、出現する化石の量の多さから、魚の黄金時代とも呼ばれている。魚類が地球の覇権を握った時代なのだ。
もし魚類がかつての繁栄を懐かしみ、再び自分たちの時代を創造すべきと企図したとしよう。
その場合真っ先に排除される種は人間だ。人間こそが生物ピラミッドの頂点に君臨している。
先刻のピラニアもそうだ。あれは自分の命よりも人類への攻撃を優先している節がある。自ら水中から飛び出して、人間に危害を加えようとしている。
それはあたかもハチやアリのような社会性動物じみた狂気さがある。超個体。個人の意向や生存欲求とは関係なく、種全体の意志によって行動する。
玉座は今にも奪還されようとしているのかもしれない。
「それでも」
僕は何も考えずただ走った。
走って、走って、走った。
ベビーカーまではもう一メートルもない。
あと少しなんだ。
あと少し……。
死ぬような思いでベビーカーに追いすがった僕は、やっとのことでベビーカーを止めることができた。堤防すれすれまでベビーカーは進行しており、あとすこし遅ければサメの餌食になっていただろう。
僕はそっと赤ん坊を抱き上げた。
赤ん坊は無邪気に笑っている。
この子は次世代を担う大切な卵だ。
思いは受け継がれていく。
今の世代から次の世代、そしてまた次の世代へと連綿と受け継がれていく。
赤ん坊は祝福されなければならない。
赤ん坊の頭を撫でながら、僕はそっと安堵の息を漏らした。
ヒッチコックの「鳥」をイメージして執筆した作品です。